夏の終わりに | |
平野 厚 | |
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今日は、塾の夏期講座の初日だ。これから三週間、日曜日を除いて毎日、ここに通わなくてはならない。夏期講座が終わるとすぐに二学期が始まるので、ぼくの夏はもう終わってしまったようなものだった。
それというのも、来年に迫った私立中学受験のためだ。ぼくは別に私立中学に行きたいわけではなかったが、おかあさんが受験に熱心なのだ。
「公立中学にいったら、後で苦労する」
というのが、おかあさんの口癖だ。私立の中高一貫校がいかに勉強にいい環境で大学受験有利かを、塾の説明会で繰り返しインプットされて洗脳されてしまっているのだ。
「高校受験がないから、クラブ活動をやるのにもいいのよ」
おかあさんは、ぼくの反対を抑え込むかのように付け加えた。
ぼくの友だちで私立中学を受験するような奴は、誰もいない。来年みんなと離れ離れになると思うと、心の中がシーンと沈み込むような気分だった。
夏期講座は、午前中が二時限で、午後に一時限の授業がある。朝は九時から始まるので、そんなに早く起きる必要はなかった。もっとも、ぼくの地域では毎朝ラジオ体操があるので、どっちみち早起きしなければならなかったけれど。
ぼくは授業を聞くふりをしながら、ひそかにインターネットの高校野球の中継をスマホで聞いていた。
教壇では、算数の先生が熱心に文章題の説明をしている。なんだか眠くなりそうで、こっそりイヤホンを耳につけている。
やっと午前中の授業が終わった。
(やれやれ)
と、思ったけれど、午後もまだ授業がある。
昼休みに、ぼくは教室でおかあさんが作ってくれた弁当を食べた。
「栄養満点の愛情弁当よ」
朝、お弁当を渡す時に、おかあさんは自慢していた
「じゃあ、みんな、気をつけて帰れよ」
「さよならあ」
午後の授業が終わって、ぼくは大きな声で先生にあいさつすると、塾をすぐに飛び出した。
塾までは、ぼくはバスで通っていた。塾の近くのバスの停留所へ、走って行った。
バスを待つ間、帰りの時刻表を暗記する。3時台は7分、23分、39分、51分の四本だ。
こういうことに関するぼくの記憶力は抜群だ。なんでも一発で覚えられる。
でも、どういうわけか、その力は勉強にはあまり発揮されなかった。塾での成績は、志望校合格にぎりぎりのラインだった。
やがてやってきたバスに、ぼくは乗った。バスの中はガラガラだったので、すわることができた。
家の近くのバス停から家までは、また走って帰っていった。
(なんとかぼくの夏休みを取り戻さなくては)
という気持ちでいっぱいだった。
家につくと、手さげかばんを玄関に置いて、そのまま家を出た。すぐに、一緒に遊べる友だちを探しにいった。
近くの公園に行った。夏期講座が始まらない昨日までは、みんなとそこで遊んでいた。ゴムボールを使った草サッカーをやっていた。三角ベースの野球もやった。水風船のぶつけ合いもした。
でも、今日は公園には誰もいなかった。あたりはガランとしている。
公園のそばのタカちゃんの家にいってみる。
インターフォンを押した。
「はい」
タカちゃんのおかあさんの声がする。
「石川ですけど」
「あら、タカシはやまびこプールへ出かけているのよ」
やまびこプールというのは、相模川沿いにある町営のプールだ。歩いて行ったら三十分はかかるので、今からではもう遅い。
「そうですか」
しかたがないので、今度はヤスくんの家にいってみた。
でも、ヤスくんも家にいなかった。家族の人もみんな出かけているのか、インターフォンに応答がなかった。(やっぱり、ぼくの夏休みは終わってしまったのか)
ぼくは、すっかりがっかりしてしまった。
夕飯を食べてから、花火を持ってあの公園に行ってみた。
うれしいことに、いつものようにみんなもやってきた。こんな夜になって、やっとみんなと再会できたのだ。
「よう」
ぼくが声をかけると、
「やあ」
と、タカちゃん。
「塾はどう?」
と、ヤスくんがたずねた。
「ボチボチでんな」
と、ぼくは答えた。
暗くなった公園で、みんなで花火をやりながらおしゃべりをした。ぼくの夏の名残りが、確かにここにはあった。