現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

月曜日には、自転車に乗って

2020-03-16 08:45:11 | 作品
 午前七時二十分。樋口正和は、まだベッドの中でまどろんでいた。
「それじゃあ、行ってくるわよ」
 ドアの外から、かあさんの声が聞こえてくる。
 でも、正和はかあさんに返事をしないで、そのままうとうとしながら、九時近くまでベッドを出ようとしなかった。
 今日は月曜日。学校は、もうとっくに始まっている。
 ようやく起き上がった正和は、のろのろとパジャマをぬいだ。そして、洗いざらしのジーンズとポロシャツ、それにブルーのサマーセーターに着替えた。
 自分の部屋を出て、ダイニングキッチンへいった。流しの横のオーブントースターに、食パンを二枚入れて一枚にはスライスチーズを載せてスイッチをひねる。
 パンが焼ける間に、カーテンを開け放して、ベランダに通じるガラス戸から部屋の中へ、明るい日の光を入れた。
 正和の通っている中学校は、そのベランダから見ることができる。なにしろこのマンションからは目と鼻の先、ほんの五十メートルほどしか離れていないのだ。
 ガラス戸を開ければ、授業の始まりと終わりを告げるチャイムはもちろん、校内放送や楽器の音、さらには休み時間のざわめきまでが飛び込んでくる。マンションから校門までは、歩いてたったの三分だった。
 でも、月曜日にはその距離がすごく遠くに感じられた。

 中二の正和が毎週月曜日に学校を休むようになってから、もう三カ月がたとうとしていた。
もっとも、時々休むようになったのは二学期の初めのころからだから、そこから数えれば半年以上ということになる。
 月曜日を休むことには、特にはっきりした理由はなかった。きっかけは、当番で早く行かなければならないのに寝坊してしまったり、国語の宿題を忘れていたことに朝になって気付いたりといった、ささいなことにすぎない。
 こうしたことがいく回か重なっているうちに、だんだん月曜日に行くのが嫌になってきたのだ。
 月曜日を休みたくなる気分は、その前日、日曜日に目を覚ました瞬間から始まる。起きた時にその日が日曜日だと気づくと、とたんにゆううつになってしまう。そして、その日一日、何をしていても、翌日が月曜日であることを、つい考えてしまう。すると、口の中が苦くなってくるような気さえするのだ。
 正和は、こうして毎週日曜日を、ブラブラとしょうもなく過ごすことになる。
 日曜日の夕ごはんを過ぎると、ゆううつな気分はピークに達する。正和は、もうぼんやりテレビを見る以外に、何の気力もなくなってしまう。そのくせ、ベッドに入っても、いつまでも目がさえて、なかなか眠れなかったりするのだ。
 しかし、いざ月曜日になってズル休みをしてしまうと、今度は次第に学校のことが気になり出す。そして、月曜日の夕方にはすっかり元気になっていて、翌日からは、他の生徒たちと変わらずに学校へ行けるのだ。
正和は、けっして学校が嫌いなわけではなかった。成績もまあまあだし、体も大きくスポーツも得意だった。だから、月曜日を除くと、他の生徒と変わりなく学校生活をおくれていた。

 しばらくの間、正和が月曜日にズル休みをしていることに、かあさんはぜんぜん気づかなかった。
 正和のかあさんは、薬品会社の研究所で検査技師をしていた。正和よりも早く家を出て、毎晩七時過ぎに疲れきって帰ってくる。とても、正和の様子に十分注意する余裕などない。
 かあさんが気づいたのは、二年の二学期の通知表をもらってからだった。欠席数が8にもなっていたのだ。ぜんぜん心当たりがなかったから、かあさんがびっくりしたのも無理はない。
「どうしたの、いったい?」
 かあさんは、努めて冷静に正和にたずねた。
「えっ、ああ。ちょっと行きたくなかったんだ」
 正和は、悪びれずに答えた。
「ズル休みして、どこへ行ってたのよ」
 かあさんは、少し感情的になってきた。
「ずっとうちにいたよ」
 正和は、平気で答えた。本当にうちにいたのだ。
「嘘、おっしゃい」
 かあさんは、ついにヒステリックな声を出した。
 でも、そういわれても、本当なんだからしかたない。正和は肩をすくめるだけで、それ以上弁解しようとしなかった。

 その後も、正和は月曜日に休み続けた。
 困りはてたかあさんは、担任の先生や校長先生に、さらには、病院の精神科のお医者さんにまで、相談にいったらしい。
 そして、なだめたりすかしたりして、なんとか正和を月曜日に学校へ行かせようとした。
 ところが、かえって正和は、それまでは時々休むだけだったのが、毎週月曜日にきっちり休むようになってしまった。
かあさんにヒステリックに行くようにいわれればいわれるほど、ますます月曜日には行きたくなくなってしまうのだ。
 とうとうかあさんは、正和が月曜日に休んでも、何もいわなくなった。もしかすると、お医者さんか誰かに、そっとしておくようにとアドバイスされたのかもしれない。
 サボり始めたころの正和は、月曜日には一日中、ただひたすら眠り続けていた。昼近くに起きて朝昼兼用のごはんを食べると、再びベッドにもぐりこむ。完全に起き出すのは、夕方の五時近くになってからだ。自分でも感心するくらいによく眠れた。
 起きている時も、ワイドショーやテレビドラマの再放送を、ただぼんやりとながめているだけだった。
 しかし、三学期に入ったころから、寝ている時間はしだいに短くなってきた。今では、九時近くには完全に起きてしまっている。

 正和は、スマホをつないであるアクティブスピーカーのスイッチを入れると、今お気に入りのアルバムをスマホでストリーミングした。そして、好きなアイドルグループのヒット曲をバックにして食べ始めた。
 朝食には、いつもトースト二枚(一枚はチーズ載せ)とハムエッグに野菜サラダを食べる。それに、大きなコップ一杯のミルクと紅茶を飲む。
  野菜サラダはかあさんが出かける前に冷蔵庫に入れておいてくれたものだが、ハムエッグは自分でフライパンを使って作った。正和の料理の腕は、ここのところ確実に上がっている。
正和は、朝食を食べながら、今日一日をどう過ごすかを考えていた。
 午前中は、音楽を聞きながら、読みかけのライトノベルを読む。
 昼ごはんには、チャーシューとほうれんそうとメンマと二つに切ったゆでたまごを入れて、インスタントラーメンを作ろう。初めのころは、カップ麺を食べていたが、袋麺の方が断然おしいしいことが分かってからは、かあさんに頼んでいろいろな物を揃えてもらっている。
午後は、数学と英語の問題集を一時間ずつやった後、かあさんのパソコンにつないであるゲーム機でロールプレイングゲームの続きをすることにしよう。
 おなかがすいていたので、朝食はあっという間に食べ終わってしまった。
 フンフン、フンフンフン、……。
 正和は鼻歌を唄いながら、フライパンとお皿、それにティーカップを、ながしで洗い始めた。まだ汚れがこびりつかないうちに洗ったので、すぐにきれいになった。

 その日の正和の計画が狂ったのは、昼ごはんを食べ終わってからだった。おなかがいっぱいになったら、急に腹のまわりについたぜい肉が気になりだしたのだ。学校をさぼるようになってから、さすがに運動不足気味だった。
 正和は、すぐに洗面所のヘルメーターにのりにいった。
(やっぱり)
 ヘルメーターの針は、六十キロを軽くオーバーしている。気づかないうちに、三キロ以上も太っていた。
 正和は居間に戻ると、ソファの下に足を入れて腹筋運動を始めた。
「いーち、にーい、…」
 ところが、二十回もいかずに、あっさりダウンしてしまった。前は、三十回は楽にできたのに。気がつかないうちに、体力もだいぶ落ちている。
 ハアハアハア、…。
 正和は、じゅうたんに寝転んだまま、荒くなった呼吸を整えていた。
 と、その時、居間の隅に置いてある室内自転車が、正和の目に入った。
 その自転車には、「コンピューターサイクル」などという、大げさな名前がついている。もともとは、中年太りを解消するために、かあさんが数年前に通販で購入したものだ。
 でも、すぐにあきてしまったらしく、今では部屋のすみでほこりをかぶっていた。

 正和は、「コンピューターサイクル」にまたがってみた。
 サドルやハンドルの高さが、小柄なかあさん用に調節してある。もう身長が百七十センチ近くある正和には、ぜんぜん合わなかった。
 コンピューターサイクルのハンドルには、二十センチ×三十センチぐらいの四角い操作パネルがついている。正和は取扱い説明書を見ながら、いろいろな機能を試してみることにした。
 コンピューターサイクルのコースには、「テスト」と「トレーニング」とがあった。
 まず、「テスト」コースを選んでみる。
 正和は、右の耳たぶにコードのついたクリップを取り付けて、スタートボタンを押した。
 ピッ、ピッ、ピッ、…。
 いきなり規則正しい電子音が鳴り出した。
正和は、あわててペダルをこぎ始めた。
 こぐペースが、合図より速すぎたり、遅すぎたりすると、操作パネルのアラームが点滅する。
 正和は、うまくこぐスピードを調節してアラームが出ないようにした。
パネルには、心泊数と経過時間も表示されている。
 ペダルをこぐ負荷は、はじめは軽かったが、だんだん重くなっていった。そのため、正和の心拍数は、時間の経過とともに上がっていった。

 ピピピピピ。
 スタートボタンを押してからきっかり十分後に、「テスト」は終了した。
最終的な正和の心泊数は百四十を越え、呼吸はすっかり荒くなっていた。
パネルの表示が変わった。
「最大酸素供給量、2・27。最大消費エネルギー、105ワット。総合評価、『ヤヤオトッテイル。モットガンバロウ』」
 正和は、ディスプレーに表示された「テスト」の結果を見て、がっくりしてしまった。
(自分の体力が平均よりも劣っているなんて!)
 その日の午後の予定を変更して、正和は本格的にコンピューターサイクルに取り組むことにした。
 「トレーニング」コースに設定すると、ペダルの重さやトレーニング時間を自由に変えることができる。
 正和は、重い負荷で短時間やったり、軽い負荷で長時間こいだりと、変化をつけながらトレーニングを続けた。
 けっきょくその午後は、ずっとコンピューターサイクルをこぎつづけた。ハンドルの横に書見台がついていてスマホや本を読みながらできるし、テレビも正面にあるので、あきずにこぎ続けられる。
 とうとう最後には、両足がパンパンにはってしまったけれど、久しぶりにたっぷりと運動をした充実感が得られた。

 正和のトレーニングは、月曜日以外にも続けられた。
毎日、かあさんが帰ってくるまでに、最低二時間はコンピューターサイクルをこいでいる。いったんはまった時の正和の集中力は、なかなかのものだった。正和は帰宅部だったから、コンピューターサイクルをやる時間はたっぷりあった。
 かあさんに冷やかされないように、トレーニングのことは秘密にしていた。
 でも、夕食の時にみせるすごい食欲だけは隠せなかった。体育系の部活に入ったわけでもないのに、今までより食べるのが、かあさんには不思議だったろう。
 正和は、トレーニングをやるときには、いつも耳たぶにコードのついたクリップを取り付けて心拍数をモニターしながらやっていた。
初めは、負荷を軽く設定して回転数をあげてこいでいく。心拍数は、初めの七十台から徐々に上がっていく。でも、負荷が軽いから、足はまだ軽い感じだ。
 心拍数が、百を越えたあたりで、今度は負荷を重くする。そのため、回転数はガクッと落ちる。それでもなるべく落ちないようにしてがんばってペダルをこいでいく。
 心拍数はますますあがっていく。今度は回転数を一定にしながら負荷を徐々に重くしていく。
 心拍数が百三十を越えたあたりで負荷をそれ以上あげないようにする。そして、心拍数が百四十を超えないように注意しながらペダルをこいでいく。
 スマホで調べたところによると、正和の年齢と安静時の心拍数からすると、乳酸値を上げないで長くこいでいくのには、そのくらいの心拍数がいいのだそうだ。
 トレーニングが終わっても、しばらくは軽い付加でこぎ続けて安静時の心拍数に戻す。
それから、毎日一回だけ「テスト」に設定して、今までのトレーニングの成果を確認することにしていた。そして、その結果をグラフに記録していった。

 トレーニングの成果は、着々と上がっていた。「テスト」のグラフは、上下に折れ曲がりながらも全体としては確実に右肩上がりになっていく。
 トレーニングは意外に楽しかった。ペダルをこぎながら、イヤフォンで好きな音楽を聴けるし、雑誌やマンガを読むことだってできる。それにもあきたら、テレビを見ればいい。
 心拍数を百四十以下に保って長くこぐのも楽しかったし、時には負荷を重くして、心拍数を百七十ぐらいまで上げて、全力でもがいてみた。
 百七十以上に心拍数を上げると無酸素領域に入ってしまって、脂肪を燃焼させる有酸素運動にならないので、それ以上はあげないように注意していた。
 トレーニングの成果はすぐに上がった。コンピューターの診断によると、正和の体力は、一週間後には「フツウ」の領域に入ったのだ。
 トレーニングの成果は、それだけではなかった。体もずいぶん引き締まってきた感じがしてきた。体重はあまり変わらなかったけれど、体脂肪率はかなり下がってきたに違いない。家の体重計では体脂肪率が測れないのが残念だった、
 成果が出ると、トレーニングをするのにも励みになる。正和はトレーニング量をだんだん増やしていった。
 初めは夕方の二時間だけだったが、土曜や日曜など家にいるときには、かあさんの目を盗んでコンピューターサイクルに午前中にもまたがることもあった。そして、正和だけがお休みの月曜日には、一日中自転車に乗っている。
 練習量の増加は、着実に成果として現れる。三週間後には、「テスト」の結果は、「ヤヤスグレテイル」に達したのだ。

 正和がトレーニングをしていることをかあさんに話したのは、春休みになってすぐのことだった。
 ある晩、夕食のときに、正和はかあさんにいった。
「おかあさん、新しい体重計が欲しいんだけど、…」
「体重計なら、うちにもあるじゃない」
 かあさんは、おかずのハンバーグをナイフで切りながら答えた
「あれじゃだめなんだ。体脂肪率が測りたいから」
「ふーん。体脂肪率なんて気にしてるんだ。マサちゃん、あなた太っていないじゃない」
 かあさんは、からかうような調子で正和にいった。
「そうじゃなくってさ。トレーニングの成果が知りたいんだ」
「トレーニングって?」
 かあさんは、けげんそうな表情を浮かべていた。
「じつは、おかあさんのコンピューターサイクルをやってるんだ」
「あら、そうなの。そういえば、置き場所が変わったと思ってたけど。それで、その体脂肪率を測れるのって、いくらぐらいするの?」
「スマホで調べたら、三千円ぐらいで買えるみたいだけど」
「なーんだ、そんな安いの」
 かあさんは、値段を聞いて拍子抜けしたみたいだった。

 次の休みの日に、かあさんは正和を家電量品店に連れていって、正和の気にいった体脂肪測定機能つきの体重計を買ってくれた。
 それからは、正和はグラフに体脂肪率も記録するようになった。
 完全主義者なところのある正和は、数字の上昇(体脂肪率は下降)を楽しみに、トレーニング量をだんだんエスカレートしていった。
ちょうど春休みになったこともあって、次第に朝から晩まで断続的にコンピューターサイクルによるトレーニングをこなすようになっていた。
 もうかあさんにも話してあるので、トレーニングは大っぴらにやることができる。連日のトレーニング量は、トータルすると六時間を超えていた。
 そして、正和にもともと自転車競技の素質があったのか、練習を始めて六週間後には、あっさりと「スグレテイル」体力の持ち主になってしまったのだった。
 体重こそ前とあまり変わらなかったが、体脂肪率は15%を切っていた。全身が引きしまり、足の筋肉が盛り上がってズボンがきつくなったのが自分でもわかった。この六週間に練習した距離は、二千キロメートルを越え、ゆうに本州を縦断してしまっている。
 正和はトレーニングの結果に満足していた。
 でも、これ以上トレーニングをエスカレートして、家の中でコンピューターサイクルをこぎ続けることには、さすがに物足りなさを感じるようになっていた。

 サイクリングの体力に自信がついてくると、正和は、自分のサイクリストとしての能力を、実地にためしてみたくなってきた。
 サイクリング用の自転車は持っていた。中学の入学祝いとして、母方の祖父に多段変速のスポーツタイプのものを買ってもらっていたのだ。もっとも、最近はめったに乗る機会もなく、マンションの自転車置場でカバーにおおわれているだけだった。
 さっそく正和は、自転車を久し振りに引っ張りだしてみた。
 自転車はロードレース用のものとは違って、がっちりと頑丈なフレームをしていて重そうだった。
でも、変速機は、一応前六段の後ろ三段で十八段変速の物がついている。
 正和は、さっそくサドルにまたがるとペダルをこぎ始めた。
 初めは、ギアを軽くして回転数をあげてこいでみた。徐々に、ギアを重くしても、できるだけ回転数を維持するようにがんばる。それにつれてスピードがビュンビュンあがっていく。最近長く伸ばしている髪の毛が、風になびいて気持ちが良かった。
 正和は適当なところで角を曲がりながら、マンションのまわりを大きく一周してみた。でも、正和の家の近くはほとんど平坦で、坂がないのが少し物足りなかった。
 正和は、今度は角をまがらずにできるだけ直進してみた。車を避けて裏道を通っていたので、すぐに行き止まりにぶつかってしまった。
 正和は、バス通りに出て見ることにした。そこは、ひっきりなしにトラックや乗用車が走っている。正和は緊張しながら、道の左隅ぎりぎりをキープして自転車を走らせていった。

 新学年が始まった。正和も欠席数は多かったものの、無事に三年に進級できていた。
 ある日、正和は、同じクラスの佐々木修一の席までいって話しかけた。彼とは、二年のときも同じクラスだった。
「よお、修一さあ。おまえ、サイクリングやってるって、前にいってたよなあ」
「うん」
 修一は、読んでいた自転車競技の雑誌から顔を上げた。
「サイクリングで、どのへんへ行ってるんだ?」
「どのへんって、まあ、普通は日帰りで行ける所だけだよ」
「ふーん」
「おまえもサイクリングやるのか?」
 修一は、意外そうな顔をして聞き返した。
「えっ。ああ、ちょっと始めたばかりなんだ。日帰りって、どこへ行くんだ?」
「ほら」
 修一は、答の代わりに、ボロボロになった一枚の地図を広げてみせた。
「通った所には、赤線で印がつけてあるよ」
 東京を中心に、びっしり書きこまれた赤線は、関東地方だけでなく、伊豆や山梨あたりにまで伸びていた。
「すげえなあ」
 正和は、感心しながら地図を手に取った。

 その後も、正和は、サイクリングの話を修一とするようになった。
「夏休みには、東北を一周してみたいんだ」
 ある時、修一はちょっと自慢そうにいった。
「東北一周?」
「そう、三週間ぐらいかかるけどね」
「そんなの、学校でOKが出るのか?」
「もちろん、黙って行くさ」
 修一は、ちょっと声をひそめていった。
「家の人はどうなのさ?」
「うちの親父は大丈夫。おれと同じで、学生時代にサイクリングやってたんだから」
「ちぇっ、いいなあ」
 正和は、うらやましそうにいった。
「それより、おまえ、自転車の修理、できるのか?」
「それが、ぜんぜんなんだ」
 正和は、正直に答えた。
「ひでえなあ。それでサイクリングに行くつもりだったのか」
 修一は、すっかりあきれていた。

 正和は、さっそくその日の帰りに修一の家に寄らせてもらった。サイクリングや自転車の整備に関する本を借りるためだ。
「そうだなあ。まあ、前輪と後輪のパンクの修理と、チェーンの長さの調整ができれば、まあ一応いいんじゃないかな」
「ふーん」
 そういわれても、正和にはピンとこなかった。
「他にも、ブレーキの修理とか、折れたスポークの交換とか、いろいろあるけど。まあ、だんだんに覚えていけばいいよ」
 修一は自分の自転車を使って、パンクの修理やパーツの交換の方法を実地に教えてくれた。
「じゃあ、やってみて」
 一通りの手順をやってみせてから、修一はいった。
「うーん、できるかなあ」
 正和は工具を片手に、前輪を取り外しにかかった。
「そうそう、もっと深くつっこんで」
 修一が、そばからいろいろと指示を出してくれた。正和は、油や埃で手を汚しながら、自転車に取り組んでいった。
 その日から毎日のように、今度は自分の自転車を持ち込んで、修一の家に寄るようになった。そして、一通りの自転車の修理方法をマスターしていった。

 毎晩、正和は、初めてのサイクリングについて、計画を立てるようになっていた。中間試験が終わったら、すぐにどこかへでかけるつもりだった。おかげで、試験勉強のほうは、すっかりおろそかになっている。
 放課後には、毎日のように、修一と近所のサイクルショップに寄っている。
「こんちわーっ、今日はお客さんを連れてきたよ」
 初めて店へ行った時、修一は店のおやじさんに正和を紹介してくれた。
 おやじさんは、タオルで手を拭きながら店の奥から出てきた。白髪混じりの親切そうな人なので、正和はホッとしていた。
「よろしくお願いします」
 正和がペコリと頭を下げると、
「やあ、いらっしゃい。シュウちゃんの友だちなら大歓迎だよ」
と、おやじさんはニコニコしながらいった。
 ここで、ヘルメット、水筒、空気入れ、雨具、バッグなど、サイクリングに必要な物をだんだんにそろえていった。修一は、正和のためにおやじさんと交渉して値段をねぎってくれた。さらに、中古品をただでもらったりもしてくれている。そのおかげで、サイクリングへ出かける準備は、すっかりできあがった。
 しかし、肝心の行先が、なかなかひとつに絞れずに迷っていた。
湘南のような海辺を走るのも、気持ち良さそうだった。その一方で、深大寺や井の頭みたいな公園にも行ってみたい気持ちもあった。また、江戸川や荒川のような川沿いの道を走るのも魅力的だった。
正和は、色々と迷ってしまって、なかなか行き先が決められなかった。

 ある日、正和は学校から帰ると、いつものようにエレベーターホールの郵便受けをチェックした。ダイレクトメールやガス料金の通知書などと一緒に、一通のはがきが入っていた。
「拝啓 新緑の候、皆様お変わりもなくお過しのこととお慶び申し上げます。
 さて、この度、拙宅の新築にともない、左記へ転居致しましたので、お知らせ申し上げます。
 お近くへお越しの節は、是非お立ち寄り下さいます様、お待ち致しております。
 先ずは簡単ながら御通知申し上げます。   敬具
 平成××年五月
  新住所  〒一九X-XXXX
東京都八王子市XX町五丁目四番地七号
           森下進一郎
               由美子
                真理
  電話  〇四二(XXX)XXXX  」
 正和は、「森下」という名字を目にしても、初めはピンとこなかった。
 でも、やがてこの手紙が、自分の父親からの移転通知であることに気がついた。
 森下進一郎。
 久し振りに父親の名前を見ても、正和には何の感慨もわいてこなかった。
 他の二つの名前は、全く初めて目にするものだった。そういえば、かなり前に、おしゃべりな世田谷のおばさんから、父親が再婚したこと、そして、女の子が生まれたことを聞いたような気もした。

 両親が離婚したのは、正和が二才のころだ。だから、正和には父親と暮らした日々の記憶がいっさいなかった。
 父親に関して覚えているのは、小学校にあがる前まで、父親の希望で二人だけで面会して、遊園地や公園に何回か連れていってもらったことだけだ。それもいつの間にかとだえ、正和はもう十年近く父親に会っていなかった。
 父親から転居通知が来たことをかあさんに話すべきかどうか、正和は迷っていた。現在のかあさんが、かつての自分の夫にどんな感情を持っているのか、まったくわからなかったからだ。
 結局、正和は、通知に気づかなかったことにしようと決めた。そして、他の郵便物と一緒にして、食堂のテーブルの上に置いておいた。
 かあさんは、いつものように七時過ぎになってから、あわただしく帰宅してきた。そして、着替えもそこそこに、夕飯のしたくに取りかかった。
 かあさんが転居通知に目を通したのは、二人の遅い夕食が終わった八時過ぎになってからだった。
 正和は食後のお茶を飲みながら、さり気なくかあさんの様子をうかがっていた。転居通知を読んだ時、さすがにかあさんの顔が少し曇ったような気がした。
 でも、かあさんはすぐに普段の表情に戻ると、通知を他の郵便物と一緒に状差しに突っ込み、夕飯の後片づけをするために立ち上がった。
「皿洗うの、手伝おうか?」
 正和がそういった時、
「あら、珍しいわね。明日、雨にならなきゃいいけど」
と、明るく答えたかあさんの表情からは、正和は何も読み取れなかった。

 正和は自分の部屋へ戻ってから、いつものようにサイクリングの計画を立て始めた。
(行先は?)
 その時、父親からの転居通知が頭に浮かんできた。
(そうだ、あそこにしよう)
 父親が現在の家族と暮らしている家を、見てきてやろうと思った。
 さっそくスマホのMAP機能でその住所を調べてみた。
「東京都、八王子市、…」
 状差しからこっそりハガキを持ってくると、住所を入力していった。
 しばらく検索していたスマホが、パッと地図に変わった。
地図の中心に示された父親の家は、中央線高尾駅から五キロほど南へ行った所にあった。拡大してみると、その付近だけが道路が碁盤の目のようになっている。どうやら新興住宅地らしい。
 MAP機能を切り替えて、正和の住んでいるところから、父親の家までのルート検索してみた。
 正和のマンションのある新宿区早稲田から、早稲田通りを通って高田馬場へ。
高田馬場で左折して、明治通りを新宿まで行く。新宿駅の南にある陸橋を渡れば、あとは甲州街道で高尾まで一直線だ。
 父親の家へは、高尾駅のちょっと手前で左折して、町田街道を行けばいい。

 翌日、正和は、昨晩作成したサイクリング計画を、修一に見せた。
「高尾か。初めてのサイクリングにしちゃ、ちょっと遠すぎないか?」
「そうかな。直線距離で三十キロぐらいしかないけどな」
「いや、道なりに行くと、もっとあるんだよ。四十キロ以上はあるんじゃないかな。往復で八十キロ。ちょっときついよ」
「だいじょうぶだよ」
 足に自信のある正和はいった。
「高尾山へは登るのか?」
「いや、高尾駅までだ」
 最終地点が父親の家であることは、もちろん修一にはふせていた。
「そうか。それなら、なんとかなるかもな?」
 修一はしばらく考えてから、また正和にたずねた。
「いつ、行くんだい?」
「来週の月曜日」
「えっ? ああ、おまえは週休三日制だもんな」
 修一は、ニヤッと笑いながらいった。
「でも、できたら日曜日にしないか? そしたら、おれも一緒に行くからさ」
「えっ?」
 今度は、驚くのは正和の番だった。たしかにベテランの修一と一緒なら、ペースもつかみやすいし、心強くもある。
 でも、それでは、父親の家をこっそりのぞいてくるという、正和の計画はおじゃんだ。それに日曜だと、父親と顔を合わせてしまうかもしれない。正和の方は顔を覚えていなくても、さすがに向こうは気づくだろう。きっと、おたがいに気まずい思いをするに違いない。
「いや、日曜日はちょっと都合が悪いんだ。次の時は、一緒に頼むよ」
「そうか」
 修一は、まだ少し心配そうだった。

 ドアが閉まる音に続いて、鍵をかけるカチャンという音が聞こえてきた。かあさんが会社に出かけていったのだ。
 寝たふりをしていた正和は、すぐにベッドから飛び起きた。すでに、Tシャツに短パンという、サイクリングスタイルに着替えてある。
 正和は、自転車用の水筒に水をつめると、すぐに家を飛び出した。なにしろ、夜七時までには戻らなければならないから、けっこう忙しい。
 かあさんには、今回のサイクリングのことは内緒にしてあった。行き先を聞かれて高尾と答えると、父親の家のことを連想されてまずいなあと思っていたからだ。
 自転車置場でカバーをはずすと、完璧に整備された愛車が姿を現わした。正和は、それを押しながらマンションの前の道路に出た。
 腕時計を見ると、まだ七時三十分だ。通勤の人たちが、マンションの玄関から次々に出てくる。まだ、登校時間にならないので子どもたちの姿は見えない。
(よし、行くか)
 正和はペダルを力強くこぎながら、早稲田通りへ飛び出していった。
 通勤の車なのだろうか、道路はけっこう込んでいる。
正和は、慎重に道路の左端を進んでいった。
 足の調子は絶好調だった。慎重に設定した変速ギアに合わせて、自転車はいかにも軽々と進んでいく。
正面から風をまともに受けて、自転車用ヘルメットからはみ出した髪の毛がうしろへなびいていた。

 予想に反して、十一時ごろには、正和はすっかりまいってしまっていた。
 自転車をこぐのに、疲れたわけではない。修一のアドバイスどおりに、こまめに切り替えている変速ギアもぴったりで、自慢の足はますます快調だった。
 正和を悩ませていたのは、車の廃棄ガスと砂ぼこりだ。特に、ダンプの吐き出す黒いガスには、完全にまいってしまった。 
 走り出したころは、都内を抜けさえすれば次第に良くなるだろうと思っていた。
ところが、道が多摩地区に入っても、良くなるどころか、かえってひどくなってきている。
 鼻はにおいでツンツンするし、のどはすっかりいがらっぽくなっている。
 正和は、甲州街道からそれて、裏通りで自転車を止めた。
 水筒の水でうがいをしてみる。
 でも、少しもさっぱりしない。
 とうとう正和は、ルートを変更することにした。
 スマホのナビ機能によると、すでに調布市を抜けて府中市に入っている。それなら、ここで甲州街道をはずれて、是政橋で多摩川を渡り、川崎街道で高幡不動まで行けばいい。そこからは裏道を通って、高尾の南側、父親の家の近くまで一直線に行ける。
(よーし)
 正和は、また力強くペダルをこぎ始めた。

 正和が、目標の八王子市×町に着いたのは、一時過ぎだった。目指す番地は、街角の真新しい住居表示の地図で、すぐにわかった。
 少し緊張しながら、正和は家を捜していった。
 五の四の三、五の四の四、…。
 あった。
 五の四の七は、予想通りに新築ほやほやの二階建ての家だった。
「森下」
 凝った飾り文字の表札の下に、家族の名前が並んでいる。
「森下進一郎
   由美子
   真理 」
 表札の下には、インターフォンもついていた。
 一瞬、正和は、そのボタンを押してみたい衝動にかられた。
 でも、押したところでいったいどうなるのだ。だいいち、父親は会社にでも行っていて、今は家にはいないだろう。玄関の横にある真新しいカーポートにも、車は停まっていなかった。
 正和は、引き返す前にもう一度たんねんに家をながめてみた。
 白い壁に、しゃれた出窓がついている。二階の窓はバルコニーになっていて、ふとんが干してあった。家の南側は、生け垣に囲まれた芝生の庭になっていて、まだ育ちきっていない庭木が何本か植えられている。
 正和が自転車の方向を変えようとした時、庭に面した一階のガラス戸が開いた。正和は、そのまま立ち止まった。
 すぐに、洗濯ものをたくさんかかえた女の人が、家から出てきた。
 その人は、正和が想像していたより、ずっと若かった。かあさんよりも、十才以上は年下に見える。
 女の人は、庭の物干しにシーツを干し始めた。
(でも、かあさんの方が少し美人だな) 
と、正和は思った。
 しばらくすると、三才ぐらいの女の子が庭へ出てきた。正和の妹にあたる「真理」という子に違いない。
 思わず生け垣に乗り出すように、中をのぞきこんでしまった。女の子は、洗濯ものを干しているおかあさんにまとわりつくようしたり、シーツをひっぱったりしている。
「こらーっ」
 おかあさんが叱る真似をすると、
「キャーッ」
と、大声を出してはしゃいでいる。
 父親の家庭は幸福そうだった。思わず、正和も微笑んでしまった。
「あっ、誰かいるよ」
 目ざとく正和を見つけた女の子が、こちらを指差しながら叫んだ。母親も振りかえる。正和はあわてて自転車をターンさせると、力いっぱいこぎ出した。

 正和は、予定通りに七時少し前に家へたどり着けた。
でも、すっかり疲れきって、到着時間はぎりぎりセーフだった。帰り道の途中で、バテバテになってしまったのだ。
 やっぱり、修一の忠告は正しかったようだ。特に、尻がサドルにこすれてはれあがっていた。
 でも、ラッキーなことに、下から見上げた正和の家の窓には、まだ明かりが灯っていなかった。かあさんは、まだ戻ってきていないようだ。
 正和は、自転車置き場に自転車をとめてきちんとカバーをかけた。そして、エレベーターを待たずに一気に階段をかけ上っていった。
 部屋に入ると、汗まみれのTシャツと短パンを脱いで洗濯機に放り込んだ。そして、すばやくシャワーをあびた。
 ピンポーン。
 ちょうどタオルで頭をゴシゴシこすっていた時、ようやくかあさんが帰ってきた。
「ただいまあ。さあ、ごはん、ごはん」
 かあさんはいつものように疲れきった表情をしていたけれど、無理して元気な声を出していた。
「おかえり」
 正和は何事もなかったような顔をして、かあさんに声をかけた。 
 夕食後、正和は湯船の中で疲れた筋肉をほぐしながら、久し振りに充実した月曜日になった今日のことを考えていた。
 もちろん、かあさんには今日のことは何もいえない。
 でも、父親の家へ行ったことも含めて、修一にだけは話してみたいような気がしていた。
 そして、
(夏休みの東北一周サイクリングに、一緒に連れていってくれるように頼んでみようかな)
とも、思っていた。



月曜日は自転車に乗って
平野 厚
平野 厚
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