現代児童文学

国内外の現代児童文学史や現代児童文学論についての考察や論文及び作品論や創作や参考文献を、できれば毎日記載します。

カビリアの夜

2022-05-03 10:03:13 | 映画

 娼婦のカビリアは、不幸な生活を送りながらも、いつかは真面目な道に返ろうと望んでいました。
 恋人にバッグを奪われて河に突き落とされても、彼女のその思いは変りませんでした。
 ワンダを除いた仲間の女達は、夢想を語るカビリアを可哀そうな気違い女として扱っていました。
 しかし、ある晩、カビリアの夢物語が実現しました。
 愛人と喧嘩をした有名な映画俳優が、豪華な自動車に彼女を乗せて、ナイトクラブから自分の豪邸へと連れていったのです。
 これは自分の魅力のためとカビリアが喜んだのも束の間、スターの愛人が突然そこへ現れて、この冒険は悲喜劇的な終りを告げました。
 浴室に入れられ俳優とその愛人の和解話を聞かされても、幸福な想いにひたっているカビリアでしたが、朝になると邸宅から追い出されてしまいます。
 とうとう自分が分らなくなったカビリアは、仲間と一緒に教会へ行き生活に奇蹟が起るように熱心に祈りました。
 それから幾晩か後、郊外の小さな劇場の舞台で、彼女は催眠術をかけられて妙な踊りを観衆に披露しました。
 そこで、カリビアはオスカーに出会いました。
 このおとなしく若い会計係の青年は、彼女に大変親切な態度を示しました。
 オスカーの愛の言葉を聞き、カビリアは運命に感謝しながらも、自分の汚れた生活が分ってしまえば彼が去ってしまうと恐れていました。
 だが、オスカーはカビリアの過去など全くかえりみませんでした。
 オスカーはカビリアに結婚を申し込み、カビリアもそれを受け入れます。
 オスカーと暮らすために、カビリアは家を売り払って貯金も下ろして75万リラの持参金を作ります。
 二人は新婚旅行に出発しました。
 とうとうカビリアの生活に奇蹟が実現したと思われましたが、湖の畔まで来た時突然オスカーはカビリアに躍りかかりました。
 オスカーが自分を殺すためにこの淋しい場所へ誘ったのだと、カビリアは気づきました。
 オスカーもまた、彼女の金が目当てだったのです。
 カビリアの夢は、またも無残にも崩れ去りました。
 不幸にひしがれた彼女は、オスカーの前に膝まずき、自分を殺してくれるように懇願しました。
 しかし、これがかえってオスカーから殺意を失わせ、オスカーは金だけを奪って立ち去ります。
 カビリアは命だけは救われました。
 ラストシーンで、セレナーデを奏でる子どもたちの一団を後に従え、カビリアは涙をたたえながらも純粋無垢な笑みを浮かべながら立ち去っていくのでした。
 「シベールの日曜日」の記事で触れた「道」と同様に、フェデリコ・フェリーニ監督、彼の愛妻ジュリエッタ・マシーナ主演の1956年の映画で、「絶望した魂とその救済」をテーマにした作品です。
 もちろんフェリーニの監督としての手腕によるところが大きいのですが、「道」のジェルソミーナとこの作品のカビリアを演じたジュリエッタ・マシーナの名演技は映画史上に残るものです。
 彼女は、この作品でカンヌ映画祭の最優秀主演女優賞を獲得しています。
 小柄でスタイルも良くなく、決して美人でもない(この二つの映画ではブスメイクをしているかもしれません)彼女は、それだからこそ純粋無垢で孤独な魂を見事に表現しています。
 後に同じフェリーニ作品の「魂のジュリエッタ」や「ジンジャーとフレッド」で演じた知的な中流家庭の家庭婦人が彼女の実像に近いのでしょうが、こういった知的障害を持っているがそれゆえに純粋な心の持ち主を役を演じるのに彼女以上の女優はいないと思います。
 この作品も1957年のアカデミー外国語映画賞を獲得したので、二人のコンビは1956年の「道」に続いて連覇したことになります。
 ちなみに、1947年に始まったアカデミー外国語映画賞は、1950年代までの12回(1953年は受賞なし)は、フランス(5回)、イタリア(4回)、日本(3回)と3カ国のみで分け合ってます。
 ご存知のように、そのころの日本映画は世界でも最高水準でしたし、フランス映画とイタリア映画も日本でも人気がありました。
 特に、同じ第二次世界大戦の敗戦国で復興の途上にあったため、イタリア映画には日本人は強いシンパシーを感じていたようです。
 戦後のイタリア映画は、1945年のロベルト・ロッセリーニの「無防備都市」を初めとしたネオレアリズモ(ニューリアリズム)という新しい表現運動が起こっており、いわゆる近代的不幸(戦争、貧困、飢餓など)を写実的に描いて、社会の矛盾を告発していこうとしていました。
 ネオレアリズモの監督には、ロッセリーニやフェリーニ以外には、「靴みがき」や「自転車泥棒」のヴィットリオ・デ・シーカや「鉄道員」のピエトロ・ジェルミなどがいました。
 手元に残っているパンフレットによると、1973年4月4日から6月5日にかけて、京橋の東京国立近代美術館フィルムセンターで、イタリア映画の特集をやっていました。
 3時と6時15分の1日2回上映で、二日ごとに上映作品が変わっていました。
 料金は、一般は100円、学生は70円、子供50円、パンフレットは前後半に分かれていて一冊200円でした。
 当時の物価水準を考えても、破格の低価格だったと記憶しています。
 私は、前半の「無防備都市」から「鉄道員」まで日参していました。
 「カビリアの夜」は、4月30日か、5月1日に見たようです。
 後半のパンフレットはないので、そのころは、すでに大学の児童文学研究会に入会していて、児童文学の方に私の関心が移っていたようです。
 イタリア映画特集が始まる直前の4月1日に大学の入学式が予定されていたのですが、会場の大隈講堂周辺での新左翼のデモのために中止になったことを覚えています。
 理工学部の授業が始まる日より前に、フィルムセンターの小さなスクリーンで「無防備都市」を見た時の感動を今でもはっきり覚えています。
 今思うと、当時の現代日本児童文学作品(特に社会主義的リアリズム作品)とネオレアリズモの映画は多くの共通点を持っていました。
 散文性の獲得:ネオレアリズモでは、徹底した写実的な表現が採用されました。
 子どもへの関心:ネオレアリズモでは、実社会の庶民を描くために素人も出演者として採用されたばかりでなく、「靴みがき」、「自転車泥棒」、「鉄道員」などでは、大人と共生する子どもたちの姿も多く描かれました。
 改革の意志:ネオリアリズムモでは、社会の暗部を描くことにより、社会の改革を訴えました。
 私が児童文学研究会に入って、現代日本児童文学作品をすんなり受け入れられたのは、その前にネオレアリズモの映画に触れていたおかげかもしれません。

カビリアの夜 完全版 [DVD]
クリエーター情報なし
東北新社



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

翼よ!あれが巴里の灯だ

2022-05-03 09:56:38 | 映画

 1957年公開のアメリカ映画です。

 1927年に、初めてニューヨークとパリの間を飛行機で無着陸で横断したチャールズ・リンドバーグの著書を、精密な再現機を何台も作って撮影して映画化したものです。

 実際の横断飛行だけでは単調過ぎてしまうので、それは全体の三分の一ぐらいに留めて、この飛行に至るまでの主人公の苦闘の方に多くの時間を割き、飛行中にも回想シーンを入れて観客を飽きさせない工夫を、名匠ビリー・ワイルダー監督が駆使して、感動のドラマに仕立てています。

 原作の有名なエピソード(頭上の機器を見るために用意された鏡が重すぎたので見送りの観衆の中にいた少女のコンパクトを借りた、親友が用意したサンドイッチの袋の中に彼の飛行教室の生徒である神父が託したお守りが忍ばせてあった、機内に迷い込んだハエとの会話、睡魔との戦い、機体への着氷との戦い、飛行する方向の確認の苦労、大西洋を横断して予定通りにアイルランドの陸地を発見するシーンなど)も、巧に織り交ぜていて、観客を感動させてくれます。

 特に、パリ到着時に若き英雄を一目見ようとして押しかけた数十万の群集や、帰国後のニューヨークでの数百万の人々の歓迎シーンには、実際のニュース映画なども使われていて、当時の熱狂ぶりを再現しています。

 現代から見れば、大西洋横断なんてたいしたことないと思われるかもしれませんが、なにしろ1903年のライト兄弟の初飛行(諸説ありますが)以来、まだ20年ちょっとしかたっていなかったころのことですから、ちょっと大袈裟にいえばアポロによる月着陸のような大冒険(直前に挑んだ人たちが失敗して何人も命を落としています)だったのです。

 横断飛行成功時に25才だったリンドバーグを演じたのは、当時47才だったジェームス・スチュワートだったので、評価には賛否両論があったようですが、ダイエットによる若々しいスタイルと彼独特の軽やかな演技は、アメリカの好人物を演じる俳優の第一人者だけのことはあります。

 なお、「翼よ!あれが巴里の灯だ」というかっこいい邦題は、映画では台詞としても使われておらず、原題は彼の冒険を支援したセントルイスの人々にちなんで愛機につけられたThe Spilit of St. Louisという原作の題名と同じものでした。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする