10歳で霊的な能力(予言など)を持つ天才少年(どうやら6歳の妹も、同様の能力を持っているようです)の話です。
彼の能力については、アメリカだけでなくヨーロッパでも有名になっていて、あちこちの大学の先生たちと議論するために渡欧して客船で帰米する途中でした。
ここでも、船上のひなたっぼこ用のデッキチェアで、彼を訪ねてきたニコルソン教授と、感情、論理、瞑想、神、死、予言、転生、教育などについて議論します。
そして、その中で、自分自身の死についても予言して、ラストでは実際に予言通りの事が起こったことが暗示されています。
転生を信じているテディの死自体は悲劇でもなんでもないのですが、それよりも彼が悲劇的だったのは、前半部分での全く噛みあわない、そして、彼の事を理解しない(あるいは、理解しようとしない)で、彼を「人間じゃない」と思っている両親との会話でしょう。
彼が自分の両親について語る以下の言葉は、どんな児童文学の作品よりも、両親に対する愛情と絶望が、痛切なほど満ち溢れています。
「あのふたりにはね、生きているあいだは楽しく暮らしてもらいたいと思うな、だってふたりとも、楽しく暮らすのが好きなんだもの……。だけど、あのふたりはぼくとブーバのこと――これ妹なんだけど――そんなふうに愛してくれてないや。つまり、ありのままのぼくらを愛することはできないみたいなんだね。たえずぼくらを少しずつ変えつづけることができないかぎりは、ぼくらを愛することはできないらしいんだね。ふたりとも、ぼくらを愛するのとおんなじくらい、ぼくらを愛する理由を愛しているんだし、たいていは、ぼくら以上に愛してる。(後略)」
この作品では、芭蕉の俳句が引用されていることもあって、東洋思想と結びつけて考えられることが多いのですが、思想そのものはそんなに深い物ではなく(門外漢の私でも理解できる程度)、それよりは俳句の持つ「写生」の力にサリンジャーが強く魅かれていることが、非常に客観的で詳細な情景描写によく表れています。
また、この「ナイン・ストーリーズ」という短編集が、シーモアの死で始まり(「バナナ魚にはもってこいの日」(その記事を参照してください))、テディの死で終わることで、サリンジャーと死について議論されることが多いのですが、サリンジャー自身は死自体(特に自殺)にはそれほど関心はなく(実際に91歳まで長生きしました)、「自分を理解しない他者」との関わりを断つ生き方(作品を対外的には発表せず、公の場には姿を見せない)の方が、はるかに彼らしいし、他者はどう思おうとそれで十分に幸せだったんだと思います。