平成17年度国際子ども図書館児童文学連続講座講義録に収められています。
『日本児童文学』1978年5月号の特集は「タブーの崩壊―性・自殺・家出・離婚」で、子どもの文学でも「人間の陰の部分の物語化」がなされるようになったことを反映したものです。
著者の講義は、この特集を出発点にして、その後の「癒しの文学」や新しいタイプのヤングアダルト文学へと続く流れを追います。
その中で、初期の今江祥智や岩瀬成子から、その後の森絵都や石田衣良といった作家たちの意味について考えていきます。
『日本児童文学』のこの特集は、ウルズラ・ヴェルフェル『灰色の畑と緑の畑』(野村訳 岩波書店 1974、その記事を参照してください)などの翻訳や今江祥智『優しさごっこ』(理論社 1977)などの創作に触発されたものでした。
その背景として考えられる要因としては、実際に離婚の増加などが社会問題化していた現実の反映、児童文学観が「 童話精神から小説精神へ」(早大童話会の少年文学宣言より)といったふうに「童話から文学へ」変化していった流れ、子ども観が「 保護の時代から準備の時代へ」(マリー・ウィン)のように同時代人として社会のメンバーとみなすように変化、アイデンティティという主題(どのようにして大人になればよいのか?)などによるものとしています。
サブテーマの「性・自殺・家出・離婚」は、子どもの三重の不自由〔この生、この親、この性、この身体〕(芹沢俊介『現代〈子ども〉暴力論』(大和書房 1989))と対応していると指摘しています。
「タブーの崩壊」以後の児童文学は、「リアリズムの深化」(神宮輝夫)によって、題材、結末、方法のいずれの面においても、いっそう「小説」に接近していったとしています。
たとえば岩瀬成子の『あたしをさがして』(理論社 1987)や『迷い鳥とぶ』(理論社 1994)などは、『子どもと文学』(石井桃子ほか著 中央公論社 1960)の「子どもの文学はおもしろく、はっきりわかりやすく」から遠く離れていったと指摘しています。
しかし、このあたりは、80年代から90年代の児童書の出版バブルによって多様な作品の出版が許容されていた背景に触れないと全体像が見えないでしょう。
江國香織の短編集『つめたいよるに』(理論社 1989)や湯本香樹実の『夏の庭-The Friends』(福武書店 1992)などの新しい作家が誕生しますが、児童文学と一般文学は、違わなくなってしまうのではないか?と問いかけています。
このあたりも、「児童文学」の読者層が大人の女性にも広がったことが大きな要因と思われますがそういった指摘がないので、著者の論究は物足りません。
「児童文学は、大石真の『ミス3年2組のたんじょう会』(偕成社 1974)のタイトルに示されたような小学校の中学年から、絵本とYA 文学に中心がわかれ、とくに13~19歳の部分では様々な物語のジャンルが混在している状態になった。」としていますが、この著者の意見には異論があります。
まず、1974年以前にも児童文学には小学校高学年や中学生向けの作品は多様にありましたし、幼年文学も非常に多くの点数が発行されているので、単純に児童文学は小学校中学年用だったとは言えないと思います。
むしろ、そういった作品が、1990年後半からエンターテインメント作品を除いては出版されなくなった状況について考察しなければいけないのではないしょうか。
また、絵本とYAの二極化というのもおおざっぱすぎると思います。
小学校三年生ぐらいまでを対象とした「幼年文学」は依然として健在ですし、小学校高学年の女子を対象にしたエンターテインメント作品の出版も活発です。
唯一、前より本を読まなくなったのは小学校高学年以降の男子ですが、彼らについては、ゲームやマンガやアニメなどの別メディアやそれらと親和性の高いライトノベルについて言及しなければならないと思います。
また、著者は読書のモデルの変化として、従来は読者の成長に伴って児童文学から一般文学へ移っていきその移行期としてYA 文学があったが、現在は読者の趣味によりいろいろなタイプの文学が混在し、いろいろなメディアとの接触により物語の読み取りも変わってきているとしています。
そして、「物語」の受容はどんなメディアからでもいいとしていますが、このあたりの著者の論法はかなり乱暴で、マルチメディアにおける「児童文学」の立ち位置についてあいまいにしか述べられていません。
続いて、ひところはやった癒しの文学について述べています。
「児童文学には定番化されたパターンがある。傷ついた子どもが田舎の祖父母の家に行き、自然の中で癒されて、生きる希望を取り戻す…などは、それの最たるものだろう。」という斎藤美奈子「コドモの読書の過去と現在」(『文學界』2005年11月号)を引用して、「タブーの崩壊」以後1990年代になると、「性・自殺・家出・離婚」のような題材が切実なモチーフというよりも設定のパターン(お約束)に変化してしまったと指摘しています。
「 しかし、吉本ばなな『キッチン』(福武書店 1988)、江國香織「デューク」(『つめたいよるに』理論社 1989、その記事を参照してください)、梨木香歩『西の魔女が死んだ』(楡出版 1994、その記事を参照してください)など、冒頭に大切な人(犬)が死んでしまい、主人公が喪失から癒されるまでのプロセスをえがく「癒しのストーリー」という点が共通。いずれも、ベストセラー・ロングセラーとなった。」
と、肯定的に捉えているように思える書き方をしています。
その一方で、いろいろな「癒しの絵本」(『いつでも会える』『たれぱんだ』など)には、読者の感覚として「傷ついた私」という自己像があるのか?と否定的に述べています。
しかし、一連の「癒しの文学」はYA文学というよりは、もっと広範な年代の女性の嗜好にマッチしたL文学(女性作家による女性が主人公の女性読者のための文学)という観点で見ないと実相は捉えられないのではないでしょうか。
以下の「人生論としての小説」「感情管理」「幸福の約束」などのYA文学に対する意見は、本人も「直観的」と述べているように根拠に乏しいので、割愛させていただきます。
全体として著者自身の「現代児童文学の条件(その記事を参照してください)」の関連する部分を下敷きにしていますが、初学者向けの講座の講義録なのでわかりやすさや聴衆の興味を重視していて、いつもの著者らしい先行論文や心理学などを応用した深い考察はあまり見られず物足りない印象がありました。
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