1984年11月初版の、作者がそれまでに同人誌に発表した短編を集めた作品集の表題作です。
本にしたのははズッコケシリーズと同じ出版社なので、バーター的に出された本なのかもしれません。
小学校を卒業した春に、めぐみ幼稚園ふじ組の卒業生たちがクラス会で六年ぶりに集まります。
担任だった国松先生も出席して、みんなで幼稚園時代の話をしているうちに、彼らは、ノリくんこと、鈴木則夫のことを思い出します。
クラスのみんなが、陰気でおもらしの常習犯の則夫を、真冬に裸にして水をかけたことがだんだんに明らかになっていきます。
則夫は、次の日から幼稚園に来なくなり、やがて死んだのです。
「則夫くんは、<中略>心臓に病気があったの。あなたたちが、そんないたずらをしたの、ちっとも知らなかったけれど、それとこれは関係ないと思うわ。」
と、先生はいいます。
しかし、実態はクラスの女王様の川口ひとみが、みんなに命令して起こったいじめだったのでした。
そのひとみが、平然と先生に言い返します。
「でも、則夫くんのことを、きらっていたのは、わたしだけじゃないわ。先生、先生も則夫くんのこと、いやだったんでしょ」
「先生だって、あの朝、わたしたちが則夫くんをはだかにして水をかけたの、知ってましたよねえ。教室の窓から、ずっと見てらっしゃったの、わたし知ってたんです。<中略>もし、あのことで則夫くんが死んだんなら、先生。先生も、わたしたちとおなじですよね。」
ひとみはそう言うと、白い八重歯を見せて笑いました。
実はこのクラス会は、則夫の霊が、みんなに事件のことを思い出させようとして開かせたものだということが最後にわかります。
そして、六年ごとにクラス会を開かせて、いつまでもみんなに事件のことを忘れさせないという則夫の怨念を暗示して物語は終わります。
児童文学研究者の宮川健郎は、「「児童文学」という概念消滅保険の売り出しについて」(「現代児童文学の語るもの」所収)において、この作品について以下のように述べています。
「子どもは無垢で、大人はけがれている。子どもが成長するにしたがって、悪意もまた成長する。――私たちは、そう考えていたのではなかったか。そうした成長のイメージは、ここでは、逆転させられてしまう。クラス会にあつまった子どもたちの会話によって進行する「六年目のクラス会」で、だんだん浮びあがってくるのは、幼稚園児たちのなかにあった、どすぐらいまでの悪意だ。川口ひとみの悪意は、先生がかかえていた悪意をあばき出す。則夫へのいじめを思い出して、斎藤さんは泣き出し、岸本くんは青い顔をする。六年後の子どもたちは、むしろ、幼児のころの悪意をうすめているように見える。」
そして、宮川は、この作品を「反=成長物語」と規定しています。
しかし、この論には大きな疑問があります。
子どもたちがいつも無垢な存在でなく、時として残酷な存在になるということはうなずけますが、これもけっして新しい発見ではありません。
詩人で小説家で児童文学作家のエーリヒ・ケストナーは、1920年代に出版した「感情の行商」という詩集の中に「卑劣の発生」という詩を残しています。
「これだけは、どんな時どんな日にも心にとまる――
子供はかわいく素直で善良だ
だが大人はまったく我慢できない
時としてこれが僕らすべての意気を沮喪させる
悪いみにくい老人どもも
子供のときには立派であった
すぐれた愛すべき今日の子供も
後にはちっぽけに、そして大きくなるのだろう
どうしてそんなことがありうるのか それはどういう意味なのか
子供もやっぱり、蠅の羽を
むしるときだけが本物なのか
子供もやっぱり既に不良なのか
すべての性格は二で割りうる
善と悪とが同居しているからだ
だが悪は医やしえず
善は子供のときに死んでしまう」
ケストナーは、以上のように子どもの中にも悪が存在することを認識していて、1930年ごろに書いた児童文学としての代表作の「エーミールの探偵たち」にも、「飛ぶ教室」にも、「点子ちゃんとアントン」にも、「卑劣な子どもたち」を登場させています。
そして、引用した宮川の文の最後の「幼児のころの悪意をうすめているように見える」には、まったく賛成できません。
則夫くんへのいじめは、川口ひとみ以外は悪意というよりは、ケストナーも指摘している「子どもの残酷性」を示しているにすぎません。
この作品の悪意の核はクラスの女王様の川口ひとみにあるので、引用文にあるように彼女の悪意は六年後にますます「成長」していて、平然と大人である先生の悪意をあばいて自分の行為を正当化しています。
つまりこの作品は、宮川の言うような「反=成長物語」ではなく、むしろ現代児童文学ではオーソドックスな「成長物語」だと思われます。
ただし、この場合は、「善」ではなく、「悪」が成長したわけですが。
しかし、作者にとっては、この作品が「反=成長物語」と読まれようが、「成長物語」と読まれようが、まったく関係ないでしょう。
おそらく作者は、この作品をその後児童文学の世界ではやった「怪談物」あるいは「ホラー物」のはしりとして書いたのでしょう。
発達心理学の観点からみると、幼稚園児の認識や記憶力という点ではかなり設定に無理があると思われますが、後のエンターテインメント作品の名手としての才気は十分にうかがえます。
六年目のクラス会―那須正幹作品集 (創作こども文学 (1)) | |
クリエーター情報なし | |
ポプラ社 |
現代児童文学の語るもの (NHKブックス) | |
クリエーター情報なし | |
日本放送出版協会 |