児童文学における速度の変化について述べています。
ここであげている速度については二つの意味があり、一つは作品世界の中を流れる時間の速度であり、もうひとつは読者の読む速度です。
ただし、この文章では、次第に主題からそれて別の話題になり、論考としてはまとまりのないものになっています(作者はエッセイのつもりで書いているのかもしれませんが、読者が児童文学研究者である作者に求めているものは、もっときちんとまとまった文章でしょう)。
作品の中を流れる時間が、かつての児童文学と比べて速くなっている(描写を省いて物語の筋を追うようになっている)ことをフィリッパ・ピアスの「トムは真夜中の庭で」を例にしてあげていますが、この点はまったく同感です。
トムが真夜中に訪れる邸宅(今は分割されてアパートになっています)にかつてあった素晴らしい庭やイギリスのビクトリア王朝時代の低地地方の描写を割愛したら(あるいは読者が読み飛ばしたら)、作品の魅力、特にラストでトムがバーソロミューおばあさん(真夜中の庭の世界の少女ハティ)と抱擁を交わす感動的なシーンを真の意味では味わえないでしょう。
他の記事にも書きましたが、児童文学に限らず、一般文学でもエンターテインメント作品は、描写をできるだけ省いて説明的な文章を多用して、物語の筋だけをスピーディに追う作品が一般的になっています(「蜜蜂と遠雷」(その記事を参照してください)のような例外もありますが)。
それは、読者が文学、特に児童文学やエンタテインメント作品に何を求めるか(優れた描写や文章よりもスピーディな物語展開)が大きく変わったためだと思われます。
しかし、それならば、文学ではなくゲームや動画やテーマパークのアトラクションの方が、そういった点では本質的に優れているのではないでしょうか。
次に、「アナと雪の女王」などを例にして、物語のなかでの時間の圧縮を、アニメのような、作品の中での時間と観客の実時間が同一な(作者の言葉を借りると没入型の)作品の特質としてあげていますが、これは現代児童文学ではなく民話や昔話などを例に挙げれば、もっと大胆な時間の圧縮をしている例はいくらでもあるので、特に新しいことではありません。
次に、福永信の「コップとコッペパンとペン」を例に、作品世界の時間が異様に速かったりテンポが一定でなかったりする例を挙げて、速度が物語を無力化する可能性を示唆していますが、このような実験的な作品を示して一般化するのは無理があります。
次に、佐藤多佳子の「一瞬の風になれ」(その記事を参照してください)を例にあげて、物語が深まるにつれて同じシーン(この場合は四百メートルリレーにおいて主人公が百メートル走る間)がより詳しく描写されてあたかも時間がスローモーションになったようだと述べていますが、こんなことは少年漫画のスポーツ物(あるいは戦闘物)では常識的な手法で、これまた特に新しいことではありません。
次の節で二宮由紀子の「あるひあひるがあるいていると」などを例に、このような言葉遊びの本は読み飛ばしを許さずに読者の読む速度を一定化すると述べています。
最後に、藤野恵美の「雲をつかむ少女」を安藤美紀夫の「風の十字路」(その記事を参照してください)と対比して、SNS時代の人間のつながりを描いた作品は、かつてのような中心点(「風の十字路」の場合は同級生の自殺)を持たない仮想空間が描かれる可能性を示唆していて興味深いですが、主題である速度とは直接的なつながりはありません(作者は「それぞれが人生を歩く速度」とこじつけていますが)し、論考も不足していて読んでいて消化不良を起こしました。
ここであげている速度については二つの意味があり、一つは作品世界の中を流れる時間の速度であり、もうひとつは読者の読む速度です。
ただし、この文章では、次第に主題からそれて別の話題になり、論考としてはまとまりのないものになっています(作者はエッセイのつもりで書いているのかもしれませんが、読者が児童文学研究者である作者に求めているものは、もっときちんとまとまった文章でしょう)。
作品の中を流れる時間が、かつての児童文学と比べて速くなっている(描写を省いて物語の筋を追うようになっている)ことをフィリッパ・ピアスの「トムは真夜中の庭で」を例にしてあげていますが、この点はまったく同感です。
トムが真夜中に訪れる邸宅(今は分割されてアパートになっています)にかつてあった素晴らしい庭やイギリスのビクトリア王朝時代の低地地方の描写を割愛したら(あるいは読者が読み飛ばしたら)、作品の魅力、特にラストでトムがバーソロミューおばあさん(真夜中の庭の世界の少女ハティ)と抱擁を交わす感動的なシーンを真の意味では味わえないでしょう。
他の記事にも書きましたが、児童文学に限らず、一般文学でもエンターテインメント作品は、描写をできるだけ省いて説明的な文章を多用して、物語の筋だけをスピーディに追う作品が一般的になっています(「蜜蜂と遠雷」(その記事を参照してください)のような例外もありますが)。
それは、読者が文学、特に児童文学やエンタテインメント作品に何を求めるか(優れた描写や文章よりもスピーディな物語展開)が大きく変わったためだと思われます。
しかし、それならば、文学ではなくゲームや動画やテーマパークのアトラクションの方が、そういった点では本質的に優れているのではないでしょうか。
次に、「アナと雪の女王」などを例にして、物語のなかでの時間の圧縮を、アニメのような、作品の中での時間と観客の実時間が同一な(作者の言葉を借りると没入型の)作品の特質としてあげていますが、これは現代児童文学ではなく民話や昔話などを例に挙げれば、もっと大胆な時間の圧縮をしている例はいくらでもあるので、特に新しいことではありません。
次に、福永信の「コップとコッペパンとペン」を例に、作品世界の時間が異様に速かったりテンポが一定でなかったりする例を挙げて、速度が物語を無力化する可能性を示唆していますが、このような実験的な作品を示して一般化するのは無理があります。
次に、佐藤多佳子の「一瞬の風になれ」(その記事を参照してください)を例にあげて、物語が深まるにつれて同じシーン(この場合は四百メートルリレーにおいて主人公が百メートル走る間)がより詳しく描写されてあたかも時間がスローモーションになったようだと述べていますが、こんなことは少年漫画のスポーツ物(あるいは戦闘物)では常識的な手法で、これまた特に新しいことではありません。
次の節で二宮由紀子の「あるひあひるがあるいていると」などを例に、このような言葉遊びの本は読み飛ばしを許さずに読者の読む速度を一定化すると述べています。
最後に、藤野恵美の「雲をつかむ少女」を安藤美紀夫の「風の十字路」(その記事を参照してください)と対比して、SNS時代の人間のつながりを描いた作品は、かつてのような中心点(「風の十字路」の場合は同級生の自殺)を持たない仮想空間が描かれる可能性を示唆していて興味深いですが、主題である速度とは直接的なつながりはありません(作者は「それぞれが人生を歩く速度」とこじつけていますが)し、論考も不足していて読んでいて消化不良を起こしました。
日本児童文学 2017年 08 月号 [雑誌] | |
クリエーター情報なし | |
小峰書店 |