自分を愛せない人はまた、心の病気になりやすい。私の理解では、最低の自分を自分の真の姿として受け入れることが「在りのままの自分を愛する」ことだと思うのだが、多くの人は、それでは卑屈過ぎると思うようである。
そうではない。受け入れられる自分と受け入れられない自分があっては、それ自体、心のバランスを取りようがないではないか。プライドは自分を愛せなくさせている元凶である。
残酷であまりにも惨めな十字架に架かってまで愛してくださったキリストの愛に、私たちははじめて最低の自分を受け入れることができる。おそらく、キリストの愛なしには、私も最低の自分を受け入れ、愛せなかったと思う。
ところでなぜ愛せないか?その原因の一つに親にも責任がある。我が子の良い所をほめ、「あなたはできる、あなたは良い所がある子」などと我が子の優秀さ、良い所を喜んでいはしなかったか?だから子は親に愛されようと、必死になって頑張ってしまう。「あなたが、ただそこに居てくれることが、一番の喜び」と存在としての愛を、ちゃんと伝えていたのだろうか? それがなければ、子は頑張ること、取り柄があることでしか、自分の存在意義を見出せないだろうし、それが無い自分は愛せないのだ。
深い所で親にも、子が自分自身を愛せなくさせている責任がある。 乱暴な言い方だが、親も生きている間に、子に伝えなければならないことがある。 ケパ