人間というものには、ひどいブラックボックスというか、落とし穴があると思う。
たとえば、すごく望んでいたのに、それが叶った途端に、取り返しのつかないような挫折を味わうことがある。一例を挙げると「自分の好きなようにして、好きなように生きる」ことである。
かつて家庭とか職務とかに縛られて、自分は窮屈な思いをした長い時期がある。その時は「あ~、これらから解放されて自由になりたい。自分のしたいことを思いっきりできたら!」としきりに思ったものだ。ところがいざその個人的な束縛とか責任とかが終わってしまった時、たちまちの内に私は、言いようのないむなしさに打ちのめされたものである。
そう、伴侶と家族のつながりを失ったり・・・・。
(写真上→ 癒しを求めアナコンディア聖会へ 中と下・・ 韓国オサンリ祈祷院で、祈りの穴とその部屋。どんなに祈ったか・・・・)
「いったい自分は何のために生きてるんだ?」とか、まさに「あがく」としか言いようのない焦り、体たらくに陥る。まさに糸が切れた凧(たこ)のようなものだった。そして分かってはいても「前向き」とか「建設的な」方向に物事を考えられなくなった。パンドラの箱ではないが、「希望」を失うという体験は、そのようなものだった。1日1日、心が生きながら腐っていく感じがした。もう、うさを晴らさずにはいられないし、「どうでもよいような」感じがした。
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ところが時がたち、再び家族を持つ神の恵みにあずかり、命が自分一人の命でなくなると、この束縛とか不自由さが、実は思いっきり大切なものだということが分かった。自分の命が自分以外のことに必要とされてはじめて、人は生きる意味を感じるようだ。これは人というものの根源を深く教えてくれる。みなさんの中に、家族で傷つき,つらいとか思っている方や、あるいは職場や周囲の人間関係の圧迫に苦しんでおられている方が多いとしても、それはそれらの中に「自分を生かそう」「苦境として隘路を開こう」としておられるからであって、もし大切な自分を本当に捨て、周囲の人に自分を雑巾のようにプレゼントする気持ちになれたら、どんなにか楽になり、解放されるだろうかと思う。結果、生きれるのに、と。もしかして自殺は
、この道が見えなかった方の、誤った道なのかも知れない。
そんなことは普通はできる話ではない。しかしここで一つ、キリスト教信仰というものに目を向けていただけたら、と願う。
私は少年の時から不思議だがキリスト教に興味を持ち、求め続け、学生運動に挫折して二十歳の時に洗礼を受けている。それからウン十年、まあ、ベテランクリスチャンの部類だった。当然神を信じていたつもりだったが、前述した一見不幸な環境になって分かったことは、わたしは誰よりも自分を愛し、神さまより自分のことの方が大切な人間だったことだ。つまりクリスチャンではなく、「自分チャン」だったのである。クリスチャンはアクセサリーで、自分教で教祖はこの私。神であるキリストを、よくもぬけぬけと「主」と呼んでいたものだ。
前述のように、自分が生きながら死んで行くのを、自分ではどうすることもできないでいたある時、そんな腐乱し異臭を放っている自分に、しがみついている夢を見た。十字架は恐ろしい刑罰だが、もう一つ当時、死体に死刑囚を縛りつけ、生きながら腐らせる刑罰があった。それが自分だったのだ。それをありありとイメージしたので、ショックで体が震えた。
それから三日間わたしは毛布をかぶり続け、心から涙と呻きをもって悔い改めた。そして気づいたら日曜日の朝で、もう教会には二度と行けないと思った時、とつぜん神が語りかけてくださった体験をした。
「あなたが私を求めないからです。わたしはあなたを、あなたが生まれる前から愛している神です。」
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私の人生はこの瞬間から再びいのちが生まれた。どうやってこの愛そのもののお方 に応 えていこうかと、狂おしいほど思うようになった。自分の力で自分を捨てることはできないが、自分よりも大切な存在を持てることで、結果としては同じ事になるようだ。そしてこの愛は、たとえ私の命を奪われたとしても、失うことはない。永遠の希望を持った私は、本当に生まれかわった。クリスチャンにさせていただいた。
ぜひあなたにも、このキリストというお方にふれていただきたいと心から私は願う。「神は愛なり」は真実です。 (ケパ)