ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』
これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

準備

2016年06月30日 | ゴスペル
いよいよ明日は「Jゴスペルコンサート」です。
昨夜の祈祷会では、明日のコンサートの為にも祈りました。
チラシの用意、ハガキもすでにお手元に、地域新聞情報ボックス掲載をご覧になって問い合わせも来ました。お天気守られますように。
今回の様子は、

ピースルフルblogで、お伝えしていきます❣️
http://peaceful.tea-nifty.com/blog/?optimized=0

あるいは「ブックマーク」に入り口あります。
ドルカス


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隣人と難民について考える

2016年06月29日 | 信仰

「あなたの隣人を、あなた自身のように愛せよ(マタイ19:19)」とはイエス様のご命令である。

 

少し前にイギリスがEUを離脱するというショッキングな出来事が起こった。これは誰がどう考えても、英国民が賢明な判断をしたとは考えられない。国民投票だから、正しい判断と結果が得られるとは・・・限らない、そのことを思い知らされる。

歴史を振り返ると、第一次大戦後ワイマール憲法というもっとも民主的な体制下で、ヒットラーは合法的な選挙で政権を握るや否や、直ちに憲法を停止し全権を握った。その結果、恐るべき破壊が世界を覆った。

当時ドイツは戦勝国側の膨大な戦後補償で痛みつけられていた。人間のプライドほど、判断を狂わせるものはない。同様にかつて世界を数百年にわたって支配した大英帝国は、今や国を支える産業は見る影もなく、現在はシティーを中心とした金融国家で何とか命脈を保っている。このたびのEU離脱はそれをみすみす放棄する結果になるだろうし、これからイギリスは欧州の片隅の島にある二流国家の道しか残されていないだろう。ほとんどの国民はシティーとは無縁だから、残留して得するのは金持ちや貴族たちであって、自分たちには目先のことしかなかったのだ。

 

イギリス人の判断を狂わせた目先のこととは直接的には難民・移民問題だと指摘されている。上の写真はロンドンの公立学校で、ロンドンの人口の6割がイスラム系移民だという。シリアやリビアから何百万のイスラム教徒が、キリスト教圏のヨーロッパを目指して、命がけで移動しようとしている。いったんEUに入れば、彼らは目指すところのどこにでも行ける。彼らは高福祉の恩恵を目指して、ベルリンやロンドン、ストックホルムを目指す。しかしその豊かそうに見える都市にも、実は多くの貧しい市民がおり、ただでさえ少ない職を奪われ、本来自分たちに使われるはずの税金が難民にぶんどられるのを恐れているのだ。だからイギリスに限らずヨーロッパでは、移民排斥の右翼政党がどこの国でも飛躍的に党勢を伸ばしている現実がある。

 

先に経済のことだけを述べたが、イスラム教徒(モスリム)は、日本人には容易には理解できない特質がある。それは移住先の社会や文化に、決して溶け込むこむことはないという特質である。いやそれどころかヒジャブ(女性が顔や体を覆うもの)とかハラール(イスラム教徒専用の清めた食材および料理)、日に五度礼拝するための礼拝所の要求など、自分たちの宗教、スタイルを世界中どこででも行使する(あるいは、するしかない)存在である。だからヨーロッパの国が人権、難民救済という高邁な理想を掲げて、いったんモスリムを大量に受け入れたなら、それはその国の一体感が失われるだけでなく、国内に警察権力の及ばないイスラム法の半独立地域を許すということであり、それは時にテロなどの温床にもなるということである。だから移民を排斥する政党は、押し寄せてくる難民の彼らに人権はあっても、自分たちの隣人とはなり得ないと「No!」を突きつけているわけだ。

 

これは対岸の火事ではない。周りを海で囲まれ、イスラムの直接的脅威がないとは言いながら、明日は現実となる可能性はある。私たちは世界を知らねばならないし、世界中の人々と分け隔てなく隣人でいたい。しかし今でも外国人が増えたり、行き来が盛んになると治安やゴミ、公衆道徳など多くの課題が噴出する。同胞には自分自身のことのように隣人だと即肯定できたとしても、問題を抱えた大量の外国人が押し寄せてきた前で、それを貫くことができるのであろうか。今からやたら心配する必要はないかも知れないが、少なくともその時には、この国がリバイバルを経ており、しっかりと聖書と神に祈って決める国であってと思う。 「しかし、いま聞いているあなたがたに、わたしはこう言います。あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行いなさい。」(ルカ6:27)のみ言葉とともに。      ケパ

 

 

 

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もう直ぐ🎵 コンサート

2016年06月28日 | ゴスペル
船橋ゴスペルクラブ(Peaceful)のイベントご案内

入場無料ですが、お早めにご連絡下さいましたら、良い席をご用意致します。ケパ&ドルカスは、心からお待ちします。
ドルカス



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賛美隊御用達手作りバッテリー

2016年06月27日 | PC モノ 便利

私たちが招いたTrueVine(トゥルーバイン)が、この金曜日に来る。船橋駅近辺で路上したり、勤労市民センターでコンサートをする予定だ。春・秋のイベントで、今回は少し遅く、夏にずれ込んだが楽しみだ。(通常賛美隊が使うバッテリー)

ところで路上するには、どうしても移動式の電源が入る。路上する多くの賛美隊は当然写真のようなものを持っている。今回はTrueVineからの連絡で、この移動式の電源が一つ故障しており、私たちのをも併せて使いたいと連絡があった。

船橋の移動電源は、綺麗でスマートな既製品と違って、いかにも、という感じの牧師の手作り品である。今晩はその仕組みを少し。
まず基本のバッテリーは、自動車用の12V4
0Bの容量だから、理論上は10数時間以上ができる超強力である。しかもネットでもどこでも買い替えられる市販品なので、安い! 問題は移動式のバッテリーには本体だけでなく、その前後をカバーする諸機械が要ることである。

まずバッテリーで使った電気を再びバッテリーに充電する充電器、今度はバッテリー本体は直流電気なので、その直流の電気を電気器具でおなじみの100V交流出力に変換するACインバーターが必要になることである。

久しぶりに手作り移動電源を出してみると、問題点があった。予測はしていたが、まずバッテリー本体が干上がっていた。そうなると充電することさえできない。さらに今回のバッテリー上がりになった原因が、充電器そのものが故障していたからだった。それではいくら充電してもバッテリーが干上がるわけである。
写真を見て欲しい。今回は新しいバッテリーと新しい充電器(写真)を購入。ずいぶんな出費になったが、これも必要なものなので、感謝の対応。 写真左は新しいバッテリーで、手前は新しい充電器、中央奥がバッテリーからシンセなどの楽器用につなぐコンセントがついているACインバーターだ。
路上では充電器は外し、写真の手作り木の箱にバッテリーとACインバーターを持ち運んで使う。 ケパ



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礼拝

2016年06月26日 | 教会のこと
ハレルヤ〜 新しい週の始めの礼拝です。

始まってます。
m姉妹により、主の祈り

そして聖餐の時です

預言です
そして今日はこの様なプリントが示されてます。
わかるでしょうか?
今日の聖書は ヤコブ書 1章22節から、テーマは、「み言葉の力」
ドルカス



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日比谷公園

2016年06月25日 | 食べる
今日は朝の10時から日比谷公園の野外小ホールで、Jゴスペルのコンサートが行われた。船橋からは秋葉原で山手線に乗り換え、有楽町で降りて歩く。有楽町駅に降りると、私の頭の中には、昔歌流行った「有〜楽町で、会い〜ましょう」が自動的に響き始める。

皇居側に出ると、婚約時代のドルカスに、当時としてはずいぶん高かった携帯をプレゼントしたビックカメラを通り、皇居横の日比谷公園に向かう。公園の入り口近くではすでにコンサートの音が聞こえていて、この前の井の頭公園に比べて「おーっ、こりゃ宣伝効果抜群、いいなあ」と思った。

ステージは写真の通り、大噴水と日比谷公会堂を背景に、公園の高い木々で覆われた涼しい会場だった。大音量の迫力の中、熱い心を注いだ聖霊の熱唱がタダで聴ける、「シアワセ〜」な思いでいっぱいだった。「もうちょっと早くから聴きたかった」思いもかなりした。

さてコンサートが終わると、会場で落ち合った教会員の姉妹とティータイムである。そこに向かって日比谷公園内を歩いているうちに、レストランとテニスコートを見つけた。かつてここでプレーしたはずなのだが、5、6年前の記憶が全く思い出せなかった。ただそのテニスの帰り、レストランの前を通った時、「いつかドルカスと、このレストランでフレンチを食べたい」と思ったことは明瞭に思い出していた。

都心でありながら緑いっぱいの公園にある、まるで一軒家みたいなレストラン、宮沢賢治の山猫レストラン風でちょっと贅沢な夢ですが、神様はいつか叶えて下さることでしょう。リバイバルは現実に備えをしなければならないが、これは夢のままでもいいかなあ。 ケパ




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開所式

2016年06月24日 | 祈り
今日は記念すべき日です。
私達の支援している、郡山のファミリーホーム「アーモンドの枝」の開所式が行われたのです。
最初にゴスペルグループ「Gifts」の賛美「永遠の愛」から、開所式がはじまりました。
そして社会福祉法人「からし種の会」の理事長挨拶を始め、来賓の方々の挨拶。

いよいよ始まります。

最初は不可能と思われた事でしたが、神様の言葉に従い、信じ、より頼む事によって、今日の日を迎えました。
働きはこれからですから、さらにお祈りと支援し続けたいですね。

先週は、カンボジア孤児院から子供達がご支援により来日して、初めての経験をたくさん体験して帰りましたが、子供達はずっと日本へ来る事を祈っていました。
これは始まりです。今回入っていない子供達も必ず日本へやってきます。さらに子供達は祈り続けますから。
主は本当に素晴らしいお方。ほめたたえます。(写真は開所式のblogから)
ドルカス


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牧師とスポーツ

2016年06月23日 | 感謝
私は18歳の時から、46年間以上、テニスの愛好家だ。しかし青なり瓢箪で、からきし運動音痴だった上、体育会系は脳みそまで筋肉で出来ているとうそぶいていた文系だったので、一大変身だった。

ところでこれがテニスのようなスポーツでなく、ギターとか英語とかにはまっていたら、今頃はどれほど牧師という仕事上、役に立ち、助けられていたことだろう・・・と思わぬでもない。「あ〜あ、仕方ないとはいえ、返す返すも・・・・」と思っていたところ、示しがあった。

スポーツすることによって、人生の試練、困難の時、私がどれほど守られてきたのか・・・今に至るまで、私は年相応に老けてはいるが、いたって身体は健康であるし、心理面でもバランスが取れているように見て取れる。これにはテニスという常に勝敗を争うスポーツが大きく影響していることに、疑いの余地はない。勝敗を競うスポーツに、妄想や高慢が入り込むことはできない。正しく、その時の自分の力を教えてくれる。逆に言えば、心を病むほどに高慢な人は、スポーツを続けることができないはずである。上には上がいるのであるから。
さらにテニスを通しての仲間という存在も大きい。実にテニスとは私の、心と体の護りであった。

古代ローマ人はスポーツの競技場と温泉施設を、あらゆる征服地、植民地に作った。コロッセオ(円形競技場)や戦車競技場などは有名である。Pax Romanaと呼ばれる大帝国と安泰は、巧みな政治術だけでなく、心身を健康にするスポーツがあったからこそではないかと思う。

キリスト教の土台として、「十字架と復活’」があるが、今神から与えられている血肉の体を大切にできないようでは、まして御霊の体では、どうなるだろうか?
スポーツすることで、体の内なる声を聞き、ケアすることができるようになる。スポーツを通して神は、霊肉ともに護り、神の使命を全うするに必要な体力と心を与えてくださっている。
神に聞き従いつつ、このストレスの多い社会、悩める方、先ず教会に行き、そしてスポーツ、しましょう! ケパ



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思い出しながら

2016年06月22日 | 教会のこと
先日の映画を
思い出しながら一日を過ごし、礼拝の後の
掃除をしていても、これから観賞する姉妹に映画のストーリーを話したり、感想を語ったりでしたが、
まさか 神学校の学びの中では思いを断ち切り受講します。
預言の入門を、いま、英語チェコ語などにも翻訳されている、パウロ秋元師著「預言」を、教科書に学びます。続いて実践と小テストもね〜
ドルカス



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天国からの奇蹟Part2

2016年06月21日 | 映画•映像
この度も渋谷のヒューマントラストで表題の映画を観た。平日火曜日の昼間にもかかわらず、大方七割方の入りで驚いた。映画を観れば、それも納得する素晴らしい映画であった。そしてかのストーリーがフィクションではなく、事実に基づいた映画であるのがすごい。

すでに試写会の段階であらまし伝えてあるので、今回は重複しないよう特筆すべき点をお伝えしたい。まずこれはノンクリスチャンの方にぜひ、観ていただきたいということ。
多くの方は神は存在しない、奇蹟なんて見た事もない(いや、あると言うのは、どうせ大げさに言いふらしているか、インチキっぽい)と常識や、これまでの経験から判断されている。私もそうだったし、クリスチャンになってからでも、「奇蹟?そんなことは起こらない」と思っていた。つまりバリバリの聖霊派以外のすべての人に観ていただきたい映画だ。(下の写真は映画ではなく、事実を証明する実際の家族で、メガネの少女が本人)

今回新たな視点で見ると、この映画は以下の二つの事を言っている。

一つは「すべてに神の御手(奇蹟)があった」こと。
主人公の母親は(おそらくマスコミにイチイチ語るより、共同記者会見の場として教会での証しの場を選んだ)語っている。「奇蹟は(・・・10メートルぐらいの高さを頭から落下して、首などの骨折一つなかったこと、ほとんど望みが無かった難病がそのショックで瞬間的に癒されたこと以外に)、いたるところにありました。奇蹟は満ち溢れていた」と。
これが分かるようで、少し分かりにくかった。私なりに解釈すると、奇蹟(=神の手、神の業)は娘を思いやるボーイフレンドの優しさに、シカゴ子ども病院の受付け係が意を決してDr.に話したことに、レストランのメイドの慰め手の出現したことに、飛行機の搭乗券の発券にも、小さなことのすべてにあったということ。
神を信じない人は、これらすべてを偶然で処理し、そこに何の意味も見出さない。それらに繋がりは何もない。しかし神を信じる者には、上記に挙げた一つ一つのそれまでのことの何一つ欠けても、最後の大奇蹟に至ることはなかった。だから娘の病、苦しみ、それらを通して神の綿密で周到な恵みの計画が、今となっては私は分かりました。私は本当に不信仰で間違っていました、という悔い改めの証言なのである。

二つ目は、どうしてある者は死に、ある者は(奇蹟的にでも)癒され生かされるのだろうか?その生死の分かれ目、神の御心とはなんだろうか? この問いに正しく答えられる人間は、おそらくいない。
しかし間違っている可能性が高いが、想像し類推することはできる。小児ガンで早逝した少女の父親が証言したように、十字架をプレゼントされ神を信じた少女は、苦しまずに、平安に死を迎えることができた。人は生まれたからには、必ず死ぬ。神を信じなければ死は怖いもの、恐ろしいものであり、苦痛は避けられない。しかしむしろ天に行ける希望の道となれば、痛みより喜びがある。この少女の死は、その父親をして奇蹟を信じる(つまり天国があり神は存在する)者に変えた。

奇蹟によって生かされ証しすることに神の御心があり、(奇蹟が無いようにも見える)天に召されることにも、大きな奇蹟、神を信じるという神の計画と最善がある。だから神を信じればわかることに、神はご自分を信じる者のそれぞれの人生に、最善のことしかお出来になれないお方なのだ。それが、それぞれの人生にある奇蹟でもある。

ケパ



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