渋谷の映画館で表題の映画を観た。これまでクリスチャン映画を何度か観に行ったが、今日ほど映画館の内外で主の十字架の人たちにたくさん会ったのは初めてで、広報の威力はすごいと思った。
ところでこの映画、試写会で観たので二回めだが、二回観ることでさらに気づくことが多く、それはとりもなおさず内容のある良質な映画であると言える。何に新たに気づいたのか、と言えば次の点である。
◯イエス・キリスト役の演技~基本的にはビートルズのような長髪で鼻筋の通った知的な面長、というのが多かったが、今回はイケ面でもなく、ちょっとハグが多いが、元大工らしい庶民的なあたたかさというものが強く出ていた。これは新たなキリスト像とも言うべきである。
◯この映画は聖書に忠実な映画である。奇跡を奇跡とし、事実あったこととして伝え描ききっていた。キリストの復活はもちろん、皮膚病者への瞬時の癒しなど、そこだけが注目されることのないように数を控えながらも、復活の奇跡や不思議が聖書の記述のまま、実に忠実に描かれていた。特筆すべきはキリストの復活は、蘇生とかのいわゆる再びまた死んでしまう「生き返り」ではなく、御霊の体としての新たな体となっての現れ(The Resurrection)を強調していた点である。
それは物理的な空間や時間の制約を超越する。だから御霊の体であるキリストは突然室内に現れ、突然皆の目の前で消えてしまわれるのだ。そこをしっかりと描ききった点など、一歩間違えばナンセンスと評されることを恐れず、とにかく聖書に書かれてあることをそのままなんの解釈も付け加えないで描いており、これまで観たことのない忠実さであった。
◯映画の冒頭シーンとラストのシーンが継ぎ目なく繋がっている(シームレス)のであるが、最初、これではまるで弟子たちと行動を共にすることを拒否した主人公が、新たに自分探しの旅にでも出かけるのだろうかといぶかしく思った。
しかし二回観ることで、主人公クラヴィアスがローマ軍司令官の指輪を食事の代価として置いたこと、そして回顧を通しての「私は今、変わった」と言う言葉が、明確に信仰に覚醒したことを表しているのだということがわかった。
次は余談だが、キリストが葬られた場所としては現在「聖墳墓教会」と「ガーデンチューム」があるが、この映画は後者の説に立っている。だから「ゴルゴタの丘」は出てこない。だいたい丘というような、そのような聖書上の記述はどこにもない。この映画での十字架の処刑場は丘ではなく、今はガーデンチュームに隣接しているバスの発着場辺りを想定しているのがわかる。私も個人的にこちらの説をとりたい。
それから次は全くの余談・・・映画を観ながら主役のJoseph Fiennes(ジョセフ・ファインズ)をどこかでよく見てるよな、と思っていると、気づいた。ユニクロの宣伝に出てくるテニスの世界No1プレーヤーのジョコビッチそっくりであることに気づいた。これはまことに余計なことでした。
以上、先週の土曜日から公開で、今のところ公開は二週間と聞いている。キリスト教映画のほとんどが十字架で終わりになっている中、考えてみれば、十字架は復活してこそ完結なのだ。クリスチャンでも十字架は信じていても、御霊の体での復活を観念的でなく、事実として自分たちもそうなると信じている方は少ない。
聖霊のバプテスマを受けていないということは、霊的なことや復活に対する確信というものが弱い。聖書ではこれを「証印」と言っている。繰り返すが、聖霊与えるためにキリストは人々の罪によって十字架にかかり、復活して罪を滅ぼされた。
罪が赦されてなくなったその上に聖霊が住まわれ主として働かれることができる。この映画を観て、復活の恵みを特別に感謝することができた。 ケパ
ところでこの映画、試写会で観たので二回めだが、二回観ることでさらに気づくことが多く、それはとりもなおさず内容のある良質な映画であると言える。何に新たに気づいたのか、と言えば次の点である。
◯イエス・キリスト役の演技~基本的にはビートルズのような長髪で鼻筋の通った知的な面長、というのが多かったが、今回はイケ面でもなく、ちょっとハグが多いが、元大工らしい庶民的なあたたかさというものが強く出ていた。これは新たなキリスト像とも言うべきである。
◯この映画は聖書に忠実な映画である。奇跡を奇跡とし、事実あったこととして伝え描ききっていた。キリストの復活はもちろん、皮膚病者への瞬時の癒しなど、そこだけが注目されることのないように数を控えながらも、復活の奇跡や不思議が聖書の記述のまま、実に忠実に描かれていた。特筆すべきはキリストの復活は、蘇生とかのいわゆる再びまた死んでしまう「生き返り」ではなく、御霊の体としての新たな体となっての現れ(The Resurrection)を強調していた点である。
それは物理的な空間や時間の制約を超越する。だから御霊の体であるキリストは突然室内に現れ、突然皆の目の前で消えてしまわれるのだ。そこをしっかりと描ききった点など、一歩間違えばナンセンスと評されることを恐れず、とにかく聖書に書かれてあることをそのままなんの解釈も付け加えないで描いており、これまで観たことのない忠実さであった。
◯映画の冒頭シーンとラストのシーンが継ぎ目なく繋がっている(シームレス)のであるが、最初、これではまるで弟子たちと行動を共にすることを拒否した主人公が、新たに自分探しの旅にでも出かけるのだろうかといぶかしく思った。
しかし二回観ることで、主人公クラヴィアスがローマ軍司令官の指輪を食事の代価として置いたこと、そして回顧を通しての「私は今、変わった」と言う言葉が、明確に信仰に覚醒したことを表しているのだということがわかった。
次は余談だが、キリストが葬られた場所としては現在「聖墳墓教会」と「ガーデンチューム」があるが、この映画は後者の説に立っている。だから「ゴルゴタの丘」は出てこない。だいたい丘というような、そのような聖書上の記述はどこにもない。この映画での十字架の処刑場は丘ではなく、今はガーデンチュームに隣接しているバスの発着場辺りを想定しているのがわかる。私も個人的にこちらの説をとりたい。
それから次は全くの余談・・・映画を観ながら主役のJoseph Fiennes(ジョセフ・ファインズ)をどこかでよく見てるよな、と思っていると、気づいた。ユニクロの宣伝に出てくるテニスの世界No1プレーヤーのジョコビッチそっくりであることに気づいた。これはまことに余計なことでした。
以上、先週の土曜日から公開で、今のところ公開は二週間と聞いている。キリスト教映画のほとんどが十字架で終わりになっている中、考えてみれば、十字架は復活してこそ完結なのだ。クリスチャンでも十字架は信じていても、御霊の体での復活を観念的でなく、事実として自分たちもそうなると信じている方は少ない。
聖霊のバプテスマを受けていないということは、霊的なことや復活に対する確信というものが弱い。聖書ではこれを「証印」と言っている。繰り返すが、聖霊与えるためにキリストは人々の罪によって十字架にかかり、復活して罪を滅ぼされた。
罪が赦されてなくなったその上に聖霊が住まわれ主として働かれることができる。この映画を観て、復活の恵みを特別に感謝することができた。 ケパ