牧師として一番悩むのが、「神の声が聞こえません」「どれが神さまの声なのか、わからないのです」という悩みに対峙した時だ。
誤解の無いように少し補足する。イエス・キリストの十字架を信じると言うこと、それは自分の人生を神さまに捧げると言うことであり・・・・(残念ながら、元のように自分が中心のままのクリスチャンも数多くいます)・・・・新約聖書の時代、それは神さまに聞き従って生きるということになります。けれども、神の声が聞こえなくて、どうして神さまに聞き従えるのでしょうか。聖書があるではないか、その通りです。しかしアウトラインはあっても、日々の具体的な生活にまで聖書は細かく指示してありません。そのような「聞こえない」方の悩みは、かつての私自身を含め、深刻なのです。
そんな時、一般的な答え・・・・「聖書から(レーマとして)語られます」「熱心に祈り求めなさい。御心ですから必ず語られます」「神の声をとどめている、何らかの罪があるのかも知れません。もし導かれるのなら悔い改めてみてください」・・・・・・を伝えても、切実なその問いにちゃんと答えているかどうか、様子を見るとどうもあやしいことが多い。
そこで自分の体験を語る訳だが、これは説得力があるので、つい熱を入れる。しかし、個人的な体験が他の人に通用するとは限らない。神には方程式などなく、全くの自由である。だから神が語られる方法、それは神ご自身がお決めになられるのであって、人が知ることはできない。
では、この悩む信徒に対して、どうすればよいのだろうか?ただしすべての原因は人の方にあって、神にではない。だから「時がまだ来ていないのですよ」と語りたいのだが、これは切実に悩む者を突き放すのに等しい言葉なのだ。だからほんとうに、共に熱く祈ること、それしかなく、この許された状況に意味があり、心から感謝するしかないのだ。ああ主よ、助けてください!そして熱心に求め続けていれば、必ずそれは答えられることは、私の体験からも絶対確かだ!
こういう時、私はよくも信仰を捨てなかったなという、長い試練が許されたこと。最後は与えられるまで絶対あきらめられない、これなくして生きて行けないという、執念のような飢え乾きがあり続けたことを思い出す。
「あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう(マタ7:9)。」
ケパ