ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』
これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

メッセージの代わりに

2021年06月15日 | 証し

この日曜日の礼拝メッセージが、音声不備のためYouTube配信ができませんでした。

昨日のブログに書いたのですが、私たちは、あることに気がついたのです。

ケパさんはなんと本当になんとその日初めて、ご自身が立たれたのです。
メッセージでの証しはいつもされるのに、それとは別にですよ

教会では毎回、証しと特別賛美は別枠で録画しています。


今回はメッセージの代わりにこれを配信しよう~
今回初公開、ケパ牧師の証しを配信致します。
 
まるで主が準備して下さったかのようにです。
今週はこの録画をYouTubeで公開することができます。

👇こちらからご覧になれます)

20210613日牧師の証(自転車)

是非ご覧下になってください。

ケパ牧師のそれは喜びの証しをお聞きになれます。ハレルヤ
 
ドルカス
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ようやく与えられたチャリ

2021年06月14日 | 証し
13日の主日礼拝では、YouTube配信の為の撮影時、音声においてのトラブルががあり、YouTubeでの牧師メッセージは、観ることが出来なくなりました。

しかし、1000字で綴るケパ牧師のメッセージ(実際に数えたことがないのでして〜失礼します‥‥)は今日既にUPしましたので、
👇お読みいただけます。

この13日は

久しぶりというか、証しの時間では初めて?と、牧師のお証しがありました。

引き続きドルカスが、証しです。
本来牧師が後からとなるのですが、今回の証しは、
天の父がケパさんに憐れみのうちに下さったと、願った通りの🚴‍♂️がそれも私達の記念日に届いた。その証しなのです〜
ですから私は後から少し証しさせて貰ったのです。
その恵みを皆さんと分かち合えました。

引き続くメッセージは


聖書✝️ IIテサロニケ 2章3節を開き
「終末の教会」をテーマでした。

この日は、ある方の証しを思い出したと後から聞きましたが、いつもと違った感覚でした。
向かい風に向かって叫ぶ❗️その様な、
これはわたしの表現でありますが〜

昨日は機材トラブルもありましたが、主の恵みで満たされました。 アーメン 


ドルカス   
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ピアノを弾いて

2020年11月06日 | 証し
   私は小学生の時にピアノを習わされ、高校生になって自主的にピアノを習った。けれどもまったくモノにならなかった。


(愛用のヤマハのステージピアノ)

 ところが船橋の地に実質開拓教会として派遣されて来て、礼拝でピアノを弾ける人がいない、さあ困った、どうしようと言うことになって、やむなく多少の経験がある私が受け持つことになった。

 しかし伴奏をやってみると、これが意外と楽しい。練習によって出来なかったことができるようになるからだ。これは半世紀しているテニスとまったく同じだ。出来なかった所ができるようになると、嬉しいし、楽しい。
 はじめは年寄りが苦手なシンコペーションなど苦手なリズムに苦労し、次に右手と左手の動きがまったくバラバラで、これは弾けそうにもないと感じる。しかし練習を続けることである時、パッと出来るようになる時が来る。このように上達が明瞭にわかる、そういうところがピアノの醍醐味なんだろうと思う。
 私はテニスを半世紀やっているけれども、練習とは繰り返し反復運動で体に無意識に反応できるよう覚えさせることである。ピアノはそのような連結の成果がハッキリわかるもので、気がつけばピアノやキーボードを何台も収集するほどになっていた。※腕前とは関係なく、上達は遅々たるもの。

 ピアノを弾いていて感じるのだが、これは指を十本使って弾く。リズムと特に和音はピアノの独壇場だ。音は脳に心地良いもので、ボケ防止に大である。そして何よりも、こんな下手でも弾けば、皆さん喜んで歌ってもらえる、それが天にも登れるほど嬉しい。 
神様とピアノに感謝。

ケパ


 
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同じクリスチャンに、教会の特徴、どう伝える?

2019年08月08日 | 証し
勤めていると、クリスチャンと知り合う機会がある。そんな時は自分の教会名とか教派名を言えば「あぁ、そうなんですか」と一応は分かり合えるし、そわなことがほとんどだ
ところが私たちの教会、今のところまだ、あまり知名度が高くない。以前の「主の十字架」でもそうだったので、教会名を現在の「The Light of Eternal Agape、えーっ日本語で『永遠の愛の光教会』と言います」と名乗っても、相手の反応の多くは「ハアーッ ????」。



そこで群れの歴史とも言える流れを説明するか、又は大雑把であるけれど、福音派と対比しての説明をすることになる。

その流れを言えば、福音派からカリスマ派に転じた一人の献身者から始まった教会・・・馬橋教会から株分けされてのレーツがある教会です。

う〜ん、これも長ったらしい説明だ。

聖書は(原典においては)誤り無き活ける神の言葉であると信じています。それ故に私たちは神に聞き従い、聖書通り、九つの聖霊の賜物を実際に用いて前進し続ける、カリスマ派の教会です。

う〜ん、イマイチ説明が公式的でよくわからない、かも。ただハッキリ言えることは、普通の立派な会堂を持つ福音派の教会とは、一線を画す聖霊の賜物の信仰を持つ教会だということ。神の力と栄光がリアルに現れ、あらゆる病といやしがある教会であることを隠してはいけないということだ。

どなたか、教会の特徴を伝える良い知恵をかしてくださらないだろうか?


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信仰の真価が試される時

2019年05月25日 | 証し
クリスチャンの死は、その人の信仰をもっともよく表しているものだ。
聖書で、特に黙示録を見ると、殉教者は特別に祝福され、千年王国ではキリストの祭司、王とされる。しかし殉教者は神に特別に選ばれ、召された者であって、希望してなれるものではない。(黙示録20:4-6)
"また私は多くの座を見た。それらの上に座っている者たちがいて、彼らにはさばきを行う権威が与えられた。また私は、イエスの証しと神のことばのゆえに首をはねられた人々のたましいを見た。彼らは獣もその像も拝まず、額にも手にも獣の刻印を受けていなかった。彼らは生き返って、キリストとともに千年の間、王として治めた。"ヨハネの黙示録204©2017
人は必ず第1(血肉の体)の死を迎える。永遠のいのちを与えられているクリスチャンにとって、死は天国への凱旋であり、喜びである。もし死が怖いとか恐れる感情がどうしても強く持ってしまうならば、そのクリスチャンは真に救われていないか、天国行きの確信が持てないでいるかだ。それは命の書に記されていないことを予感させられているのかも知れない。それで怖いのかも知れない。遅い、ということはあり得ない。今すぐにでも悔い改め、神のあわれみにすがりましょう。
 
残念な例がある。私たちの群れではないが、50年の長きに渡ってとある教会の奏楽奉仕者を務め、80代になられ、その教会の長老格であった方の話である。 前立腺の病を得、その死に際に当たって「どうして神は私を棄てたのか!」と言われたという。
もう一つ、私がつぶさに目撃したクリスチャンで、末期ガンでもはや数日しか余命がない中でも、まだ死を受け入れていなかった。そんな中、見かねた看護師が本人に状況を教え、死に備えるよう説得を試みた。しかし本人は頑として自分の状況を認めず、最後まで死と戦い、死を受容することはなかった。そのため周囲に告げる言葉もなく、看取った者として、本当につらい別れとなったことが記憶に新しい。
 
信仰の真価が、血肉の死に当たって、まるであぶり出し文字みたいにはっきりと浮き上がってくる。会堂を借りたりする時、ずいぶんとお世話になったノンクリの不動産会社の社長がいて、ある時、どうして私たちを信用し、世話をしてくれるのかと聞いたことがある。すると「若い時、あるクリスチャンが死を恐れずに死んだ」から、と答えてくれた。
 
これと関連して、クリスチャンが病に、あるいは障害にあった際、すぐに「癒してください」、また元のように直してください」と祈る人がいる。まるで「困った時の神頼み」「祝福されるためにクリスチャンになったのに、これは違う」と受け付けない。
よく考えてほしい。クリスチャンはすでに一度神に自分を捧げた存在なのだが、こうなるとこれは、やっぱり未だ自分が主権者なのであって、神は自分のために存在するのだ。やはり心から悔い改めなければならない。
 
これは私の証で、初めて死を身近に感じた時のことである。60歳前の健康診断で「結腸がんの疑い」と診断された。急を要するので次の大病院に急行するよう託された、自分のレントゲン写真を見た。大腸に入ってすぐのあたりに素人目にも大と中のはっきりとした異様な形を見、インターネットで病名の症状を調べてみるとドンピシャ当てはまっていた。「これは急性で、多分ダメだな」と死を覚悟した。
 
不思議なことに、死への恐れより、心は平安で天国への期待に満たされた。確かに実際にはまだガンの苦しみ、痛みを経験したわけではなかったが、それでもそんな通過儀礼より、愛する方のお側に行ける、その喜びがはるかに大きかった。だから喜びというか嬉しさが湧き、平安と言ってもよい、それを待ち望む感じだった。
 
唯一気がかりなのは、再婚してまだ間がないドルカスのことだったし、まだ語られた使命を果たしていないことだったのだが。検査の結果は意外なものだった。全くガンが無かったのである。あれは他人のものだったのか、さもなくば、ただガンが完全に消えたのである。
真価が試される前に・・・。
クリスチャンで神を愛する方なら、まず証のためにも明確な聖霊のバプテスマを求め、その上で御心に聞き従う歩みをされると思うが、その段階で一度、自分の使命とは、と、それと関連し、仕上げとしてこの世でどのような最後を自分が迎えるのか、神さまにうかがっておくことをお勧めしたい。
きちんと先のことがわかっていれば、惑わされることもない。聖書で全世界のこれからが預言として書いてあるのは、そのためである。
 
クリスチャンにとって第1の死は、ある意味、問題ではない。しかし第2の死を予感し、恐怖に恐れおののく世の方々への証として、自分の死が用いられることは素晴らしい恵みだ。言わば真価が試される時である。
 
 
 
 
ケパ
 
 
 
 
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4月21日主日

2019年04月21日 | 証し
おはようございます
船橋地方今日もお天気に恵まれてます。
今日の礼拝は、第四会議室で行われます。
Facebookビデオで、オンラインで礼拝に参加して頂けそうです。
是非聖餐の準備等されまして、10:00からの礼拝にごさんかください。
 
主に感謝いたします。
 
 
 
 
ドルカス
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一度は死を覚悟した

2019年03月18日 | 証し

今日の夕方近く、突然に電話が鳴った。それは月刊誌「🌈雲の間にある虹」からで、以前それに載せていただいた私の記事の号を「今、大量に処分しようとしている。欲しくはないか?」と言うものだった。おまけにそれは私がいくつか書いた記事の中でも、その号だけ在庫が少なかったもので、即座に「喜んでいただきに伺います」と答えた。

それは「結腸ガンの疑いからのいやし」と題したもので、その内容をかいつまんで言うと、検診の結果、大きなガンを疑われ、急遽、確認のための内視鏡検査を受けたあらましである。※2010年11月号 手元に在庫がある限り、無料でお渡しします。

 

この時私は、こんなに大きなガンが急速にできたのであれば、生存にあまり希望は持てないなと思った。それで祈った。「神さま、私は天に召されて行くのでしょうか。それならそれで構わないのですが、あなたからいただいている使命、教会の牧師として立ちリバイバルの使命を果たせ、が未だです。更にドルカスに約束した二人一緒に携挙されよう」が果たせなくなるのでしょうか」と。

結局この時私は、死を現実に覚悟しながら、「天国へ行ける」喜びの方が自分を強く支配し、恐れに優っていたことに自分自身驚いた。愛する父の元に行けるという喜びと平安があったのだ。死の苦しみがあったとしても、それは生みの苦しみ、いっときのものだ。

 

内視鏡検査は別室で数人の医師が見守る中で行われ、私もモニターを見ていたが結果的には全くの異常がなかった。あのレントゲンの大きな腫瘍らしきものはいったい何だったのか?信じられないほどの結果だった。

翌日のこと、この結果をP牧師に問われた際、聖霊が私を強く促したため示しを告げ、使命を果たすための「マケドニアの叫び」牧師派遣第1号となった。後で考えてみると、それを実現させる絶妙なる神の計画、マケドニアの叫び、レントゲン写真の取り違えとしてしか理解しようのないものであった。

この経験で、クリスチャンは死を恐れるどころか、血肉の体の制約からの解放を喜ぶという体験をしたし、もし命がこれからもあるのであれば、使命を果たすために宣教に立つようにと示され、この船橋に牧師として即座に派遣される成り行きになったのだった。

 

定期検診とそれからを、神様は実に絶妙なタイミングで、その計画を進めてくださった。そのことを思い出し、畏れ、主を褒め称える。

 

†「たとえ私たちの地上の住まいである幕屋が壊れても、私たちには天に、神が下さる建物、人の手によらない永遠の住まいがあることを、私たちは知っています。私たちはこの幕屋にあってうめき、天から与えられる住まいを着たいと切望しています。

コリント人への手紙 第二512節聖書 ©2017

 

 

ケパ

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御体(教会)の大切さ

2019年03月13日 | 証し

今更ながら、である。教会の大切さを思った。

聖書では教会はキリストの体(からだ)である。キリストの体に例えられた教会は、目や耳、手や足という各肢体の部分となる教会員で構成されている。

「あなたがたはキリストのからだであって、一人ひとりはその部分です」(1コリ12:27 ©️2017)

体であれば、不要な部分は何一つ無いし、どこか体の一部が怪我をしたり、痛めば、それは即座に全体が痛むのは当然だ。だから教会では互いに助け合うし、祈り合う。(写真は最近訪問した教会)

      

それ以上に大切なのは、教会は聖書を教え、信仰を育てる母体である。罪を教え、悔い改めの洗礼を授け、証と伝道の器と変えられていく。大切なのは、聖霊を宿す自分を、教会という御体の中にはっきりと属させることだ。教会に属し、その体の部分として立っていないクリスチャンは、例外なく信仰を失うか、挫折して行く。

 

それはまるで、植物が発芽しても根を張れず、幹とか茎がふにゃふにゃしてしまい、しっかりと立てないでいるようだ。

また伝道という面からも、個人的に伝道しても、本当に相手を思うなら、必ず教会に誘い、教会で牧師を通してのきちんとした信仰を持つ必要がある。(牧師夫妻です)

      し

教会に属すると言うこと、教会の大切さを知っていることは重要だ。現代ではインターネットが普及し、オンライン会員としての存在も認知されるようになって来た。しかしできるだけ出張や直接行動して、礼拝や集会に機会を捉えて参加する、顔を覚え合うことは必須だと思う。何よりも互いの祈りが異なって来るし、一致が進んでくる。この時代、そのような道具が一般化しているので尚更だ。

 

 

 

ケパ

 

 

 

を離れて

 

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失なってはじめてわかること

2019年02月26日 | 証し

「痛い!」とドルカス。

「どこが?」

「肩、右肩の関節が。」

「関節、じゃあ六十肩でもなさそうだなぁ・・・」と言いつつ、私にはその痛みの経験がないので、ドルカスの痛みを思いやることができない。寄り添って祈ろうにも、どうも迫力が出てこない。とはいえ癒しのお祈りはした。

これは身体の痛みだが、その時なぜか、父の葬儀の時のことを思い出していた。父は長年町政の重責を果たし、在職中に突然逝った。私と言えば弱冠29才で、葬儀では境内を埋め尽くした千人近い人々に、喪主として立ったのだった。それで自宅の外を出歩くと、あちこちの人からお悔やみの声をかけられた。

口上を述べる向こうは父を知っているからだが、受ける私は相手を全く知ってない。父との関係がどれほどあって、それでどれほど悼んでくれているのか、それがわからない私にはどうにもと惑うばかりだった。

そんな中にも「実は最近、私も親を亡くしたばかりで・・・」と語りかけてくれる人がいて、そんな人に対しては私も心を開かさせられた。慰めは、体の痛みのように、同じく痛んだ人でなければなかなか通じるものではないようだ。

家族を失って12年になる。その時痛切に感じたのは、家族の大切さだった。私が学んだのは、信仰を除けば、男が外でどんなに成功しようと、出世しようと、家に帰れば荒んだ家庭、バラバラの家族であれば、そのすべては虚しいということだった。無論私は成功もしなければ、そんな家庭を顧みない男ではなかったはずなのだが、それなのにいちばん大切な家族をすべてを失うことになった。そして痛切に反省したことは、仕事のあまり、家族との時間を大切にしてこなかったことだった。夫婦のすれ違い、それは妻の心の病のせいだったと自己弁護する気は無い。私が家庭を大切にできなかった報いを受け、家族がその犠牲になったのだ。

しかし逆に神しか私に残されていなかったのは、本当に祝福だった。こんな私を神は、十字の愛を持って愛し、待ち続けたと語ってくださった。信じ難いこの神の語りかけ。この愛に比べられるものはない、そうはっきりわかった。

私は捨てられる一切を捨てて、神の導きにより上京して献身。もう一つの語りかけ、「あなたは結婚する」の通りに、上京して一年余りで再婚した。その時私が神に願ったのは、共に時を過ごすことだった。

確かに体が違えば、痛みは分からない。しかし同じ空間と時をつとめて共有することはできる。すると、確かに痛みは分からなくても、痛みを理解し、思いやることはできる。場所と時間を共有する、つまり夫婦はいつも一緒でないとしていけない。そうでないと、世界が異なってしまい、心も異なって理解し思いやる土台が困難である。

ケパ

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ともに喜んで〜

2019年02月25日 | 証し

聖書にこのような言葉があります。

求めなさい。そうすれば与えられます。

捜しなさい。そうすれば見つかります。

先日ね。このみ言葉の恵み受け取りました。

実はいつも使っている大切なものを置き忘れた。どこに置いたのかわからない。途中で記憶がないのよ。

神様に、あぁどこに置いたか忘れました。記憶が戻りません。プッツンと切れた記憶戻りません。感謝します。こんな私を責めようにありません。感謝です。この数日そのように祈りながら探してました。

祈って、あっ!ここ?あそこ?と捜しても見つからない。諦めようかと思うけど〜

求め続けよ。捜し続けよと。心に思わされ諦めかけては祈った。

一昨日お風呂に入った時、祈ってたら、フッと、あれ?あそこ見てない。👆と思わされ

慌てて着替えて、ケパさんに「私あそこ見てない。捜してない」と言いながら、ベットの下のパジャマ入れの引き出し開けてみた。一番上のパシャ探ったけどない。

ないか〜と目を移動したら、そこにあった。

マウスピース 見つかった(袋に入れてあります)

ケパさんあった。見てみて〜あった。

ねぇ一緒に喜んで〜

天のお父さまに感謝しました。諦めず捜し続ける事出来ました。見つかりました。

なんて嬉しいことでしょう。もう見つからないよ。と

再度作ってもらわなきゃと、諦めかけてた。けど諦めきれず祈ったのよ。

どのような事も諦めず求め続けよう。捜し続けよう。叩き続けようと、信仰の告白です。

聖書の言葉は素晴らしいですよ。

ハレルヤ〜 ここに証しします。

ドルカス

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