ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

デジャヴな牧師のアルバイト

2019年05月31日 | 感謝
今日で5月が終わるが、この5月の連休明けから、私は某「放課後等デイサービス」にパートで勤めることになった。略して「放デイ」と言う。
 
小学校などの学童の放課後、空き教室などで5時まで預かってくれる留守家庭(名称は各自治体で異なる)から始まって、さらに進んでミニプレイルームを備えたような全児童受け入れの児童館などが整備された。
 
しか障害を持つ児童生徒向けに、2012年大幅に緩和改正され、民間業者まで参入を許されて整えられたものが今回勤めることになった放課後デイ施設なのだ。(お迎えで立って学校を見ていると、本当に、また職場に戻ったような錯覚がする)
 
そういうわけで、私は12年ぶりに、施設の子どものお迎えに小学校や特別支援学校、児童館などの敷地内に入ることが多くなった。今日も小中学校の脱靴場前にきちんと名札をつけた私は、そこで子どもたちを待ち受け、特別支援の教師からじかに預かっていく。
 
私にとってこのことは、とてもデジャブ(既視感)な瞬間で、立場が入れ替わったような不思議な感覚になるのである。12年のブランクが瞬間的に消え、障害児学級担任だった私が子どもを預け、同じ私が子どもを受け取っているような、昔していたようなそんな変な感じである。
 
まあそれはほんの一瞬のことであって、放デイに戻り、子どもたちと無心に遊んだり、ルールや教えたりする。
 
現役の時は子どもと遊んでいても、心は教える内容や様々な書類と案件のことで集中できなかった。しかし今は、全くの無心である。だから楽しい。この民間施設は神様が導かれたところであって、この地に来てはじめて地域の人々と本格的に接することができ、そのことを神さまに感謝する。
 
 
 
 
ケパ
 
 
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オリンピック❣️

2019年05月30日 | 生活
、皆さんはどうされましたか?
来年のオリンピック開催観戦チケット
ギリギリ締め切りの日。
時間延長になったと、ケパさんの一言で私もパソコンで申し込んでみた。
その待ち時間。待つ人の人数が一目で見当付かない程のアクセス数をみた。
入場券購入のためのID登録のためにです。
真夜中に、一時間待ち〜を体験する。
時々パソコンチェックして、
開会式と閉会式のチケットの抽選申し込みに、
チャレンジした。
 
シニア世代特別枠???の、
まさかを狙ってね〜
絶対テレビで見た方が全体わかると思いながら、臨場感は、味わえないね。と。
さあどうなるんでしょうね〜
 
¥2200 のチケット抽選申し込みでした。
 
 
ドルカス
 
 
 
 
 
 
 
 
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悲惨な事件に自分を重ねて

2019年05月28日 | 随想
今朝の7時45分に起こった川崎市登戸の殺傷事件、12歳の女子児童と保護者たち2名の犠牲者を出し、そのほか残り15人も大怪我を負った。
実に計画的な犯行で残忍な犯行だ。永遠のいのちを持たない人々のやることは、本当にゾッとする。犠牲者の方々に対して、あまりにもお気の毒で言葉も無い。
 
ところで犯人は51歳の男だそうだ。それを聞いて、私も51歳の時に自棄のやんぱち・・・自暴自棄になって、破壊的な計画を思い立っていたことを思い出した。道連れに他の人の命まで巻き添えに、とは思わなかったが、本当に取り返しのつかない愚かなことをしかねない状態だったことを思い出す。
 
なぜか? その3年前に家族は遠隔地に別居し、代わりにアルツの母の介護に立ったのだが、その母が2年すると施設に入れてしまった。それから1年、私は実家の広い家に一人で暮らすようになり、自分の生きる意味まで見失ってしまったのだ。
 
信仰もその御体(みからだ)である教会を失って何年も経っていた。そして私を必要としてくれる家族も介護も、その時には全て失ってしまっていた。どんなにカラオケを歌って憂さを晴らしても、ますますやるせない思いが募るだけだった。
 
また、50歳を過ぎれば、人生の見通しもつく。身体も容姿も衰え、仕事は先が見え、家族も居ないとなれば、いったいこの先に何の希望があるのだろうか? 無い!
だから一度すべてを壊したくなって・・・抑え我慢してきた肉欲、放蕩をリリースし、極める。その結果なんて、もうどうでもいいじゃないか、悲しむ者も居ないのだ、と。
 
今回の登戸殺傷事件の犯人の心境も、似ていたのではないだろうか、ふとそう思うのだ。
私の場合は、それを実行しようとしたその時、神が介入してくださり、ストップをかけてくださった。あまりの自分の本性の罪深さに、泣き崩れて悔い改めるしかなかった。
 
自分の本当の罪深さを悔い続けていたその時、神はご自分を現わされ、私に語りかけてくださったのだった。
 
ああ、神が私を憐れんでる下さらなかったら、そう思うと冷や汗と感謝、その恵みの大きさに心が震えるばかりである。
 
 
 
 
 
ケパ
 
 
 
 
 
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26日の礼拝

2019年05月27日 | 教会のこと
昨日の主日礼拝は
第2音楽室で行われ、無事に録画撮りし、
1時には Facebookからアップしました。
 
まだご覧になれてない方、ぜひ開いてみてください。
また、
メッセージの録画は、YouTubeでご覧になれます。
今日も奏楽はケパ牧師が、担当されます。
司会はm姉です。
いつものように献金の感謝の祈りが e姉が祈ります。感謝!
メッセージは、聖書 エペソ612 節を開き、
「信仰の真価が、試される時」和かにメッセージされました。
 
主日礼拝は奉仕の中にめぐみで満たされます。
 
ドルカス
 
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5月26日主の日

2019年05月26日 | 教会のこと
おはようございます。
目覚めると、今朝も良いお天気です。
しかし、夏日になる様な〜☀️🌤皆様今朝は帽子、或いは日傘を持って礼拝のおでかけくださいね
(ベランダのミニグリーンアイス!)
今日の船橋教会主日礼拝は、
勤労市民センター 第一音楽室 です。
大変残念ですが、この部屋からはオンラインは出来ません。録画して公開しますので、
午後1時過ぎ頃にいつもの様の、Facebookからご覧ください。
ドルカス
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信仰の真価が試される時

2019年05月25日 | 証し
クリスチャンの死は、その人の信仰をもっともよく表しているものだ。
聖書で、特に黙示録を見ると、殉教者は特別に祝福され、千年王国ではキリストの祭司、王とされる。しかし殉教者は神に特別に選ばれ、召された者であって、希望してなれるものではない。(黙示録20:4-6)
"また私は多くの座を見た。それらの上に座っている者たちがいて、彼らにはさばきを行う権威が与えられた。また私は、イエスの証しと神のことばのゆえに首をはねられた人々のたましいを見た。彼らは獣もその像も拝まず、額にも手にも獣の刻印を受けていなかった。彼らは生き返って、キリストとともに千年の間、王として治めた。"ヨハネの黙示録204©2017
人は必ず第1(血肉の体)の死を迎える。永遠のいのちを与えられているクリスチャンにとって、死は天国への凱旋であり、喜びである。もし死が怖いとか恐れる感情がどうしても強く持ってしまうならば、そのクリスチャンは真に救われていないか、天国行きの確信が持てないでいるかだ。それは命の書に記されていないことを予感させられているのかも知れない。それで怖いのかも知れない。遅い、ということはあり得ない。今すぐにでも悔い改め、神のあわれみにすがりましょう。
 
残念な例がある。私たちの群れではないが、50年の長きに渡ってとある教会の奏楽奉仕者を務め、80代になられ、その教会の長老格であった方の話である。 前立腺の病を得、その死に際に当たって「どうして神は私を棄てたのか!」と言われたという。
もう一つ、私がつぶさに目撃したクリスチャンで、末期ガンでもはや数日しか余命がない中でも、まだ死を受け入れていなかった。そんな中、見かねた看護師が本人に状況を教え、死に備えるよう説得を試みた。しかし本人は頑として自分の状況を認めず、最後まで死と戦い、死を受容することはなかった。そのため周囲に告げる言葉もなく、看取った者として、本当につらい別れとなったことが記憶に新しい。
 
信仰の真価が、血肉の死に当たって、まるであぶり出し文字みたいにはっきりと浮き上がってくる。会堂を借りたりする時、ずいぶんとお世話になったノンクリの不動産会社の社長がいて、ある時、どうして私たちを信用し、世話をしてくれるのかと聞いたことがある。すると「若い時、あるクリスチャンが死を恐れずに死んだ」から、と答えてくれた。
 
これと関連して、クリスチャンが病に、あるいは障害にあった際、すぐに「癒してください」、また元のように直してください」と祈る人がいる。まるで「困った時の神頼み」「祝福されるためにクリスチャンになったのに、これは違う」と受け付けない。
よく考えてほしい。クリスチャンはすでに一度神に自分を捧げた存在なのだが、こうなるとこれは、やっぱり未だ自分が主権者なのであって、神は自分のために存在するのだ。やはり心から悔い改めなければならない。
 
これは私の証で、初めて死を身近に感じた時のことである。60歳前の健康診断で「結腸がんの疑い」と診断された。急を要するので次の大病院に急行するよう託された、自分のレントゲン写真を見た。大腸に入ってすぐのあたりに素人目にも大と中のはっきりとした異様な形を見、インターネットで病名の症状を調べてみるとドンピシャ当てはまっていた。「これは急性で、多分ダメだな」と死を覚悟した。
 
不思議なことに、死への恐れより、心は平安で天国への期待に満たされた。確かに実際にはまだガンの苦しみ、痛みを経験したわけではなかったが、それでもそんな通過儀礼より、愛する方のお側に行ける、その喜びがはるかに大きかった。だから喜びというか嬉しさが湧き、平安と言ってもよい、それを待ち望む感じだった。
 
唯一気がかりなのは、再婚してまだ間がないドルカスのことだったし、まだ語られた使命を果たしていないことだったのだが。検査の結果は意外なものだった。全くガンが無かったのである。あれは他人のものだったのか、さもなくば、ただガンが完全に消えたのである。
真価が試される前に・・・。
クリスチャンで神を愛する方なら、まず証のためにも明確な聖霊のバプテスマを求め、その上で御心に聞き従う歩みをされると思うが、その段階で一度、自分の使命とは、と、それと関連し、仕上げとしてこの世でどのような最後を自分が迎えるのか、神さまにうかがっておくことをお勧めしたい。
きちんと先のことがわかっていれば、惑わされることもない。聖書で全世界のこれからが預言として書いてあるのは、そのためである。
 
クリスチャンにとって第1の死は、ある意味、問題ではない。しかし第2の死を予感し、恐怖に恐れおののく世の方々への証として、自分の死が用いられることは素晴らしい恵みだ。言わば真価が試される時である。
 
 
 
 
ケパ
 
 
 
 
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地域ネコ

2019年05月24日 | ネコのコールと‥‥
夕方、自転車で坂道を登りつめると、会えるのよね。地域ネコたち。
今日は用事を済ませ帰る時には。さらに集まってる
この猫ちゃんはよく会うよ😽
どうして集まるかってね、
このように、夕飯の用意がね。今日は2皿に用意してありました。
道上のマンションの駐車場の車の下に
仲良く2匹がくっついて、まだお腹は空いてないら〜そこの人サッサと歩いてと❗️ばかりに、通り過ぎるのを待ってますね。
 
今日はあと二匹ほどが、準備されたキャットフードで夕飯でした。
地域ネコ達の片耳には、地域猫である市民権^_^を取得した印に、三角カットが見えました。
 
そして地域ネコのお世話ボランティアの方々から、
食事用意してもらっています。
船橋市での殺処分は年々減っていると聞きしました。
市内のあちこちに、このような場所を見かけます。
 
ねこ好きな私は、
地域ねこ達を通りから愛でて、満足してる。
 
猫さん達。ご飯用意してもらい、お腹は満たされるのだから、だから悪さしちゃダメだよ。
もちろん喧嘩もだめね。寒い時期にはダンボールハウスも見かけるよ。
その与えられた命で、側行く者を和ませておくれね。
 
ドルカス
 
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狭き門より入れ

2019年05月22日 | 信仰
「狭き門」とは聖書の言葉だが、同時にアンドレ・ジッドの小説名でもある。私はその初めのページに掲げてあるこの聖句を先ず覚えた。そして下にあった「ルカ伝十三章二十四節」に、深い関心を覚えた。
 
私とキリスト教との始まりは私立中学1年、その寄宿舎の中、読書灯を自室ベッドの布団にくるんで読み耽ったこの小説からだった。この小説からキリスト教と語りかける神について、聖書というものについて、初めて知った時になった。(写真は当時のそのものではないが、その後に思い出としてもう一度買い足した「狭き門」。中は紙が茶変し、読みにくく、半世紀以上の時を感じさせる)
閑話休題〜聖書について
当時既に1955年に口語訳聖書が世に出ていたが、この頃はまだ8年ぐらいしか経っておらず、多くの人はまだ文語文聖書だったと思う。今読み返しても文語文聖書は力強く、名訳だと思う。文語文で覚えてしまった御言葉は、日常どうしても口語より、文語の文での方が先に口に出てしまう。
今は新改訳2017の時代だが、発刊されて1年半経っても多くの人はまだ第三版のようだ。私見であるが、2017は文語文聖書と並び称される、日本語聖書の金字塔となる名訳だと私は高く評価する。忠実であろうとして、変な言い回しに陥っていた本文がかなりこなれ、読んでいると意味がストレートに入って来る。こうして違和感のない日本語になるまで、六十年余りの口語訳聖書の年月が、歴史が要ったわけだ。
 
しかしこの2017にこの群れでもなかなか切り替わらないのは、文語文聖書で覚えた言葉がなかなか消えない私のように、慣れ親しみ、覚えた御言葉が変えられてしまうことに、抵抗があるのだろう。
けれども逆に言うなら、どうせ何年かしたらこれに必ず切り替わるのだから、そして2017は多分これから世が終わるくらいまで、半世紀ぐらいは用い続けられるようになるのだから、一刻も早く2017にして、慣れ親しみ、2017で覚えて行った方が良いのではないだろうか。この世に当分、使命がまだ残っているならば。
 
本題に戻る
「狭き門より入れ」の御言葉。ルカ伝から。
イエス教えつつ町々村々を過ぎ、エルサレムに旅し給ふ時、或る人いふ「主よ、救はるる者は少なきか」 。イエス人々に言ひたまふ「力を盡して狭き門より入れ。我なんじらに告ぐ、入らん事を求めて入り能はぬ者おほからん。
 
上記のルカ伝と、マタイ伝の狭き門とでは実はかなり意味が違ってくる。ルカ伝ではいよいよエルサレムに向かう途上での出来事であるが、マタイ伝では、最初の本格宣教である山上の垂訓の続きである。内容もルカ伝では救いの時である門限に間に合うように、との意味合いに受け取れる。しけしマタイ伝では狭い門と広い門(滅びの門)とがあって、選ぶ門そのものの選択が問われているからである。
 
ジッドが選んだのはルカ伝の狭き門だが、私は(自伝的な装いながら、実はかなり虚偽のある)この作品の内容からすると、マタイ伝の方が適切だったのでは思っている。ジッドはあまり聖書を読んではいなかった? さて詮索はそれぐらいにして・・・と。
 
(「狭き門より入れ」のイメージはこれ。茶の湯のにじり戸。頭を下げ、へりくだって距離が取れない狭い部屋に入る。非常に聖書的である)
 
本題〈狭き門より入れ〉
人生にはいくつかの重要な選択をしなければならない。そして人々は合理的で妥当だと思える道を選択をする。いわゆる広い門から入ろうとするのである。
私の人生における最初の仕事は、広い門であった。大学を出て広島に帰っての仕事は、掲示板にある求人表の中で、条件の良いものを選んで入社した。中四国地方では最大手の製版会社であった。 私はそこで幹部候補社員として現場を2年勤め、3年目に営業に回された。得意先周りなどを通して業界の実態を知るにつけ、私は会社と業界の将来性に夢を感じられず、先行きがくらい事を知った。
ついに転職を考えたが、多くの同僚たちは身につけた力を元に、勤めていた同じ業界に転職して行くのを良かれとは思わなかった。
 
この時このジッドの小説の題名でもあり巻頭言でもある「狭き門より入れ」が脳裏に響いた。それで祈っていると面白いもので、それまで決してなりたくはなかった仕事、教師への志が湧いてくるのだった。「あんな偽善的な仕事をよくするよな」から、「金に頭を下げるのではなく、偽善的ではあるけれども、建前に殉じれる珍しい職業」だと。
 
今よりも当時は、教師への道はかなりの狭き門であった。デモシカ先生は私が卒業する数年前の過去のこと、今や不況の時代にあって、教師は競争率十倍以上の難関。地元の教育学部を出ても難しいとされていたのだ。それに免許状すら持たぬ者が、ひょっとして一生涯、日雇い的な臨時採用のリスク覚悟で挑むのである。
 
神の導きは素晴らしく、私は2年で免許状資格を取り、晴れて採用となった。そして私が勤めていたあの製版会社は、なんとそれから20年後、不渡り手形から倒産してしまった。あのまま私が残っていたら、と背筋が凍る思いである。
 
牧師に召されてつくづく思うことに、教師は牧師に最も近い職業であると思う。集団を指導する力、個々の問題に向き合う力、個性や障害と向き合う大切さを学ぶことができた。
今のアルバイトは子どもと向き合う仕事だが、やはり教職経験は役立っている。
神の成されることに無駄がなく、一切を見通されて全てが益に用いられて行くことがわかる。
 
さあ、神を信頼し感謝しよう。
 
ケパ
 
 
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聖会

2019年05月22日 | 聖会・キャンプ・集会
今週はパウロ牧師ご奉仕で月曜日に、郷里の上田から聖会始まり引き続き北陸各地で今日まで開催中です。
 
 
そして、船橋にも連絡が入りました、
6月14日の予定です。
船橋勤労市民センター 地階 第一音楽室
17:45pm〜20:30pm
 
第一セッションは、J.Gospel ミニコンサート
都内中心に全国展開活動中の、おなじみ「GIFTS」
 
第二セッションは、カリスマ聖会
東京から、パウロ秋元師をお迎えして開きます。
(Photoは、いずれも前回の聖会から)
 
私たちはその日のために。祈りと準備始めます。
近隣の方々、ぜひおいで下さい。
 
 
ドルカス
 
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ひざの腱が癒やされた

2019年05月20日 | いやし
I先週の金曜日、テニスで久しぶりのシングルスを楽しんでいた。7人の参加者全員と総当たり戦をするので、6回勝負することになる。いくらシングルス好きだとは言え、少しだけ過酷だ。
 
因みに私が最年長者。息子ぐらいの相手と3人、五十代前後の相手と2人終えた時点で、結果は3勝2敗だった。しかしもう1戦、というところで私は急にリタイヤした。右ひざ下内側の付け根の痛みが激しくなったのだ。
 
この日、途中でその兆しは感じたが、五つ消化した段階で、これほどの痛みを感じるようになったのは想定外だった。もはやプレーは続行不可能だったので、少し足を引き吊りながら早々に引き上げた。靱帯損傷まではしていないが、重度の肉離れなどは幾度か経験している。今回のはどう見てもひざにつながる腱の部分を痛めている。最近準備運動やストレッチをおろそかにしていたせいだろうか、「ああ、やっちまった・・・・腱というか靱帯は治りが遅いんだ」とかなり悔やんだが、やってしまったものはしょうがない。後の後悔、先立たずである。帰り道、病院に行くべきか少し悩んだが、ドルカスにはそのことを口に出せなかった。日常生活には差し障りがないので、とりあえず自宅で湿布程度をして、安静にし様子を見ることにした。
 
翌土曜日は朝から仕事だったが、立ったり座ったリの激しい動作では、どうしても右足をかばう不自然な動きをしてしていた。また土曜日と日曜日の朝、深夜とか早朝に、ひざ下の鈍痛で目が覚めた。うずくのである。これでこれからもテニスができるのだろうか、日曜日の朝はさすがに不安になった。予定していたテニスに不参加の意向を伝え、断る必要があるのでは、とさえ思うようになった。しかしドルカスが祈ってくれているので、不参加は何とか思い留まっていた。
 
そこで日曜日の朝、痛みで目が覚めてから、不安な心で神に癒やしを求めて祈った。すると自分で直に癒やしを祈るよう促しを受けたので、ひざ下に右手を当て、癒やしの祈りをした。その時、示しが続いた「わたしはあなたを癒やします。癒やされた確信をもってテニスをしなさい。あなたはまったく痛んだことを忘れてプレーし、終わってみて完全に癒やされていることをみるでしょう。これは、自分自身のからだを通して、これからあなたが癒やしに用いられて行くしるしと確認のためです」と。
さて本日、テニスができる今日の月曜日、またまた早朝のベッドの中、鈍い痛みで目が覚め、反射的に手を当てて祈ろうとすると、「あなたは癒やされたことを信じていないのですか?」と示しが来た。それであわてて手を引っ込めた。とにかく、信じて従うしかないと腹を決めた。
さて、コートでは3時間、かばうどころかふだん以上に激しくコート上を走り回り、調子はルンルンだった。テニスができない、不参加にしようと思っていたことなど、まったく忘れていたのだ。気がついたのは帰りの車の運転中である。「あれれっ、右ひざ下はどうなってる?、全然大丈夫だったじゃあないか。テニスの中で、意識をしなかっただけではない、もう、何の痛みも感じない。本当だ、これはもう完全に癒やされているー」
 
ハレルヤ。主よあなたに栄光を帰します。
 
 
 
 
ケパ
 
 
 
 
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