今出先で、今日ふたつめの「メロンパン試食!」
この頃、私たちにはメロンパンが流行り(^O^) どの店が美味しいとか、チェックが続いてる。
どうもあのパン屋開店の長い列に列んでから・・・これは引いてる様な気がする。
ちなみにこのメロンパンは、2種類のメロンクリーム入りで香りあり!ケパさん好み (ドルカス)
今出先で、今日ふたつめの「メロンパン試食!」
この頃、私たちにはメロンパンが流行り(^O^) どの店が美味しいとか、チェックが続いてる。
どうもあのパン屋開店の長い列に列んでから・・・これは引いてる様な気がする。
ちなみにこのメロンパンは、2種類のメロンクリーム入りで香りあり!ケパさん好み (ドルカス)
実はこの猫、おん年12歳の、今は長女の猫である。 コールは別格として、私と猫との付き合いは、この「ドラ」と名づけられたどら猫から始まった。私にとっては、猫と付き合い始めた、ゆかりある猫なのだ。
この子は、学校の裏のごみ置き場に、本当に小さなダンボール箱に入れられて捨てられていた。用務員さんがダンボール回収に来たトラックに積み込もうとしていて、小さな鳴き声に気づいて発見された。間一髪のセーフで、あやうく再生ダンボールになるところだった。
見たところ、生後数日で、あまりにも小さかった。手のひらに体が十分のっておさまる、ちょうど小ネズミほどの大きさだった。子猫は教職員室にその日一日中置かれ、飼い主を待つことになった。が、子どもたちにも、頼みの綱の教職員にも飼おうとする者は現れなかった。その間にも猫はどんどん衰弱し、教頭がミルクを飲ませようにも、もはや受け付けず(その理由は牛乳にあったということが後にわかった)、子猫はぐったりとして行き、どう見ても明日の命は無いと見えた。職員室の夜は更け、いつものように私と教頭だけになった。
「中村先生、あんたの家は駄目じゃろうかのう?」
「はい、我が家にはお座敷犬がいるんで、駄目じゃろうと思います。」
「わしンところは、共稼ぎなもんで飼えんのじゃ。じゃがこの子猫を、この職員室で殺しとうはないよのう。わしの責任じゃあーぁ。」
「(なるほど、それで女先生たちは飼えんかったんだ・・・・)お察ししますが、今となってはどうしようも無いことかと存じますが・・・・・」
しかし、この後、教頭さんを気の毒に思った私は、とうとう猫を助けるチャレンジをすることにした。職員室では見捨てて殺せないし、もはや捨てられない。ドラにとって幸運だったのは、帰り道にあった動物病院が、もちろん閉院していたのに、玄関のインタフォンから私の話を聞いてくれて応急処置をしてくれたことである。注射を打ち、赤ちゃん猫用の専用ミルクと、胃に注入するための注射器とカテーテルをくれた。そして、「カテーテル(細い管)で三時間おきに猫ミルクを胃の中にまで届かせなければ助からない」と診断してくれたのである。かくして帰宅した我が家では、これから約三ヶ月間、猫を助けるための懸命な養育作戦が家族を挙げて始められた。名づけて「どうでもどら猫を救え」作戦。
三時間おきに(つまり夜もろくに寝ないで)この小さな命の、胃袋の中にカテーテルを入れ、注射器のポンプで猫ミルクを注入する作業が続けられて、その何週間後かに・・・・家族はドラ猫が九死に一生を得た喜びを見たのである。
子猫ドラの運命は、ゴミ捨て場の段ボールでの発見、深夜の職員室での教頭のつぶやき、救急してくれた動物病院、懸命な家族の努力という、小さな奇蹟の連続で救われ、今12歳の写真のような老猫になった。
† 「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう」(詩篇126:5)
私はこのドラから、教師として、いや人間として多くのことを学んだ。手間ひま、心をかけないで心は、愛は育たない。人と人とに、近道はない。だから例えば、教室で班を使って管理し、成果をあげようとする方法を捨てた。一人一人に教師がどれだけ真剣に関わっていくか、それが勝負だと思った。人間関係に楽をして、実は結ばない。関わり苦しんだだけ、流した涙だけの収穫と喜びがある・・・・・・この生き長らえたドラ猫を、どんなに家族は愛するようになったことであろうか! 手間ひまと心をかけたそのものだから。ドラもまた、人が自分の親であると思う、不思議な猫になったが。 (ケパ)
「賛美と感謝とリバイバルキャンプ」のチームはロスで29日、マーリンさんのセミナーに参加して、昼食会を持ち、ホテルへ戻り夜の聖会も済ませ今日本時間夕方6時はロスでは深夜。ゆっくり休んでいる時間です。後4時間程で夜が明けて早朝礼拝、最終日の予定が始まります。
アンテオケ教会の派遣blogから情報が伝わってきます。日本時間29日午前1時半頃からセミナーが行われました。マーリンさんのお元気な様子も分かって、安心します。
写真は、セミナー開場に到着されたマーリン・キャロザース氏。
この「賛美と感謝とリバイバルキャンプ」の為に、1年に1度のセミナーが持たれるのです。ケパさんと必ずもう一度マーリンさんの肉声でのセミナーに参加したいと祈っています。(マーリンさんは一人一人と握手し歓迎して下さるのです。)
そして最終日。最後のボニーブレアハウスでの祈り、賛美チームはハリウッドの路上賛美、そして子どもたちはディズニーランドかな?
夜の聖会(日本時間で30日の午前11時~)は、とくに賛美チームがお待ちかねのブラックゴスペルの重鎮「ブラザー・スティーブ氏と本場ブラックゴスペルを招いて開かれ、最終日を終えます。
そして、日本時間で明日の夜には機上の人・・・そう、ロスからの機上であっという間に30日は過ぎ日本に着いたら、31日の夕方で、一日損してしまった。と感じるでしょう。^^
帰国後の証しが楽しみです。
ちなみに船橋では明日の夜はピースフルの練習日です。
船橋勤労市民センター、第2音楽室 午後6時から
興味のある方ぜひ覗いてみて下さいね。(ドルカス)
先々週の金曜日発売の新iPadが、今日手に入った。本当は月曜日に届いたのだが、店まで取りに行けなかった。本来ならこれはiPad3と言うべきなのだが、アップルがそう呼ばれることを拒んでいて、2012年型iPadとかNew iPadとか呼ばされて、現場はちょっと混乱している。
私は初代のiPadを発売日当日に手に入れて今日まで愛用した。iPad2はぐっと我慢した。2年ぶりに新iPadを手にしたわけだが、2年間の進歩を感じる。先ず(iPad2を知らないので)本体が軽く薄い。画面が美しい。初代のiPadでは、iPhone用の新改訳聖書の文字は2×に拡大されるので、輪郭がぼやけて読みにくかった。ところがこの新iPadはくっきりあざやかで、完全に解消!すばらしい。
画面に関しては動画も写真もベツモノである。音声もボリュームはイマイチだが、音質が良くなっていた。特に動画の良さは圧巻で、そこらへんのウィンドーズパソコンを蹴飛ばすぐらい、グラフィックボードが強力だ。あと、タッチパッドも反応が良くなっていて、意図通りにさくさく動かせる。まだ試してはいないが、カメラもずいぶん良くなっているようだ。
今回最大のサプライズは、実はiCloudだった。新iPadをゲットしたのが船橋だったので、「帰宅して家のiTuneパソコンにつなぐまでは何もできない」とまあ、これまで通り思っていた。ところがお店から帰った直後のオフィスで、つい、電源スイッチを入れるといきなり始まるiCloud。なんと!重いデータ以外のapp、メール設定などほぼ完璧なインストールが始まってしまった。つまり、WiFi環境でただiCloudで復元のスイッチ一つ押せば、なにも労せずに初代iPadが手元に誕生したわけ。たちまちメールや新改訳聖書などが読めたわけで、「iCloudとはこういうことか!」と驚いたわけ。
これだけパワーアップされていると、重いノートパソコンを持ち歩く機会
はぐっと減りそうな予感がする。礼拝でもプロジェクターにiPadをつなげて、賛美曲の歌詞や聖書箇所、必要なメッセージ資料を映すプレゼンができそうだ・・・・。もちろん音声はスピーカーにブルーツースで飛ばしてグッド。(下写真の私の手がつかんでいるものは、こんな時必需品の、iPadをプロジェクターに結ぶVGAケーブル)。これなら荷物の減量に役立ち、感謝! (ケパ)
今日毎年行われている「感謝と賛美とリバイバル」派遣チームが、米国へ出発しました。
総勢100名。 「感謝と賛美」の著者マーリン・キャロザース氏が、年1回のセミナーをして下さっているのです。(写真は2009年のチーム・・・昼食会の様子)
昨年のチームは震災直後でした。マーリンさんがメッセージの中で言われました。
『NeverWorry NeverHurry Never be late 心配しない 慌てない 遅れない』
この言葉に励ましを受け、この言葉から賛美の曲も幾つか作られ、いま私たちは歌っています。
今回もまた、参加者も取り成す者にも、どのような恵みが持たされるでしょう。
ハレルヤ!!神さまに期待します。 (ドルカス)
東京アンテオケ教会のインターネットTVで姪がビデオカメラの奉仕(写真)をしている。
教会はキリストの体であり、体にはいろいろな働きがなければ機能しない。目や耳、足や手、そのほか目立たない働きもある。でもそれぞれが組み合わさって一つの御体の働きとなる。
姪のTVカメラはインターネットの目の働きをしているが、映されている人とは異なって、陰の働きであって、決して表に出て人目に立つものではない。でもだからこそ、その様子を後ろからいつも見ていて、陰ながら応援をしている。「神さまはちゃんと全部を見ておられるからね」と。
しかし今日だけはちょっと別で、表にちょいと出る機会があった。社会人会の一員としてGosepelSeedのバックコーラスで出演したのだ。ちょっと晴れがましい表情をしながらも、姪の歌声は心なしか、一番響いていたように聞こえた。 ケパ
クリスチャンは神に「祈って何ぼ・・・」の人々だと私は思っています。
※「祈って何ぼ」とは、「祈らないのでは、せっかくの特権も宝の持ち腐れ・・・・クリスチャンの価値って、祈りあってのもの」という、西国の出身、ケパの造語です。
ですが多くのクリスチャンは、祈って神が答えてくださることを知りません。そしていくら祈ってもその状態(無応答)なので、「そういうものだ・・・・」とあきらめちゃっています。かく言うわたしも信じて30年以上、そうでした。ですから「答えられる!」なんて信じられない。いや、「神が祈りに答える」って怪しい。自分でそう思い込んでいる一人芝居とちゃう?・・・・・と、まあ、そう思うクリスチャンがいるはずです。そしてそれが真実であるのを見たら、平静ではいられません。「クヤシイ!」と嫉妬、シット。逆に、どうして自分には答えられないの!と頭に来ます。そして悲しさが自分を打ちのめす・・・・とまあ、これは自分自身だったらの勝手な想像で、もうちょっと冷静なのが普通でしょう。と言うのも、祈りの答えを熱心に求め続けていた自分だったからなのです。
でも、なかなか言えないのですが、そのコツがあります。その一例を申し上げます。
昨日いつものように早朝テニスをしていました。シングルスの勝負です。相手は最近力を伸ばしてきており、時間切れでゲーム決着までには至らなかったものの、最近はわたしの負け続け状態の強敵です。そして昨日、自分の調子は悪くなく、ポイント的には優勢でありながら、なぜか最後のポイントが相手に行ってゲームを取られてしまうといった、これまでの悪い展開でした。追い込まれた私はコートチェンジの間に少し祈りました。すると、わたしはそれまでの自分の祈りが間違っていたことに気づきました。
それは「いつも自分が勝つ」ことだけを祈っていたことです。何と言うことでしょう。いつも人には「神に委ね、御心の祈りをしなさい」と言っておりながら、自分はハナからただ勝つことだけを願って祈っていたのです。これは祈りというものではなく、神への要求であり、強訴です。「ハッ」と思い、それからこう祈りました。「ああ、ごめんなさい。勝ち負けはもういいです。あなたの思われる通りに、好きなようにしてください。わたしは負けても喜んで従い、感謝します。あなたが大切で、最善だからです」と。
すると何が起こったことでしょう。まず「あなたは勝ちます」ということばの思いが来ました。これまでの経験から、これは神からであると感じました。そして実際に不思議な展開になったのです。わたしは何も変わったことはしていないのに、これまでの展開が入れ替わり、相手の方が大事なポイントでミスるようになりました。勝負の最後のポイントでは、本当に珍しくわたしのサービスがいい所に決まったのでした。これはあり得ることです。しかしこの時のわたしは、ただ単に「あり得る」ものでなく、「ことば」やタイミング的に見て、これは偶然とかあり得るだけのものではないことを感じました。答えられる祈りというものを、あらためて神が教えてくださったと思いました。
神は私たちの心を、サタンのように、奴隷のようには従属させられません。ある意味では背くという自由意思というものを残しておいでです。そうでなければ「従う」という意味がありません。キリストですら、ゲッセマネでは父なる神に「できるものならばこの苦杯をとりのぞいてください」と祈られました。しかし神はなおかつ、私たちが自由意思で心から神に自分を捧げ、委ね、従う行いを喜んでくださるのです。私たちも、結果をもすべて主に委ねる祈りをする時、御心の祈りですから、神は受け入れてくださり、すでに叶えられ答えてくださることを知るのです。 (ケパ)
Callを連れて、田舎へ向かいます。随分とドライブに慣れてきたCallです。いつもだったら、なかなか落ち着かないのですが、今日は、出発してじきにお気に入りのキャリーケースの中でリラックスモード。 一緒に出かけることがわかっています。時にはペットホテルだったり、病院だったりするので、車で出かける時は、用心しなければいけません。今日のCallはしっかりと見分けています。(ドルカス)
わたしは伝道にたずさわる者として下記の記事を偶然知ったので、ぜひ紹介させていただきたく思いました。
1956年に、今では知る人も少ないのですが、5人の宣教師たちの殉教がありました。
下記の五人の宣教師たちは、南米コロンビアのアマゾン川の源流地に住むワオラニ族(槍で人を殺す野蛮人の意味で、通称アウカ族)の伝道に行き、たった五日後には連絡を絶ってしまいました。そして捜索の結果、まさに槍が刺さった状態で全員が発見されたのです。
ジム・エリオット、ピート・フレミング、エド・マッカリー、ネイト・セイント、ラージャー・ユーデリアンの5人の殉教者です。
彼らは全員が妻帯者であり、子どもたちも計9人いました。もうすぐ教授になるという人もいました。事前に食料を投下したり、セスナ機と十分な機材などの準備を念入りにした上で、命をこの蛮族のために捧げる決心をして出発しましたが、そのわずか5日後のことでした。あまりにも早いこの5人の死は無謀であって、無残な死だったのでしょうか?
いったんは消えかけたこの恐ろしいアウカの民への伝道は、思いもかけぬ所から・・・・神の鮮やかな見えざる手の中で・・・・開かれて行ったのです。この事件後ダユマという一人のアウカの女性が村から脱出し、レイチェル・セイントという殉教者の姉と出会ったのです。そしてダユマはクリスチャンになりました。このダユマという女性がアウカ語の聖書翻訳の中心的な役割を果たし、また村へ入る手引きをしてくれました。レィチェルだけでなく、エリザベス・エリオットと言うもう一人の殉教者の妻とその幼い娘の計3人で、ダユマと共になんと弟や夫を殺したアウカの村に入って行ったのです。
正気の沙汰とは思えないこの二人の女性と娘は、奇跡的に危害に遭うことなく(アウカ族の中では、平気で殺人が行われており、それを幾度も目撃することになりましたが)献身的な働きをし、クリスチャンを増やし、村々に教会をつくることに成功します。宣教師たちを殺した者の中から、悔い改めて何人も牧師が立ちました。エリザベス親子は2年あまりで村を去りましたが、レイチェルは生涯村に居続け、ついにアウカ語の新約聖書を完成させ、その献書式にはアウカのすべての村、10の村からの代表が集うほどになりました。
クリスチャンになったアウカの民は、もう過去のように簡単に人を殺すことはなくなりました。なにしろ子どもが死んだら、その姉を殺し、母親が死ぬとその赤子を殺していました。また仲間が病気になったら、生きながら土に埋めていたのです。このようなアウカ族の村に伝道に行くレイチェルの成果であるアウカ人牧師ですら、二度と帰って来ない者が続いたそうです。
わたしはこの事実に、涙があふれる深い感動を覚えました。神は生きておられる。決して殉教者の血を無駄にはされない。その見えざる手の完璧さに、感動するのです。神よ、あなたはわたしの主、どうかわたしと命をお用いください。 (ケパ)