ハリーポッターと言えば、超有名なイギリスは魔法学校を舞台にした映画。今回観たディズニーの「美女と野獣」は、何とハリポタのハーマイオニー役のエマ・ワトソンが主役である。

私は第一作しか観てないが、2001年の映画だったので、年月を感じてしまった。「白雪姫」「いばら姫」「眠りの森の美女」「アナと雪の女王」など、洋物の童話には魔女が欠かせない。
そして魔女なんて関係無いはずの日本においても、「魔女の宅急便」などに代表されるが、アニ作品に、特に宮崎作品に頻出する。

洋の東西を問わず、今では「美女と野獣」のように、魔法使いは善い人であって、その超能力によって魔法をかけられた者は(野獣の姿に変えられたりして)一時は困難を覚えるが、それは真実の愛を得るための方策だというのが、だいたいのパターンである。そしてこれは、用意周到で実に恐ろしい人心操作、宣撫作であることに、まずほとんどの人が気づかない。
【ここからは、一般の人には、ちょっと難しい内容です】
考えていただきたいのだが、この世には神と悪魔という霊的な存在がある。クリスチャンでも神は肯定しても、なぜかサタンを否定する人がいるほど、サタンは実に巧妙に自分という存在を隠す。だからそんなものは存在しないと見る方が多い。しかし世の中の陰惨な事件やIS(イスラミック・ステート)などをみると、人の心の中に確かに存在するのが判る。もちろん神も、十字架を心から信じる人の中に住まわれている(聖霊の内住という)。

考えてみて欲しいのだが、人間の意思を無視し、受け入れもしていないのに、勝手に野獣や鳥に変えたりするこというのは、どう考えてもまともな相手ではないのだ。
ところが神、聖霊様は決してそんなことはなさらない。神を信じ、十字架の愛に答えようとするあまり「どうか私の中にお住みください。私はあなたに聞き従います」と懇願して住んでくださるのだ。決して人間の意思を無視されず、尊重してくださるのが神である。また人生の重大なことでも、人の意見を尊重し、選ばせてくださるのが神である。全くもって全然、悪魔、悪霊とは異なるのだ。
そして悪魔は、驚くような不思議なワザを行いはするが、童話やアニメのように人を幸せにするのではなく、恐れや不安で人を支配し、破壊的な行動に走らせ、ついには破滅させる。それが目的である。しかし神を信じる者の結果は愛、喜び、平安であって、偽りがなく誠実であり勤勉であって、人々から信頼を得る。確かなことは、その人が変わった、その実で見分けることである。
ヨーロッパの中世のような、魔女狩りは決して繰り返してはならないが、前述の見分けることは大切である。基本、超能力とかワザというようなものは、その人の健全な願いを叶え、必要を見たし、人をして引き上げるものでなければならない。
例えばイエス・キリストが行った奇跡は皆、神を信じ求める人たちの願いをかなえるもので、盲人の目を開け、足萎えを立たせ、今で言う精神の病を悪霊から解放することで癒した(精神の病がすべて悪霊に依るわけではない)。
つまりもう一つの重要な見分けのポイントは、どのような目的で、どのような結果があったか、である。神を信じる人を通しての奇跡は、その人の信仰に応じてなされ、信仰が引き上げられている。つまり、神の栄光がそこにはっきりと証されているのだ。
この時代は映画だけにまだ留まっているように見えるが、だからと言って、魔法使いたちを安易に受け入れてはならないと私は思う。魔法は悪霊の働きである。占いと同様、決して受け入れてはならない。これは頭が固いとか、おかしいと言われるのを承知で言っているのだが、それはサタンの策略から私たちが守られるためである。
ケパ