教会の前は、以前は販売 マンションの部屋見本とかのショールームが建っていたが、今は草ぼうぼうである。年に2回の草刈りでは追いつかず、徐々に背の高い雑草が目立つようになった。来年あたりは人間の身長より高くなりそうだ。
また、どう見ても花粉や昆虫たちの大発生地となっており、これはこれで近隣の住民にとっては迷惑至極である。
とはいえ、私も田舎には相当の休耕田を抱え、以前は帰郷のたびに草戦争を繰り返していた。草刈り機で朝から一日中、腰がおかしくなる程するのだが、それでも数日で終わらない。密度と伸びの程度にもよるのだが、十日程度はかかる広さである。作業は勤めの合間合間にするため、結局夏までかかり、夏の終わりにはまた最初の所を刈り始めなければならない。「私の人生、何なの?」という感じである。草刈りとは、刈った植物の山と凄惨なその匂い、自分はエンジンの音と煙、白蝋病になろうかというほどの振動の連続で、決して楽しいものではなかった。私は長い間この作業で一度も怪我をすることはなかったが、その危険を絶えず感じさせる危険な作業でもあった。まさに草との日々の戦い、これが日本の田舎の風景である。
よほどの大金持ちでない限り、土地があればあったりで維持管理に苦しむ。ところが今は草を見て、数年前までのしんどさを思い出すだけである。特に我が家はマンションなので、管理人さんが居てくださるし、草に縁のない空中の住人である。ほんの少し前まで草と戦い続けたことが嘘のようである。
今秋、また中東のイスラエルに派遣される予定だが、かの地は降水量が少ない土地で、果てしなく草刈り作業で苦しむの反対である。羊の群れを養うため、草を求めて捜し続けるという日本の真反対である。草との戦いが日常と聞くと、きっと「そんな馬鹿な!すぐに代わってくれ」と言うと思う。(写真はイスラエルのエリコ近辺の羊たち。羊は草を根こぎにして食べ、山羊とは違って従順に一列に並んで移動する)
今は草刈りからしばし解き放たれて、心から神に感謝する毎日である。世の中の人には、人間関係や社会が嫌で田舎が良いと思う人もいるようだが、どっこい、田舎暮らしには田舎の厳しさ、辛さがある。田舎が良いと思うのは、ただ、田舎を知らないだけである。私もドルカスも同じなので、懐かしむ気持ちはあっても、どちらかが良いとは思わない。人間関係で苦しむのは、草刈りでしんどいのと同一には言えないが、要は(神様が)必要とされる所で、また自分の使命だと思える所で、そこでしっかりと花を咲かせれば、それって最高なのではないだろうか。
ケパ