


話題〈1〉犬?
今から十年程前のエジプトの話。バス車内にホコリが立ち込めていたため、私がマスクをかぶるとすぐにツアーガイドがやって来て、「You are Dog face」と怒った顔で言われてしまった。
当時は客に対して最大級の侮辱だと思ったが、エジプト人に限らず、世界ではマスクを毛嫌いする人々が多いことを後になって知った。またマスク姿を横顔で見ると、たしかに犬のような感じにはなる。
アメリカなどで〈マスクを強制的につけさせるのは、個人の尊厳無視だと〉法廷闘争になるのも、文化の違いなのだろうと思う。
この度のコロナウィルスのパンデミッックで、あのエジプトのツアーガイドは、ちゃんとマスクをつけているんだろうかと思う。
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話題〈2〉美人
街で見かける人々のマスク姿に、イケ面や美人がやたらと多いと感じる・・・そんなつまらないことをテニスの仲間が言い出し、私を含めてみなさん同感だと言うではないか。これはどうしたことだろうかと思った。
思うに私たちは、人を見るに、引き算をして見る性癖があるのではないだろうか。百点満点の理想の顔を個々人が持っていて、新しい人に会うごとに、顔のパーツごと原点しているのである。顔の輪郭マイナス〇〇点、鼻・・一〇〇点、歯の形・・〇〇点と。だから理想である百点満点は限りなく少ない。
今日のように、マスクで顔を覆っていれば、減点対象は目元周辺だけなので、結果、イケ面や美人が多い訳である。もしそうならば、これは大いに反省しなければならないと気付かされた。顔に象徴されるように、人物をも減点方式で見ていた可能性が高いからである。
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話題〈3〉多様性
神は私たち人類を創造されたが、たった両手の平二つ分の広さの中に、何億人といる人の顔が識別できるようにされた。違いは想像の豊かさのしるしであり、顔と同じようにすべての人に異なる個性と霊を与えられているのだ。その違いというものを、引き算してしか見られないのは、豊かさを自分の狭量な貧しさに貶(おとし)めているのだ。
万物を造られた神、その豊かな違いこそ足し算で感謝し、神を崇めたいと思う。
ケパ
NHKの朝ドラ「まんぷく」が佳境である。この日清食品の創業者のドラマは近年では出色の出来だと感じている。このドラマまで、私は日清製粉と日清食品の区別さえつかなかった。日清食品はユニクロ以上に、錦織圭とか大阪なおみなどを抱える大スポンサーだが、これを間違えて「さすがぁテニスで結ばれた妃殿下のご実家だ〜」と大変な誤解をしていた(笑い)。
ところで毎朝楽しく観ている朝ドラだが、一つだけ気になることがある。それは重要な役で新境地を開いた感のある、今井鈴役の松坂慶子のワンパターンセリフ「私は武士の娘です」だ。多くの方は「亡霊のような過去の栄誉にいつまでも、何ゆうてんねん」で済むのだろうが、私は子ども時代から青年期にかけて存在した<同対法>世代なので、ちょっと平静ではいられなくなるのだ。このドラマの時代であれば、なおさらタダでは済ますことのできない言葉だ。(参勤交代の絵 :大名のお通りには、庶民はひざまづいていなければならなかった)
士農工商という封建時代の支配者である武士階級は、気に入らなければその他の身分を切り捨てても良かった。身分を誇りとする「私は武士の娘です」は、差別用語に該当しNG!だと私は感じる。それをよりによって天下の公共放送、敏感なはずの大阪NHKが放送することに驚く。
これは私が時代錯誤の古い人間になってしまったのか、それともNHK、人権感覚がおかしくなっちゃったのか、どちらかなのだと思う。
✴️天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云えり。(福沢諭吉)
✴️すべての人間は生まれながらにして平等であり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられている。(アメリカの独立宣言の一部)
ケパ
今、友人のクリスチャンが大きな試練に立ち向かわされている。こうした相談にあずかるのも、実は私にも過去、大きな試練があったからなのだ。
神に寄り頼み、困難に立ち向かっている彼に、私は心からエールと祈りを送りながら、どうしても今は過ぎ去った自分の過去を思い出さずにはいられない。そしてあの時の私は、今の彼ほど真摯で信仰的ではなかった、と反省することしきりだ。ただしその時の私は、いわゆる福音派で、試練困難を通して聖霊派やカリスマ派へと導かれた、その途上であった。だから信仰の状態からして、今の彼とはハナから水をあけられていたのだが。
過ぎ去った過去の私・・・・・試練の始まった数年間は、落ち込んでも誰彼となく人に聞いてもらい、「その内よくなる」、そう頑張っていたと思う。しかし妻の病状が悪化し、病院から見放されてくると、だんだん希望が乏しくなり、徐々に<現実逃避>型になって行った。そうなると家庭が「針のムシロ」化して、主人なのに全く居候敵身分で、身の置き所がない辛さや怒りが生じてきた。部屋を別にされ、食事も常に一人である。会話もなくなる。三千世界休まるところがない疲労が蓄積すると、やたら徒労感、虚しさが募ってくる。 さらに年数が経っていくと、遂には希望がほとんどなくなりかけ、心が冷えて<被害者意識>型に変化していった。こうなると、人生を肯定的に捉えられず、否定的、悲観的な思考パターンに知らず知らずに陥って行った。かなり人格が変わってしまっていたと思う。
そのことは、本人にはなかなか気づかないことなのだ。仕事にモロに出ていた。教職だったので、本来子どもを前向きに向かせ、自己啓発させる職務なのに、その指導者の生き様が後ろ向きなのが、教えを受ける生徒たちに影響が出ないはずがない。 だから学級経営がうまく行かなくなったのだが、それがどうしてなのか、自分では分からなかった。本人はこれまでと同じようにやってるつもりなのである。 近年私は、心のあらゆる問題の鍵は、正しい「自己像:セルフイメージ」を有するかどうかにあると思うようになったが、あの時、まさに私はセルフイメージが大きく狂っていたのだ。狂ってもそのことがわからないから、修正できない。修正できないからますます狂っていき、ドツボにはまるという、最悪のパターンに沈んでしまった。
今の私はようやく解放され、神から「家族で二度とこれほどのことは起きません」との示しもいただいている。おそらく当時の私を知る人が今私と会えば、きっと『別人』だと感じるはずだ。 それだけではない。ドツボの過去の体験が、牧師としての大切な土台となっている。もしこんな過去がなかったら、私はもっと薄っぺらな人間になっていたのではないかと思うし、友人もそんな私であれば、相談などしようとは思わなかっただろう。 これは私の通されるべき道だったし、人生の宝だと分かる。だからどんな悪い、辛い経験もすべてのことが益になる【ローマ人への手紙8:28】のみ言葉は確かにその通りだと確信する。自分の力で自分を修正することは難しい。しかし神はご自分を信じる者を護り、すべてを逆転させ、限りない感謝と幸福へと導いてくださる。神にはその力がお有りなのだ。
” 神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。”
ケパ