ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』
これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

^_毎年の今ごろは

2020年10月29日 | 随想
毎年のこの時期は、イスラエルです。
常宿はエルサレムはダンホテル。



11月最初の日曜日を前に、ティベリアに移動します。

ガリラヤ湖畔のロンビーチホテル。
まるで故郷に帰った。そのような場所。




朝に目覚め早天を祈る。暫くすると夜が明け朝になる。
その場所で祈るのです。ガリラヤ湖のその瞬間



必ずまた行きます。
私達の故郷ガリラヤ湖畔へ 

ドルカス

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三つのマスク話題

2020年09月29日 | 随想


話題〈1〉犬?

 今から十年程前のエジプトの話。バス車内にホコリが立ち込めていたため、私がマスクをかぶるとすぐにツアーガイドがやって来て、「You are Dog face」と怒った顔で言われてしまった。


 当時は客に対して最大級の侮辱だと思ったが、エジプト人に限らず、世界ではマスクを毛嫌いする人々が多いことを後になって知った。またマスク姿を横顔で見ると、たしかに犬のような感じにはなる。


 アメリカなどで〈マスクを強制的につけさせるのは、個人の尊厳無視だと〉法廷闘争になるのも、文化の違いなのだろうと思う。

 この度のコロナウィルスのパンデミッックで、あのエジプトのツアーガイドは、ちゃんとマスクをつけているんだろうかと思う。

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話題〈2〉美人

 街で見かける人々のマスク姿に、イケ面や美人がやたらと多いと感じる・・・そんなつまらないことをテニスの仲間が言い出し、私を含めてみなさん同感だと言うではないか。これはどうしたことだろうかと思った。

 思うに私たちは、人を見るに、引き算をして見る性癖があるのではないだろうか。百点満点の理想の顔を個々人が持っていて、新しい人に会うごとに、顔のパーツごと原点しているのである。顔の輪郭マイナス〇〇点、鼻・・一〇〇点、歯の形・・〇〇点と。だから理想である百点満点は限りなく少ない。


 今日のように、マスクで顔を覆っていれば、減点対象は目元周辺だけなので、結果、イケ面や美人が多い訳である。もしそうならば、これは大いに反省しなければならないと気付かされた。顔に象徴されるように、人物をも減点方式で見ていた可能性が高いからである。

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話題〈3〉多様性

 神は私たち人類を創造されたが、たった両手の平二つ分の広さの中に、何億人といる人の顔が識別できるようにされた。違いは想像の豊かさのしるしであり、顔と同じようにすべての人に異なる個性と霊を与えられているのだ。その違いというものを、引き算してしか見られないのは、豊かさを自分の狭量な貧しさに貶(おとし)めているのだ。

 万物を造られた神、その豊かな違いこそ足し算で感謝し、神を崇めたいと思う。 



ケパ








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21年生きた猫の話

2020年03月19日 | 随想
今年も桜の季節が近づいて来た。そんな近頃、長女から、猫のドラがほぼ21年の生涯を全うした連絡を受けた。私も気になっていたので、とうとうその時が来たのか、と感慨にしたった。

21年前、家族は四人でマイホームに住んでいた。私は教務主任(教頭に次ぐポジション)で忙しい毎日を送っていた。いよいよ卒業式が近づいたある日、学校に来た段ボール取集業者が小さなボール箱を職員室に持って来た。「うっかり収集してしまうところでしたよ」と。中身は生まれた直後の赤ちゃん猫だった。

このような場合、当座の世話は教頭の仕事となる。当初は小さな泣き声を上げていた赤ちゃんも、給食の牛乳を受けつけず、夕方、沢山いる教員も忙しさに見て見ぬふりをして家路に急ぐ頃には、すでに声すらなく、ただグッタリして横たわっていた。
こうして8時過ぎに、いよいよ職員室は教頭と私だけになった。
「中村先生、この子は明日の朝までは生きておらんじゃろうのう?」
「教頭先生、もう今でも虫の息ですよ、この子」と私。
「ああ、職員室で死んでしまうのは、良うないのうー」と教頭。
「教頭先生、我が家には犬がいますから、ここは教頭先生が引き受けてくださらんとー」
「それがのう、ウチは共稼ぎで、家には誰もおらんのじゃあ。」
(それって私になんとかしろ、ということ? 困った、ああ、困った)
「じゃあ、家に電話してみます。ダメと言うと思うんですが、ダメならこの子の寿命だと思うしかないですね、教頭先生。」
「そうじゃのうー。」

事情を電話すると、意外にも「一時的なら良いわよ」とお許可があり、ほとんど動かなくなった赤ちゃん猫、明らかに死ぬ寸前の猫を車の助手席に置いて帰ることになった。学校から自宅に帰る途中に、モダンな造りの動物病院があって、寄って見るとすでに病院は閉まっていた。それでも私は入り口のブザーを押し、ブザー越しに事情を話した。
すると獣医師が降りて来てくれて、なんと緊急の手当をし、赤ちゃん猫専用のミルクと注射器をセットでくれて、タダだと言う。何という立派な医師だと思っていると、「その代わりに」と言って、たとえ引き取り手がいない場合でも、最後まで私が責任を取って飼うことを念押しされた。「どひゃあー、そ、そんなぁ、こ、これはとんでもない災難だぁ。」

帰ってみると、玄関にはすでに妻と二人の娘が待ち構えていて、その直後から3時間おきに、猫ミルクを胃袋に注射器で注入する三人の分担制作業が始まった。必死の取り組みが始まったものの、帰りの遅い私はまったくカヤの外だった。(来たばかりなドラ)


こうして一命を取り留めた子猫は、キジトラ猫だったので「ドラ」と名がつけられ、一時預かりのつもりだったため、学校でポスターを貼っての飼い主探しの効なく、結局、我が家の猫になった。懸命に子猫ドラを育てているうち、愛情が湧いてしまったからである。(危機を脱した頃のドラ)


その結果、母子三人でドラの主人の座をめぐって骨肉の争いをした結果、長女が勝利をおさめて決着した。結局、ドラはほぼ21年、終生長女のもとで生き、人間で言えば百歳ぐらいの大長寿を全うしたことになる。(晩年のドラ)


実は八年ぐらい前、長女に頼まれてキャットシッターよろしく、ドラの世話をしたことがある。久しぶりの対面だ。懐かしくてドラの体を撫でた時の、そのドラの表情が忘れられない。
はじめは訝しんでいたが、すぐに「ぼーっ」と遠くの過去を思い出すような、そんな表情になり、やがて私の顔をまじまじとのぞき込んだのだ。


血統書付きの猫も良いが、ミックスの猫は健康であるだけでなく、その価値は家族にとっては何ら変わりはない。ドラよ長い間、長女と人生を伴走してくれてありがとう。


      ケパ



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はじめての横須賀

2019年08月14日 | 随想
月曜日に、私ははじめて横須賀を訪れた。船橋からは湾岸をぐるーっと一直線である。ただし、ちょっとだけ、横浜は保土ヶ谷に寄らなければならなかったが。



さて、三浦半島の最南端にある横須賀に着いてみると、ここが昔からの海軍基地であることが嫌でもわかる。私は広島県人なので戦艦大和で有名な呉を知っている。呉はすり鉢の底にあるような港だが、ここは半島の突端地形をうまく利用しての少し広めの港だった。

お目当ての横須賀J gospelフェスは三笠公園で行われていた。公園に入ってすぐ目立つのは、日本海海戦でロシアのパルチック艦隊に圧勝した旗艦戦艦「三笠」だ。ここまで来て、これを観ないという手はない
日本海軍の輝かしい歴史が艦内に満ちていたが、それは日本がまだ欧米列強に対し謙虚な時代のことであった。わずか35年後の太平洋戦争時でのあの傲慢さ、ずさんさとまったく無縁なもので、これがどうして良き伝統とならなかったのか不思議であり残念である。



余計な話だが、私の父は帝国海軍軍人であった。下士官時代は兵と共にハンモックで寝ていたと語っていてくれたが、三笠の中でそれを見て、父のハンモックに「良いなあ、あんなユラユラと寝れて」とうらやんでいたことを思い出した。もちろん事実は逆で、寝るためのスペース節約でしかなかったのだが。(三笠の主砲室で、ここにも15人ぐらいがハンモックで寝ていた)



さて、見学もそこそこに、Jゴスフェスを聴くに行く。そこはまるで海に向かって歌うようなロケーションで、私たちは芝生の上に持参した椅子を広げて陣取った。
場所もあるが、賛美の雰囲気が何より開放的で即興的で、次から次へと流れていく賛美の曲、この時間を思いっきり楽しんだ。




ところで曲に集中して聴いている時には、大きめの音量も気にならないが、ふと何か違うことを考えたり関係ないことをし出すと、この音量が途端に苦痛になってしまうことに気がついた。耳の選択的視聴は知られているが、どんなに集中していても脳の働きにブレーキをかける音量があることは発見だった。



横須賀の楽しみはご存知「海軍カレー」。呉でも同様な海軍カレーごあるが、この味の良さは、潜水艦という閉鎖的で極力火を使わないスロー料理の由来らしい。なるほど、私には本場インドカレーと共に、これは絶品だと思わさせられた。
狭い艦内での楽しみは、美味しいカレーを食べることしかないではないか。


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8050問題について

2019年06月03日 | 随想
NHKでも特集として「ひきこもりクライシス〜100万人のサバイバル」として「8050問題」が取り上げられた。8050問題とは、80歳の親が50歳の子どもを養っている問題である。なぜか、それは子が引きこもりで、働けないからである。80歳になれば、さすがの親でも先が長くないことがわかる。順番から言えば、子が後に残されるわけで、どうやって子どもが生きていくのだろうか、生き残れるかどうか、まさに生存が問題化されているのだ。
 
これは8050でも、また6030でも同じである。私には何件かの気にかかることがあった。今から20年から30年前になるが、不登校が社会の注目を浴び、社会もその家庭も「無理して登校させることはない」に結論づいた。その結果、家庭は「学校なんか行かなくてもいいよ」と不登校を受容するようになり、学校側もそういうことなら、無理に登校を促さなくてもいいと、煩雑に訪問や学友に頼んで登校や遊びに本人を外に連れ出す試みをしなくなった。担任であった私たちは、1日の仕事を終えてさらに家庭訪問などを繰り返していたが、正直、非常に楽になった。しかしその多くは放任放擲であったのに、だ。
 
その後、現場の私たちが直面したのは、就学の権利としての児童生徒と、就学の義務を負っているはずの保護者への対応だった。子どもを学校に通わせないのなら、保護者は義務として我が子に学校教育に準じる教育を与え受けさせなければならない。インターナショナルスクール、ホームスクーリングなども許容されることになった。
 
※ホームスクーリングでもChea Japan(チアニッポン)のようなきちんとしたカリキュラムを各家庭で実践し、定期的に地方地方で集会を開き、集団性を満たしているものなら良いが、そうではなく全くの家庭任せでは、私の知る限り、その多くは放任、無教育で義務を放棄している家庭が多かった。無教育の分水嶺は『引きこもり』かどうかにかかっていると私は思っている。
 
明らかに引きこもりの様子がある場合は、保護者が早めに相談機関に訴え、精神などを含め医学的な対応が必要が可能かどうか、アドバイスを受けられ、真剣に早期に回復の見立てを得られますように。逆に「いつか直る」「我が子を信じる」が、あっという間に時を経て、8050問題となっているわけだから。
 
 
最近引きこもりの51歳の男性、また息子を殺めてしまった父のニュースを聞くにつけ、元教師としてのかなりの責任と、あの当時の不登校を受容するとした社会の風潮と対応に憤りを覚える。
また牧師として、児童生徒に、「(どんな悪いことをも)すべてを感謝する」クリスチャンとしての信仰があったなら、こんな8050問題は決して起きなかったことを確信する。
 
 
ケパ
 
 
 
 
 
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悲惨な事件に自分を重ねて

2019年05月28日 | 随想
今朝の7時45分に起こった川崎市登戸の殺傷事件、12歳の女子児童と保護者たち2名の犠牲者を出し、そのほか残り15人も大怪我を負った。
実に計画的な犯行で残忍な犯行だ。永遠のいのちを持たない人々のやることは、本当にゾッとする。犠牲者の方々に対して、あまりにもお気の毒で言葉も無い。
 
ところで犯人は51歳の男だそうだ。それを聞いて、私も51歳の時に自棄のやんぱち・・・自暴自棄になって、破壊的な計画を思い立っていたことを思い出した。道連れに他の人の命まで巻き添えに、とは思わなかったが、本当に取り返しのつかない愚かなことをしかねない状態だったことを思い出す。
 
なぜか? その3年前に家族は遠隔地に別居し、代わりにアルツの母の介護に立ったのだが、その母が2年すると施設に入れてしまった。それから1年、私は実家の広い家に一人で暮らすようになり、自分の生きる意味まで見失ってしまったのだ。
 
信仰もその御体(みからだ)である教会を失って何年も経っていた。そして私を必要としてくれる家族も介護も、その時には全て失ってしまっていた。どんなにカラオケを歌って憂さを晴らしても、ますますやるせない思いが募るだけだった。
 
また、50歳を過ぎれば、人生の見通しもつく。身体も容姿も衰え、仕事は先が見え、家族も居ないとなれば、いったいこの先に何の希望があるのだろうか? 無い!
だから一度すべてを壊したくなって・・・抑え我慢してきた肉欲、放蕩をリリースし、極める。その結果なんて、もうどうでもいいじゃないか、悲しむ者も居ないのだ、と。
 
今回の登戸殺傷事件の犯人の心境も、似ていたのではないだろうか、ふとそう思うのだ。
私の場合は、それを実行しようとしたその時、神が介入してくださり、ストップをかけてくださった。あまりの自分の本性の罪深さに、泣き崩れて悔い改めるしかなかった。
 
自分の本当の罪深さを悔い続けていたその時、神はご自分を現わされ、私に語りかけてくださったのだった。
 
ああ、神が私を憐れんでる下さらなかったら、そう思うと冷や汗と感謝、その恵みの大きさに心が震えるばかりである。
 
 
 
 
 
ケパ
 
 
 
 
 
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武士の娘です、に異議あり

2019年03月19日 | 随想

NHKの朝ドラ「まんぷく」が佳境である。この日清食品の創業者のドラマは近年では出色の出来だと感じている。このドラマまで、私は日清製粉と日清食品の区別さえつかなかった。日清食品はユニクロ以上に、錦織圭とか大阪なおみなどを抱える大スポンサーだが、これを間違えて「さすがぁテニスで結ばれた妃殿下のご実家だ〜」と大変な誤解をしていた(笑い)。

ところで毎朝楽しく観ている朝ドラだが、一つだけ気になることがある。それは重要な役で新境地を開いた感のある、今井鈴役の松坂慶子のワンパターンセリフ「私は武士の娘です」だ。多くの方は「亡霊のような過去の栄誉にいつまでも、何ゆうてんねん」で済むのだろうが、私は子ども時代から青年期にかけて存在した<同対法>世代なので、ちょっと平静ではいられなくなるのだ。このドラマの時代であれば、なおさらタダでは済ますことのできない言葉だ。(参勤交代の絵 :大名のお通りには、庶民はひざまづいていなければならなかった)

士農工商という封建時代の支配者である武士階級は、気に入らなければその他の身分を切り捨てても良かった。身分を誇りとする「私は武士の娘です」は、差別用語に該当しNG!だと私は感じる。それをよりによって天下の公共放送、敏感なはずの大阪NHKが放送することに驚く。

これは私が時代錯誤の古い人間になってしまったのか、それともNHK、人権感覚がおかしくなっちゃったのか、どちらかなのだと思う。

✴️天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云えり。(福沢諭吉)

 

✴️すべての人間は生まれながらにして平等であり、その創造主によって、生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられている。(アメリカの独立宣言の一部)

 

 

 

 

ケパ

 

 

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18 歳の決断、テニス

2018年06月22日 | 随想
18 ,48。
これは私がテニスを始めた年齢と、始めてからの年月の数字だ。つまり大学入学と同時にテニス部に入り、それから今日までずっと続けているわけだ。

子どもから高校生まで、私は図書室や本屋の本の虫、文芸部所属の文学少年であった。つまり運動神経無しの青瓢箪で、理屈好きの全くモテないタイプだった。
大学入学で上京を期に一大決心をした。それは「脳味噌の中まで筋肉」と揶揄(やゆ)していた運動系の部に入ることだった。どうしてそんな小馬鹿にしたかというと、イソップの「すっぱいぶどう」の心理でだった。
入部先はテニス部に決めていた。レギュラーにはなれそうもないので、四年間下積みでもいい、社会に出てからもずっと続けられる競技として目を付けていた。その点野球やサッカーのような、チームに所属しなければならない競技より、テニスのような個人競技っぽいものの方が向いていた。

テニス部の部室に入って三日目、先輩が「お前な、ESS(英会話クラブ)は隣だよ。お前、間違って来てない?」と私に言った。よほど運動系には場違いな若者であったのだ。言われた方も、まったくそう見えていただろうことに、同意する。その日でなく、三日目に、が決定的だが。

あれから48年である(本人も驚く)。どこに行くにも必ず本を持ってないといまだに不安だが(笑い)、広島・兵庫・東京、どこに引っ越しても必ず教会とテニスコートを探していた。テニスコートには、心から愉快に語れる仲間がいた。

テニスは生意気な若者だった私に、礼と従い、真に勝つとは何かを教えてくれた。もし今、年に似合わぬ、結構動ける体が私にあるとするならば、これは牧師としての召しに、神様が備えてくださった恵みの一つであることが分かる。神様に感謝。


ケパ







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前向きに生きることができなかった時代

2018年06月08日 | 随想

今、友人のクリスチャンが大きな試練に立ち向かわされている。こうした相談にあずかるのも、実は私にも過去、大きな試練があったからなのだ。

神に寄り頼み、困難に立ち向かっている彼に、私は心からエールと祈りを送りながら、どうしても今は過ぎ去った自分の過去を思い出さずにはいられない。そしてあの時の私は、今の彼ほど真摯で信仰的ではなかった、と反省することしきりだ。ただしその時の私は、いわゆる福音派で、試練困難を通して聖霊派やカリスマ派へと導かれた、その途上であった。だから信仰の状態からして、今の彼とはハナから水をあけられていたのだが。

 

過ぎ去った過去の私・・・・・試練の始まった数年間は、落ち込んでも誰彼となく人に聞いてもらい、「その内よくなる」、そう頑張っていたと思う。しかし妻の病状が悪化し、病院から見放されてくると、だんだん希望が乏しくなり、徐々に<現実逃避>型になって行った。そうなると家庭が「針のムシロ」化して、主人なのに全く居候敵身分で、身の置き所がない辛さや怒りが生じてきた。部屋を別にされ、食事も常に一人である。会話もなくなる。三千世界休まるところがない疲労が蓄積すると、やたら徒労感、虚しさが募ってくる。 さらに年数が経っていくと、遂には希望がほとんどなくなりかけ、心が冷えて<被害者意識>型に変化していった。こうなると、人生を肯定的に捉えられず、否定的、悲観的な思考パターンに知らず知らずに陥って行った。かなり人格が変わってしまっていたと思う。

 

そのことは、本人にはなかなか気づかないことなのだ。仕事にモロに出ていた。教職だったので、本来子どもを前向きに向かせ、自己啓発させる職務なのに、その指導者の生き様が後ろ向きなのが、教えを受ける生徒たちに影響が出ないはずがない。 だから学級経営がうまく行かなくなったのだが、それがどうしてなのか、自分では分からなかった。本人はこれまでと同じようにやってるつもりなのである。 近年私は、心のあらゆる問題の鍵は、正しい「自己像:セルフイメージ」を有するかどうかにあると思うようになったが、あの時、まさに私はセルフイメージが大きく狂っていたのだ。狂ってもそのことがわからないから、修正できない。修正できないからますます狂っていき、ドツボにはまるという、最悪のパターンに沈んでしまった。

 

今の私はようやく解放され、神から「家族で二度とこれほどのことは起きません」との示しもいただいている。おそらく当時の私を知る人が今私と会えば、きっと『別人』だと感じるはずだ。 それだけではない。ドツボの過去の体験が、牧師としての大切な土台となっている。もしこんな過去がなかったら、私はもっと薄っぺらな人間になっていたのではないかと思うし、友人もそんな私であれば、相談などしようとは思わなかっただろう。 これは私の通されるべき道だったし、人生の宝だと分かる。だからどんな悪い、辛い経験もすべてのことが益になる【ローマ人への手紙8:28】のみ言葉は確かにその通りだと確信する。自分の力で自分を修正することは難しい。しかし神はご自分を信じる者を護り、すべてを逆転させ、限りない感謝と幸福へと導いてくださる。神にはその力がお有りなのだ。

 

神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。

 

ケパ
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雪の降る夜に

2018年02月01日 | 随想
ここ船橋は正午頃から氷雨が降り始め、夜には雪になった。ここより5、6キロ南東の習志野市や幕張近辺の海岸部では雨がほとんど降らず、ずっとテニスができたのだから、綱引きのような微妙なラインだったのだろう。

通常雪が降ると、雨以上に人は屋内に押し込められる。この自然の力に対し、人は従順になるしかない。人は特別な存在だが、しょせん自然の一部に過ぎないことも教えてくれる。台風は荒ぶって爪跡を残していくが、災難というだけである。しかし人をじっくりと謙遜にし、内省させる力が雪にはあると思う。但し今夜はすぐに融ける根性のない雪で、写真にならない。

ところで昨夜は月食であった。iPhoneカメラではらちがあかないので、急いで帰宅し愛用のデジ一眼で撮ってみると、影になっているところが赤かった。すると次のような聖書の一節を思い出す。時が近づいているのだろう。

主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。(使徒2:20)

私は見た。小羊が第六の封印を解いたとき、大きな地震が起こった。そして、太陽は毛の荒布のように黒くなり、月の全面が血のようになった。(黙示6:12)




ケパ
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