ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

私の僧院(2)〜癒やしの祈り

2020年07月24日 | いやし


 久しぶりの朝焼け、日の出とともに東の空にバラ色の🌹朝焼けの中で祈った。



 実はそれまで妻の肩が癒やされること、私のバネ指が癒やされる事を神に願っていたが、寝付けなくなって起き出しただけなのだが。



 私たち唯一の神を信じる者は、神のものである。だから身体の問題は、すべて神が許されたもので、御心がある。神が許されたことならば、どんなことでも祝福である。バネ指も直ることを願うが、

まずこれが許されたことから「主よ、私は何を学んだら良いのでしょう?」と御心を聞く。

 こと自分の身体に関してはまず感謝し、許されたわけ、御心を聞かなければ、「直してください」は基本、無い。御心を聞かずして願うなら、それは神より己を優先しての傲慢だからである。


 それにしても、夜明けとはなんと素晴らしいことだろう。暗闇では物を判別できない。一切が茫漠として定かでない。しかし夜が白み始め、鳥たちがさえずり出すと日の出は近い。やがて鮮やかに日が昇ると、闇は消え色が戻り、一切が明らかになる。


 やがて新天新地で天のエルサレムが降りて来た時、光はその聖所から来る。太陽はなく、もはや闇はない。光とは神である。


 この時代に生きる者については、神であるイエスはこう言われた。


 闇があなたがたを襲うことがないように、あなたがたは光があるうちに歩きなさい。闇の中を歩く者は、自分がどこに行くのか分かりません。ヨハネ12:35


「光があるうちに」とは、神に聞き従って歩む人生という意味である。



      ケパ

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ひざの腱が癒やされた

2019年05月20日 | いやし
I先週の金曜日、テニスで久しぶりのシングルスを楽しんでいた。7人の参加者全員と総当たり戦をするので、6回勝負することになる。いくらシングルス好きだとは言え、少しだけ過酷だ。
 
因みに私が最年長者。息子ぐらいの相手と3人、五十代前後の相手と2人終えた時点で、結果は3勝2敗だった。しかしもう1戦、というところで私は急にリタイヤした。右ひざ下内側の付け根の痛みが激しくなったのだ。
 
この日、途中でその兆しは感じたが、五つ消化した段階で、これほどの痛みを感じるようになったのは想定外だった。もはやプレーは続行不可能だったので、少し足を引き吊りながら早々に引き上げた。靱帯損傷まではしていないが、重度の肉離れなどは幾度か経験している。今回のはどう見てもひざにつながる腱の部分を痛めている。最近準備運動やストレッチをおろそかにしていたせいだろうか、「ああ、やっちまった・・・・腱というか靱帯は治りが遅いんだ」とかなり悔やんだが、やってしまったものはしょうがない。後の後悔、先立たずである。帰り道、病院に行くべきか少し悩んだが、ドルカスにはそのことを口に出せなかった。日常生活には差し障りがないので、とりあえず自宅で湿布程度をして、安静にし様子を見ることにした。
 
翌土曜日は朝から仕事だったが、立ったり座ったリの激しい動作では、どうしても右足をかばう不自然な動きをしてしていた。また土曜日と日曜日の朝、深夜とか早朝に、ひざ下の鈍痛で目が覚めた。うずくのである。これでこれからもテニスができるのだろうか、日曜日の朝はさすがに不安になった。予定していたテニスに不参加の意向を伝え、断る必要があるのでは、とさえ思うようになった。しかしドルカスが祈ってくれているので、不参加は何とか思い留まっていた。
 
そこで日曜日の朝、痛みで目が覚めてから、不安な心で神に癒やしを求めて祈った。すると自分で直に癒やしを祈るよう促しを受けたので、ひざ下に右手を当て、癒やしの祈りをした。その時、示しが続いた「わたしはあなたを癒やします。癒やされた確信をもってテニスをしなさい。あなたはまったく痛んだことを忘れてプレーし、終わってみて完全に癒やされていることをみるでしょう。これは、自分自身のからだを通して、これからあなたが癒やしに用いられて行くしるしと確認のためです」と。
さて本日、テニスができる今日の月曜日、またまた早朝のベッドの中、鈍い痛みで目が覚め、反射的に手を当てて祈ろうとすると、「あなたは癒やされたことを信じていないのですか?」と示しが来た。それであわてて手を引っ込めた。とにかく、信じて従うしかないと腹を決めた。
さて、コートでは3時間、かばうどころかふだん以上に激しくコート上を走り回り、調子はルンルンだった。テニスができない、不参加にしようと思っていたことなど、まったく忘れていたのだ。気がついたのは帰りの車の運転中である。「あれれっ、右ひざ下はどうなってる?、全然大丈夫だったじゃあないか。テニスの中で、意識をしなかっただけではない、もう、何の痛みも感じない。本当だ、これはもう完全に癒やされているー」
 
ハレルヤ。主よあなたに栄光を帰します。
 
 
 
 
ケパ
 
 
 
 
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癒やしについて

2019年05月07日 | いやし
最近、癒やしについて思い出させ、考えさせられている。
もともとは私は、福音派の教会に長らくお仕えしたクリスチャンホームだった。しかし40歳になった時に前妻は精神の病を発病し、医師から絶望的な状態だと宣告された。
 
それからと言うもの、神に癒やしを求めたが、私の教会の信仰はそれを否定した。教会から病人がもし癒されないなら、そんな力の無い信仰になんの意味があるのだろうか、聖書でキリストやその弟子たちは数え切れないほどの癒やしを行っているが、どうして現在の私たちが、そのキリストの愛と宣教に無縁であるのだうか。もしそうならそんな信仰は願い下げだ。クリスチャンを辞めよう、とすら思った。
 
その日から十年にわたる、教会と信仰の放浪生活が始まったが、結論から言えば妻は癒されず、医師の言った通りに召天した。その間、涙と叫びを持って祈り続けたが、神の計画と祝福はそうではなかった。
 
私はこの間、ただただ癒されることを狂ったように願っていたが、御心はそうではなく、私自身と新しい家族の新生、そして私自身の召命とそれに応える献身にあった。たしかにそれは最善であったし、今となっては最高の祝福だった。
癒やしは神がされることなので、私たち人間は神さまに執り成しの祈りをするだけである。どんな癒やしの器でも、このことは一切変わらないと思っている。自分が癒やしの器で、何か特別な働きがでぎる
 
だから癒やしについて私は、「何がなんでも癒されなければならない」、とか、私を通して神の癒やしが働かれたい、などとは思わなくなった。人の思いを超えて働かれる御心が最善なのだ。癒やされるにしても、癒やされないにしても、最善の導きをされる愛なる神に、心からの熱心をもって執り成しの祈りを続けたい。祈りにしても、私たちの愛を神は用いてくださると思うのだ。
 
 
ケパ
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十二年の歳月

2018年08月18日 | いやし
今日は十二年前に召天した前妻の墓に、献花し賛美、祈るために一日を使った。これを言い出してくれたのがドルカスなのでうれしい。

船橋から神奈川県愛甲郡愛川町の相模メモリアルパークまで、およそ百キロ弱。どんなに頑張っても途中何カ所かの渋滞は避けられず、片道2時間半余りかかる。行く途中で厚木聖会に立ち寄って参加し、その後、学生時代の懐かしい本厚木の街もちょい見た。(今日行ったお墓の中でも、1番かっこ良いと思ったらのが下の写真)

相模メモリアルパークには二年前にも来たが、今回は賛美の機材を持ち込んだり、祈りにも力が入った。前妻との28年の結婚生活を思い出していた。当座はどんなにつらく悲しい思い出でも、後になってみればすべて益に変えられ、感謝することだった。それらがなければ、私は自分への希望を抱き続けたであろうし、従って聖霊のバプテスマは無かった。神は本当に素晴らしい恵みを賜る方である。

今日またここへ来たのは、墓参でも、もちろん報告でもない。確かに遺骨はここにあっても、霊があるわけではない。私たちクリスチャンはお墓を特別視しない。メモリアルの場所なのだ。
だからただ故人を偲んで感謝し、天での再会に希望を熱くして祈るのだ。本当はどこででもそれは同じなのだが。

今日のNHKの「半分青い」で「オージー(大爺
=祖父)の死後は、どこへ行ったの?」と、孫のカンチャンが母のつばめに問いただす場面があった。それに対して、「ママは行ったことがないから」と、はぐらかしに終始していた。一言で言えば「死後の世界はわからないので、保留にしてしまって、今生きていることだけを考えよう」だろうか。
小さな子どもでも、人間の死後の世界の行き先がどこなのか気になるのに、大人の方が「わからない」ので「生きることだけに専念しよう」とは・・・・・・、これが日本の悲しい現実なのだ。
生きていることだけを考え、死が近づくと恐怖におののき、死への恐れから考えずに逃れようとする。そんな縁起の悪いことは言うな、である。多くの人が、前向きに生きると言うことを勘違いさせられている。単にそれは逃げているだけである。必ず来る死への備え、神を信じ天国を目指すと言うことを遮断し、十字架の恵みから離して、少しでも自分と同じゲヘナの火の世界に道連れにしようとするサタンの策略なのだ。

十字架の救いはすべての人に開かれているが、それをただ信じ受け取った者だけがその恵を得る。
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手首の痛みが治った

2017年10月04日 | いやし
月曜日にいつもの仲間たちとテニスをプレーし始めて、すぐに右手首の痛みを感じるようになった。「どうしたのだろう? 特にこれをやって痛めた、ということが思い当たらないのに」。
痛みはプレーを続けるにしたがってどんどんひどくなり、途中何度も中断して帰ろう、と思いながら続けてしまい、最後はラケットを振ることすら痛くて難しくなった。
帰宅しすぐに湿布をしたが、今まで痛めたことのない右手首だけに、実に暗澹たる思いであった。火曜日の朝になっても、痛みは湿布をしたせいか前日よりは少し収まっていたが、場所が場所だけに完治までには相当時間がかかりそうな悪い予感がした。
そして暗い気持ちで沈んでいると、はたと気がついた。「祈ってなかったよ!」そして悔い改めて感謝し心から治るよう求めて祈った。三度目に祈り終わるとあら不思議!「痛くない!」、手を振ってみたり、捻ってみて、やっぱり「痛くない!」ハレルヤ! これは何ということだろう。
神は生きておられる。

信じる人々には次のようなしるしが伴います。(中略)病人に手を置けば病人はいやされます」(マルコ16:17-18)




ケパ



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あなたは誰に必要とされている?

2017年03月27日 | いやし
性差があるかも知れないが、人が一番危ない状態とは、「もう自分は誰からも必要とされていない」と感じる時ではないだろうか。別な言葉で言えば、喪失感が人間をスポイルするのではないだろうか。
駅前で路上生活者を見るたびに、私はいつもその人たちへの祈りと、神への感謝を覚える。

この日曜日のためにメッセージを準備していて改めて思い出した。五十歳で家庭が崩壊し、ひとりになった時のこと。涙がこれほど私に多くあるのかと驚いたこと。仕方なく実家に戻って、アルツハイマーの母と数年間暮らしたこと。
食事作りなど、母の世話は大変だったが、それでも母が施設に入って居なくなるまでは、気がつかなかったが、頼られているという生き甲斐があった。
しかし母の居ない、ただだだっ広く暗い家になって、私は本格的におかしくなった。どうおかしくなったかと言うと、仕事から帰るとカラオケで憂さを晴らすようになり、そのうちむなしさから使える財を全部使い切って、不道徳な欲望を全部満たしてしまうことばかりを妄想するようになった。言わば自己破壊願望であった。もう誰からも、必要とされない存在だったし、せめてよこしまな愛欲で気をまぎらわし、最後に一花咲かせて散ろう、そんな感じである。自殺はいつでもできると。

確かに仕事ならば、凡庸な私の代わりはいくらでもいる。しかし家族、親は、代わりがいないではないか。失われたこの先の人生に、もはや良いことがあるとは思えなかった。(ペットは、幾分かは埋め合わせになります・・・病院でのコール。助けてと言わんばかりの、情けない顔だ)

結局私は、寸前の所で神の愛を知って守られたのだが、それはずっとずっと求めて、あきらめてしまっていた「神の直接の語りかけ」体験であった。この霊的な体験は、その瞬間から私の人生を百八十度変えた。懐疑的、否定的人間から、肯定的、積極的な全くの別の人間に変えられた。聖書ではこれを新生(born again )と言う。十字架の神の愛と心からの神への愛、これは血肉の死をもっても引く裂くことのできない永遠の絆である。

神がどんなにか私を愛し、待ち続けていてくださっていたことか、どん底にまで落ちて私は初めてわかった。いや、落ちなければわからなかったのだろうと、今は分かる。神はその時を忍耐強く待っておられた。
〈自分が必要とされる〉それを人間に求めるならばむなしい。生ける唯一のキリストの神に求めるなら、それは真であり永遠であると証言する。


ケパ





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この笑顔に

2016年04月22日 | いやし
名古屋教会メンバーのお二人。

それぞれ闘病中で入院中であり、自宅療養中なのですが、先週だったでしょうか❣️
日曜日礼拝に出席された時の笑顔。
こちらが励まされるような笑顔です。


いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
すべての事について、感謝しなさい。
これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。


聖書の言葉です。
そのようにされてます。すべての事を喜んで感謝して、神様に祈ってるのです。

私はお二人に励まされてます。
だからね、私も祈ります。
夏のキャンプでは、必ず笑顔のお二人と再会します。



ドルカス
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ありのままの自分と心の病

2016年03月25日 | いやし
年齢の話だが、大台をはるかに超えてからというもの、お風呂場の鏡に「あれ、これ、自分じゃない!」と思うケースがある。最近は徐々に増えゆく白髪や顔のシミ以外に、特に体の中央辺りの美しくない曲線を見て思うわけで・・・。
かなり昔、これと似た経験をしたことを思い出す。それは我が家に初めて録音機が入ってきた時のことだった。当時は放送局のような大きなオープンリールテープの機械で、録音できること自体が不思議だった。早速、自分の声を録音して聞いてみた時、「これ、自分の声じゃない」と思ったものだ。いつも一番聞いているはずなのに、ボヤ~っとした、くすぶったような声で、本当にがっかりした。
とまあ、そうは思っても真実は真実、映っており、見えているありのまま、その事実を受け入れるしかない。ところが、見えない自分自身の姿、人格とか人間性とかについては、そう簡単にありのままを受け入れられるものではないようだ。(写真は今日の海老川の菜の花)

聖霊のバプテスマを受けた十数年前から、心を病んだ人たちに接する機会が増えた。それまで私は公立学校の教師として千人ぐらいの子どもを担任し、知的障害、特に発達障害については職務上かなり熱心に取り組んだ。が、心の病についてはついぞ経験したことがなかった。それとも、それまでは子どもたちの中に、その兆候を見る目がなかったのかも知れない。

ところで、心の病というもの、ど素人の私が思うに、患う多くの原因が、先ほど私の話のように、自分像というもの、これが私の見たところ、本人の認識している自分の姿とは相当ズレており、そのための不一致というか、実際の自分とのバランスがとれず、常に不安定で翻弄されているかのように私は見てとれた。
(写真はその横で泳いでいた鴨)

確かにありのままの自分を受け入れらない、したがって全く違う自分を自分だと思うには、いろいろ事情があることだろう。
「・・・こうあらねばならない」という規範にはめ込まれた生い立ちや、「・・・でなければ、自分の存在はない」というような不安など、背景はいろいろだろうと想像する。生真面目な性格とか、期待にこたえなければならないプレッシャーとか、同情すべき点は多い。中には発達障害の二次的障害に起因するかもと見受けられる方もいる。
いずれにしても、苦しむ本人が一番その理由を知らず、ただふりまわされ続けている。それはまことにそばにいても歯がゆい思いがするのであるが、しかしいかんせん、本人が自分の真の姿を見ようとせず、拒否するので、支援は限定的であり、メビウスの輪みたいにいつも同じことの繰り返しに陥る。

聖霊のバプテスマ以前からであるが、霊的にこのような心の病を見、気づくようになって以来、ようやくその原因、真犯人が見え隠れるするようになった。見えることで、やられっ放しだった相手の出方にも対応できるようになった。
その相手とは、あらゆる偽りと騙しに長け、神に反逆し敵対する存在であるサタンと、それに従う数知れぬ悪霊たちのことである。聖霊が(※クリスチャンの)人に住まうことができるように、悪霊もまた人に入り込んで、自分の正体を隠しながら巧みにその人を支配するのである。
クリスチャン以外は、当然ながらこれに対処できない。またクリスチャンはこの悪霊に対し、ただ二つの選択肢だけがある。十字架と聖霊を受け入れているにも関わらず、聖書に明記されている悪魔(サタン)の存在がわからない、かつての私のようなクリスチャンなのか、もしくはサタンに気づき敵対し、神の力によって戦うクリスチャンであるか、だ。(写真は、まだつぼみ状態の海老川の桜)

こういうわけで、クリスチャンは自分のすべての罪を十字架によって神から赦していただけるので、正視できないありのままの自分の姿を「然り、然り、全く弁解の余地はありません。私は一点の良いところはありません。地獄行きが本当に当然です」と罪の底に沈んでいる自分を受け入れることができる。

もちろん罪を認める心からの告白と、その悔い改めによって、一切の罪は赦され、決して思い出されなくなる。救いという。こういうわけで悪霊に対する戦いの勝利=心の病の癒やしという奇跡が起こる。自分自身の受け入れ、和解ができたからだ。神が御子キリストの十字架によって信じる私たちの罪を赦され、このおぞましかった自分の罪こそが、永遠の救いに導いてくれたと、これを喜ぶことができるからだ。なんと罪が私を天国へと連れて行ってくれた鍵になったのだから。いやしの証拠に、私たちの群れには、生涯入院レベルの重度の統合失調症、薬物依存症でも癒やされ、牧師に立っている。担当したドクターから、「私たちの希望だ」とまで言われている。
「ありのままの自分を受け入れる」聖霊の力が注がれる真のキリスト教会にこそ、いやしの希望がある!



ケパ
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いやされた!

2016年02月28日 | いやし
主日のメッセージは、靱帯損傷の証しをして、この事にある神の御心、それは体が不自由になる弱さを知り、それでも神を信頼しいっさいを委ね、感謝することだ、と語った。言わば感謝の実践を神が与えてくださり、私は感謝の喜びが湧いてきて・・・語っていたら、不思議、私に何かスイッチが入った。

そう言えばメッセージに立ってから、ずっと立っている。用意されている椅子にも座らず、立てかけてある松葉杖にも触れておらず、ズッとずっと。「あれえ、それなのに今まだ、痛くもないぞ」と気づくと、すぐ「皆さん、こうして神の御心を受け取ったので、(完全にではないにしても)私は癒されています」と宣言した。「オイオイ、そんなことを言って、もしまた痛みで座り込んだりしたら、どうすんだ?」の声も聞かないではなかったが、とにかくそれには耳を貸さずに、言ったのだ。

礼拝後にもう一度、損傷の箇所をチェックしてみた。例の斜めに関節を回してみても、本当に痛くない。歩いてみると、足が軽く、一歩歩くたびにあった痛みが、ほとんど感じられなかった。「素晴らしいです、神様!」全くとはいかないまでも、メッセージする前と、その後それで痛んで座るどころか、逆にほとんど普通に軽やかに歩いている自分が居た。これには当人がホント驚いた。

半日経って、今、最終確認をした。もう松葉杖は返し、用心した事に越したことはないが、確かに普通に、痛くもなく歩けている。これは何なんだろうか? 「私は癒されています」は口先のまやかしでなく、真実だった。

神は生きておられるのです。ハレルヤ❗️ ケパ



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主よ、癒してください

2015年10月15日 | いやし
私は今でも、都会の人混みの中で特に痩せた女性を見つけてしまうと、一瞬のうちに過去の記憶を呼び戻してしまい、少しの時間身動きがでくなくなってしまう。その話は今から20年前後、前にさかのぼる。

散々回り道をして、病気であることがわかり、ようやく専門の精神科の病院にたどり着いて、その医師に治療方針を聞くと・・・
「あなたの奥さんのような、四十過ぎて、しかも源であり治療の柱とも言える母親を失って発症した拒食症のケースは、これまで治った例がありません。すべていろんな形で亡くなられています。覚悟しておいてください」と医師から宣告されたのだ。そして数年するとそれは、決して言い過ぎではない現実に、私は地の底をのたうち回っていた。それで最後の希望を信仰に立ち返って神の癒しに求めると、友であり、ともに教会を長年支えてきたつもりの牧師から次のように言われた。

「あなたの信仰は危険です。旧約の時代はともかく、完成された聖書がある今は、特に聖霊の著しい働きを必要としません。聖霊、聖霊と言うカリスマの人たちによって、キリスト教会は多くの混乱に陥れられたのです。あなたは夢を見、その夢や幻がいきなり現実になるとでも思うのですか?そうではない。神はいつも人を介し、人を通してご自分の計画を実現されるのです。(※つまり神は個人に直接語られることはない、癒やしに応えられることもない)祈ったりするのではなく、すぐに病院に入れなさい。

祈りすら拒否された私は、信仰にではないものの、これほど教会というものに深く絶望したことはなかった。バプテスマを受け、三十年近くになる私の教会生活は、一体何だったのだろうか?聖書にはキリストと弟子たちによって、信じる者にあれほど多くの癒しと奇跡がもたらされたというのに、そしてそれはどこにもこの時限り、もう終わったとは書いて無い。むしろ信じる者には、その印として現れるとすら書いてある(マル16:17)というのに。全能の神に癒やし、病からの救いを求めなくて、それでもクリスチャンなのだろうか?

今では私はあの時、友だった牧師が危険視したカリスマ派の牧師である。そして明確に彼が危険視した理由とその根本的な誤り=聖霊なる神を信じていない、を理解している。三位一体の神を信じると言いながら、実は聖霊なる神を個人的に知ることも、体験することもできていない人々に聞くとは、私自身も何と愚かだったのだろうかと今では思う。
癒しは聖霊なる神の働きであり、聖書が語っている「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。(マルコ16:17-18)」は今でも真実である。要は信じる者には癒しが現れ、信じない者には現れないのだ。病の人よ、特に医学から見放された人々よ、来たれカリスマ派の教会に。神には不可能はない、ただ信仰があれば。 ケパ




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