ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

スイス航空

2011年10月31日 | 派遣

スイス航空
このジャンボで行きます。只今搭乗待機中です。

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Kカウンター

2011年10月31日 | 派遣

Kカウンター
スラエル派遣がいよいよ今日出発です。私達はスイス航空。成田第一のKカウンターに集合です。今回の便は二手に別れて出発。集合時間は1時間違うのですが、到着は後便が先に着くのです。現地到着はテルアビブに早朝3時30分です。

ドルカスができる限りブログをモブログ(モバイルから)送ります。(ドルカス)

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不惑や天命を知るって、自分の力ではできない

2011年10月29日 | 信仰

 高校の時、確か古文の授業で、論語という書物の手ほどきを受けた。その中でAngry「四十にして不惑(まどわず)」、「五十にして天命を知る」というくだりがあって、それが妙に耳に残った。

 しかし論語の世界と異なり、私はちょうど四十歳から「惑い」に惑い続け、五
十歳でその混乱は極みに達したことを思い出す。前の妻がちょうど四十歳の時に心の病の発病をしたから・・・。十年後の五十歳では、ますます病は進行し、家族の別離など最悪の状況に陥ってしまった・・・・。で、わたしは「何が不惑だ!知天命だ!」と思っていた。家族の状況に出口が見えず、出世の希望も失せつつあった。失意が長く続くので、希望が持てなくなって「やけ」になりかけていた。
Cjh21
 その混乱の極みの中、わたしは自分の姿に絶望し、深い悔い改めをした。その時、神さまが私にふれてくださり、語りかけてくださった。

「わたしはあなたを愛している」

「あなたが他に求め、わたしに求めないからです」。

 この瞬間、わたしはまったく変えられ、神の愛に自分を捧げる者になった。聖書Cjh03にある「畑の中の宝」を見つけたような喜びがそうさせたのだった。この神の言葉が私を「不惑」と「天命」を知る者に変えたのだった。


 自分の力ではなく、ただ神のあわれみと恵みによって、わたしはまったく新しくされた。だからいかにも知者風の「論語」は、私には正しくない。聖書が真実だった。自尊心や誇りがあった時、自分を第1にして、神を第1にできなかったから、神は私におふれになれなかった。神は主なのだから。しかしわたしが打ち砕かれた時、神はあわれんでふれてくださった。あなたは大丈夫ですか? (ケパ)

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テニス 体の衰え 天への希望

2011年10月28日 | 健康・スポーツ

 ここは松の木運動場という、杉並区にあるテニスコート。Photo_2 来週早々から再び海外派遣にまた行くので、しばらくのお別れを今朝したところです。この度の派遣は2週間あるので、帰って来た時には12月に近く、今日で3月からの再開まで早朝練習はお休みということになる。少々寂しい。
 この一年テニスしていて、体の年齢的な衰えを実感させられた。  瞬間的な対応力が、目のせいか足のせいか、あるいは筋力的な衰えのせいか、これまでできていたことができなくなった。だから勝負も次第に勝てなくなって来た。結果というものは容赦なく正直なものだ。
 

 昔、こんな話は先輩たちからよく聞かされていた。四十から五十、五十から六十は加速度がついて衰える、七十はもう・・・・などと。その時は「ふうん、そんなものだろうか」と上の空で聞いていたが、今はその通りだと実感する。しかしこの衰える体を持っていて、かつ自分がクリスチャンであることの感謝がひしひしと湧いてくる。

Photo

 ご存じのように人は命があって、やがて滅ぶ肉体と、その中に滅びのない霊とを持っているハイブリッドである。肉体が滅んだ時、私たちは俗に言われている幽霊のようなふわふわしたものになるのではなく、御霊に属する体によみがえり、「御霊の体」を与えられる(1コリ15:44)。それは天の御使いのよう(マタ22:30)らしく、わたしはそうなるのを心待ちにしている。肉体がだんだん衰えるということは、まるでそのための準備の時のようで、希望が高まるのだ。これって、いいと思いません? (ケパ)

 

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北の大地の恵み

2011年10月27日 | 食べる

週初めに届いた北の大地の恵みで、最初にケパさんのお得意のカレーが出来ました。届いたメイクイーンとタマネギでいつもより美味しいカレーでした。

そして、第2弾で今夜はドルカス特性のシチューです。名前は付けられないドルカスシチューPhoto は材料は冷蔵庫のあるもの勝負。今日は北の大地のタマネギとメイクイーンと、偶然にも北の大地のニンジン、さらに太ったスイートピーと、作り始めて(ドルカスシチューには欠かせないセロリーがない・・・ケパさんがすぐ近くの八百屋で100円で買ってきてくれたので感謝・・・そして格安すね肉かたまりと、さらにトマトのボイル缶一つ。ポトフ?トマトベース?のドルカスシチューできあがり。こってり好みのケパさんに合格点だったようで、一安心

今日はピアノレッスンもあったので、先生と一緒に食事も出来て、さらにハッピーな夕食でした。安息日。こんな風に食事もゆっくりできて本当に感謝の夕食でした。(ドルカス)

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猫とわたし

2011年10月26日 | ネコのコールと‥‥

 我が家に猫のコールが来てから10ヶ月、夫婦だけの生活がかなり変わった。玄関先でいつもお迎えをしてくれるとか、私たちが不在の時はあまりえさを食べないとか、かなりほろっとさせられるよい子である。特に夫婦がふたりで祈ったり就寝したりすると、そんな時かならずサッと寄ってきて、川の字の真ん中になりたがPhotoるのがかわいい。
 最近はコールの表情が、人間の影響なのか、すごく豊かになっている。
そこで最近は「猫語&ボディランゲージの解き明かし」練習をしている。つまりコールが 「にゃ!」と言って跳んで行く時「ぼく、いいもん!」とか「ナンダナンダ?」。菱形に歩く奇妙な歩行は、体を大きく見せて「負けたくないもん」と空威張り・・・・などと解き明かして楽しんでいる。

 たかが動物一匹と思われるかも知れないが、人はたとえ猫であっても、他者のために世話をし、素朴にそれに答えてくれる、つまりコミュニケーションが取れることは喜びであり、生き甲斐になることを実感する。神様が人を愛してくださっているのに、コミュニケーションを取り、応答しないなんて、猫でもするのに、本当にもったいないことだと思う。  (ケパ)

PS・・・長い間ネコと共同生活をしていた私にとって、ネコ言葉は日常のことなのですが、最近ケパさんがcallの顔をのぞき込んでいるのを見て、にゃ!ついてますドルカス

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ラビット2

2011年10月25日 | 生活

ラビット話題、もう一つのどうでも良い話題・・・Rabbit2_2

 姪が勤めている幼稚園には園内に小さな丘があり、子ども達が自然の中で成長きる素敵な 園です。いなかの信州だったら当然の自然が、この東京近郊にあるなんて思いもしませんでした。

園には菜園があったり(秋には収穫して料理などするらしい) うさぎ、やぎなど飼育していて、夏休みなどには、お世話当番が出勤して面倒を見ると楽しそうに話してくれたことがあります。そんな彼女は我が家のCallをみて、ついウサギを飼いたい・・などと叫んだのです。

しかし、御心ではないようで未だウサギペットは実現していません。世話係になるのは・・・・誰だったのでしょうか・・・

 

 先日姉の家に訪ねた時、玄関に置かれたシルバニアファミリー(と思うのですが)の中に、以前Cat24 お土産にあげた小さなバイオリンを持ったウサギが椅子に座っていました。あらこれだったら特にお世話もなくてもいいわね。幼い頃の彼女にパパのプレゼントだったのかな。今は玄関先で来客の目を楽しませてくれているウサギたちです。

病院のウサギを見た時に、さーっと脳裏に浮かんだ彼女の顔。そしてこの写真を撮ったことも思い出しました。

ついでに・・・我が家のcall登場・・ウサギもねこも、神様が創造主です。・・・(ドルカス)

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異言

2011年10月24日 | 聖書

Cjf14  みなさん、異言(いげん)をご存じでしょうか?聖霊のバプテスマを受けたすべてのクリスチャンに先ず与えられる賜物で、神に向かって話す外国語のようなものです(参:1コリント14章2節)。自分の口から語っているのに、語り手自身が「いったい自分が何を言っているのか?」わからない賜物、それが異言なのです。

 この異言について、聖書では(使徒の働き2章4節から11節)で最初の異言の現れを描写しています。ここでは非常にメッセージ性の強い異言が、各国々の言葉で語られたのです。わたしもクリスチャン生活になって30年以上経っていましたが、このような聖霊の賜物があることを信じ、聖霊のバプテスマを受けてから開かれてきました。信じていなかった時とか、聖霊のバプテスマを受けるまでは、異言とか預言など聖霊の賜物は現れませんでした。ですから「(そんなおかしなものは)ない!」と思っていました。しかしそれは間違いだったのです。聖書は真実です。聖書にある通り、本当にこれらはあったのでした。Photo

 「異言が語れる?だからどうだって言うの?」と思われる方も多いと思います。しかしそう思われる向きは、信仰においてかなり損をしておられるのです。神が恵みでくださるものに、不要なものはありません。多くの場合、1テサロニケ5章の「絶えず祈りなさい」など、異言の祈りで祈ると、いつでもどこででも祈ることが出来るようになりました。それだけでなく、既述のように聖霊の賜物が出るようになりました。これらは素晴らしい神の恵みであり、祝福なのです。まさに「神と共に生きる」喜びが包むのです。食わず嫌いをやめてクリスチャンの方は、ぜひ聖霊のバプテスマ、異言などをお受けになっていただきたいと思います。  (ケパ)

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ラビット

2011年10月23日 | 自然

近所の病院に広い庭があります。以前ケパさんが紹介していましたが、実はこの庭のRabbit1 一角に、ニワトリ達と、数え切れないほど増えているウサギが飼われています。オンドリは深夜(2時か3時ごろ)早過ぎる時を「コケッコッコー」と告げています。だからニワトリは、少しは周りにお役立ちしてるんでしょうね。

けれど気になるのはウサギです。夏に見た時のウサギたちは、生まれたばかりの子ウサギが狭い小屋中にごちゃごちゃいましたが、今日見るとどれが親ウサギか子ウサギなのかわからないほどに、成長していました。カメラRabbitを向けると、「何かちょうだい!!」とばかりに集まって来ます。

見た目はかわいいウサギたち。しかし、君たちこれからどうするのでしょうか。これほどたくさんのウサギたち。とりあえず、毎日きちんと食事にありつけるウサギたち。野生に戻っては生活できないであろうウサギたち。(ドルカス)

 ウサギは雄雌がわかりにくいんですよね。小学校の多くは飼育小屋でウサギを飼うことが多いのですが、バースコントロールに失敗して、ある日気がついたらこのように大量のウサギが・・・・。えさの予算もなく、途方に暮れた教頭サンがウサギをこっそり処分したものの、子どももたちの大騒ぎからバレ、クビになった人もいました。ウサギの繁殖力はクワバラくわばら。(ケパ)

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愛してるよ

2011年10月22日 | 生活
 

  メトロの通り道に無料誌が数あれど、「R25」だけはいつも手にとって読む。今回このR25の「結論はまた来週」というコラムで、妻に「愛してる」と言えないことの問題性が取り上げられていた。コラムを執筆している高橋氏は結婚して10年、妻になかなか「愛している」と言えなかったことを次のように述べている。Img022


  ・・・・愛していないかというと決してそうではない。早い話、恥ずかしくて口に出せなかっただけなのだが、妻に「あなたは私への愛を『恥』と思っているのか」と問いただされ、自分の恥ずかしさを優先する自己本位な人だと非難された。恥ずかしいならなおさらのこと、なりふりかまわず「愛してる」と叫んでほしい。さもなくば離婚だと脅され・・・・

  「離婚だ」と迫られた高橋氏は、ある文芸作品の受賞式でのスピーチの終わりに、意を決して壇上から「愛してるよ」と奥さんに2回目のプロポーズをした。

  感心したのは「
自分の恥ずかしさを優先する自己本位」というくだり。「イヨォ!その通り!」と声がかかりそうだ。ふり返ってわたしは、ドルカスにまあ、ちゃんと恥ずかしくとも声を絞り出して告白しているので、「ホッ」と胸をなでおろしている。しかし結婚後一度も言ってない人がいるなら、これは確かに大問題だ。恥ずかしいとか、馴染めないなどで済んでしまうことではない。

  わたしが愛の告白は大切だと思うには理由がある。今から丁度10年前に、信仰の大転換となった体験をした。それは求めていたのだが、霊的な体験を
Jesus突然受けたことだった。それは「聖霊のバプテスマ」とはちょっと違った。「異言」が出たことでもない。神の言葉が聞こえたのだった。その初めの言葉が「わたしはあなたを愛している」だった。その時、ひどく悔い改めべきることがあった。こんなどうしようもない、愚かでみにくい私を、神は愛してくださっている。それはほとんど、雷に打たれたような体験だった。

  妻に愛の告白は大切だと思う。しかしそれ以上に大切な愛の告白がある。私は毎日何度でも、心から神さまに告白している。「あなたを愛しています。私のいのち」と。 (ケパ)

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