知っておられる向きも多いと思うが、ギリシャ悲劇で「オイディプス王」と言う有名なものがある。
オイディプス王の超簡単ストーリー
ストーリーを簡単に紹介すると、テーベの父王の性的倒錯による罪が、呪われた結婚となり、生じた子に殺されるという託宣を産んだ。託宣に反して妃とに子をもうけた父王は殺されたくないばかりに、子の殺人を命じて山中に捨てさせる。
ところが命を助けられた子「オイディプス」は別な国コリントスで王子として成長する。しかし私生児の風評に悩んだオイディプスは、真相を託宣に求める旅の途中で、これも国難の解決のために託宣を求めに、軽装で来たテーベ王と道の争いになり、意に反して実の父を殺してしまう結果となる。
悲劇はこれだけにとどまらず、テーベの国に来たオイディプスは、スフィンクスのなぞ解きに成功し、国王に迎えられ、死んだ前国王の妃、実母になるのだが、これを妃として迎えてしまうことから、またまた悲劇が始まる・・・・。
因果応報・・・・ではいけない
とまあ、実に巧妙な悲劇のストーリーなのだ。このお話は多くの人々に共感を呼んでいるようだ。だが私は、まったくとんでもないストーリーだと思う。テーマである人間には「宿命」があり、運命には逆らえないなどとは、決して思えないからなのだ。なぜか?私が神のあわれみにより、真の神、生きて今も働く神を知っているからだ。
まず第1に、そもそもの原因となる父王の罪が「若い頃、放浪の身を寄せた王家の美少年に邪恋し、ついにこれをさらって殺してしまった」ものだという。こんな呆れた殺人者、性的倒錯者が仮に居たとしても、その罪をまったく預かり知らない子孫につぐなわせるというのは、とんでもない神々だ。まさに悪魔・サタン的だ。犯した罪のつぐないは、子孫にではなく、本人だけが責めを100%負わなければならないのではないか。
悲劇は大チャンスに
人を創造した神は、人間の親以上に自分が造った人間を愛された。しかし人間はあまりにも罪深く、つぐなったり、きよくなれない。それで神の子イエス・キリストが自ら降り下って、十字架にかかるという愛によって人間の罪を帳消しにしてくださる。ここに希望があり、人は前向きに生きることができる。悲劇の原因である罪については、キリスト教的に言うなら、「自分の罪の大きさに気づき、悔い改めて神に立ち返る」大チャンスである。 ケパ