普通の人は自分の栄光をなかなか忘れられないものだ。職場を退職しても、まだ上司だった気分がなかなか抜けなかったりする。武士の娘だった人は、身分という誇りをいつまでも支えにし、私だってテニスで不利に追い込まれたりすると、得意の強烈サービス(それは過去のものになったはずなのに)をふるって巻き返そうとする。
こんな私なのにもし、神さまが私を通して大いなる奇跡や癒やしを現されたらどうだろうか? 感激し、まるで自分がワザを起こしたような、そんな有頂天な喜びにしたらないであろうか? もしそうなってしまったら、神の栄光を奪う大罪を犯し、サタンの後を追うことになる。恐ろしいことであるが、人とは弱いものである。賜物を熱心に祈り求めている人の中に、そんな恐れが自分には全く無い、と断定出来る人が、果たして何人いるであろうか?
しかし聖書は興味深いことを書いているし、私は心からアーメンと言う。下記の聖書である。これはパウロに何か重大なとげ(おそらくてんかんとか眼病など、人をつまずかせるような疾病)があって、これを癒やしてくださるよう神に三度祈り求めた時の神の答えである。(パウロ自身は数えきれない人々を癒やし、奇跡を起こして来たにもかかわらず)
しかし主は、「わたしの恵みはあなたこれに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。(コリント人への手紙 第二12章9節 ©2017)
私はこの偉大な器が、こと本人に限っては癒やされないこと、その弱さを負わされ続けることに、人間の弱さを知り抜いた神の「守り」を見て取る。パウロと言えども人間であって、高慢にならぬよう、一本の杭を、この場合はトゲと表現されているが、与えられている。実は私もトゲが与えられている。これは私を高慢にさせないための、神のムチだと聞かされている。
パウロはこの答えに非常に納得している。完全無欠になるなら、高慢という大きな落とし穴にハマりかねない。これはそれを心配しての神の愛だったのだ。私も神に祈っている。存分にトゲで私を打ち叩いてください、ダビデのように悔い改めさせてください、と。神の栄光を、0.001パーセントでも奪いませんように!
ケパ
彼らは国の宗教的な指導者であるにも関わらず、イエス様を殺そうとつけ狙っている、自分たちの保身のためには殺人もいとわない集団であり、敵である。イエスを殺そうとする理由も安息日違反であり、冒涜罪である。ところが実際には、彼ら自身が強欲な一番神を知らない偽善家であった。
彼らユダヤ人は自分たちの神であるイエスを殺すことが、神に奉仕していると信じて(ヨハネの福音書 16章2~3節)するのだから、彼らが死んだ後の裁きの場で、事実を知ってどれだけ驚くことか、それは想像をはるかに超えている。
ユダヤ人たちはイエスに、メシアであるしるしを求めた。最後になってイエス様は、ヨハネ伝であるように、決定的なしるしを彼らの前でされた。生まれつの盲人を癒やし、死後四日経っている死臭漂う死者を生き返らせだ。その結果、さすがに一部にはイエス様を信じるユダヤ人が出はしたものの、それでもイエス様に敵対する大勢は変わらなかった。
しかし、このような人類始まって以来の大奇跡が、しかも多くの証人がいる紛う方ない事実として存在して、どうしてそれを神でないと否定できるのか、その方がよっぽど難しい。しかもあまつさえ彼らは、よみがえりの生き証人であるラザロすら殺そうとしていたのだった。
今、最後の時が近づいたことを知られたイエス様は、次のように言って嘆息された。
「もしわたしが、ほかのだれも行ったことのないわざを、彼らの間で行わなかったら、彼らに罪はなかったでしょう。けれども今や、彼らはそのわざを見て、そのうえでわたしとわたしの父を憎みました。」(ヨハネの福音書 15章24節 新改訳2017)
敵をも愛されたイエス様の悲しみが、心に迫って来る。
ケパ
光の中で
【本当の色は描けない】
今、部屋にあるこの可憐な花を見ながら、私はひと昔前、以前属していた教会で、親しくしていある執事を思い出した。
彼は熱心かつ、忠実なクリスチャンで、その信仰は子どもたちを通して実証済みだった。彼の職業は映画館などの看板製作であったが、本当は絵描きとして身を立てたかったはずだ。教会の特別伝道集会では、いつも彼の大きな看板が用いられていた。
ある時、その彼と夕暮れの中を歩いていて、彼が突然立ち止まった。彼はバラ色に染まった空を指して言った。「この色、絵に色で描けないんですよね。」
「難しいですか?」と私。
「ああ、難しいというか、不可能だ。」
「他には?」
「花の色。」
「花も? ですか?」
「ああ。本当の色は絵にできない。」
【この花の一つほどにも】
自然の美しさは神が造られたものだ。
"なぜ着る物のことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。"
マタイの福音書 6章28~29節 新改訳2017)
神様は天地万物を創造された。しかしまずはじめに神はことば「光、あれ。」発せられ、すると光があったのだ。光がなければ万物は存在しない。いや、たとえ有っても認識できない。
すべての見えるということ、また生命の根源であること、またそれが美しいということ、それが光だということ。光は光そのものが美しい。そこには虹の七色がつまっていて、絵などの反射物では到底再現できないものなのだ。そしてこの花の色。付け加えれば、新しい群れの名にも光が付いた。
【追憶】
彼はその後、突然のように神さまに召されて天に帰って行った。それ以来、バラ色の空と素敵な花を見ると、私は彼を思い出すのだ。そして命と被造物の世界の中で、私も心から神を崇め、ほめ讃え、感謝する。
「神さま、この美しい世界をありがとうございます❗」
ケパ
本当の愛って何? 「好きです、愛してます」と連呼して相手に迫ることではない。まして相手を恐怖とか権威、腕力で支配することでもない。愛とはふれあい、交わることを喜ぶこと。そして相手の心を重んじ、自分より優先し尊ぶことではないだろうか。
親は子を愛する。これは理屈抜きの感情だ。もし子を遠ざけ触れ合うことを避ける親がいたとしたら、それは名ばかりの親で、実質がないと言うほか無い。
神様と私たちの関係も同じ。父なる神は、私(たち)を子として下さる。愛して下さる。だから本質は、私(たち)とふれあい、交わりたいのである。
しかしそこに障害となるのが、聖なる父に対し、罪ある私である。それゆえ愛なる父は十字架によってその障壁を取り除いてくださったのだ。
"神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。"(ヨハネ3章16節 © 2017)
罪の問題を解決してくださったのに、その実体そのものである聖霊のバプテスマを、何と多くのクリスチャンが受けていないことだろうか。それは聖霊さまの内住があっても、聖霊を主とせず(口先では「主よ」とか言うが、実際には自分が主であり、自己中心、自分教からは抜け出ていない)、それすらも自覚できていないからだろう。
一つのカラダには、一つの主しかあり得ない。そしてそれは、人の力では可能なことではないと思う。しかし、試練、困難を通し、神は為して下さる。だから逆にそれは、愛されたしるしであり、祝福なのだ。
"神にとって不可能なことは何もありません。」"(ルカ1章37節 ©2017)
こうして十字架、復活を通しての約束のもの、【聖霊のバプテスマ】の目的は、神さまが人と交わるためである。また聖霊のバプテスマは交わりなれば相互のものであって、子もはじめて父なる神を本当に知ることになる。そして日々の祈り、聖霊によってか開かれる御言葉を通して、父を知れば知るほど、「ああ、なんてすばらしいお父様、私はあなたの子であることを喜びます❗」と、父を深く親しく愛するようになる。こうして交わりが深まれば、さらに! どんなにか、父から愛されているかがわかるようになる。「殉教? はかないこの世の命と、このお父さまとの永遠の暮らしと、どっちを選ぶか迷うことないでしょう」となるほど。
実現した父子の交わりは、父を愛し慕うので、どうしても父の最高の計画のお手伝いをしたい、そのような心が湧いてくる。父はそのような子を喜んでくださり、子の希望を通してご自分のわざを進めて行かれる。
ところで愛なる神さまは、私たちをロボットや兵隊のように、命令して従わせようとは基本的には意図しておられない。父の御性質に反することだ。それはある意味、私たちがきかん坊で駄々っ子の無分別な時に、私たちを守るために仕方なくされるのだ。そして時には叱られる(私はよく叱られた)。
しかし本来「聞き従い」とは、基本的には命令とはならず、自発的に父の計画を喜んで先取りして行おうとするもの。交わりを通しての忖度(そんたく)の類、子がする父への愛の現れだと私は思っている。
※この内容は下記のブログ【ケパのメッセージ】で「聖霊の目的」(2018年11月25日)でも詳しく述べています。
http://capha.cocolog-nifty.com/blog/
ケパ
何度も行く中、しばらくしてそれまで気づかなかった事が、ふとわかるときがある。エルサレムの土産物で「聖地巡礼マップ」を見ていて、ある時、まだ行けてない所がたくさんあることに気づくいた。
エルサレムのすぐ南に、イエスの生まれただろうベツレヘムには行けるが、最も重要な土地、ヘブロンやベェル・シェバに行けてない。北にはシェケム、サマリヤがある。(※シロだけは、この群れは毎年ではなくとも行けている)
これはそのほとんどが、PLO(ファタハと呼ばれるヨルダン川西岸自治政府)の領土内にあることに気づく。要するに観光とか、巡礼では危険なのだ。(※例外はエリコとベツレヘム)
そして現在のイスラエルの主要な部分は、かつてのペリシテ人が住んでいた地中海側の平野部分であって、残念ながら、ここにはヤッフォとカイザリヤ以外、あまり主要な巡礼スポットがない。
これはどういうことだろうか?
そう、イスラエルの住む場所がかつてと入れ替わっているのだ。旧約聖書の時代、アブラハムの子孫であるイスラエルの民は、アブラハムがそうであったように、主に羊などの牧畜を生業とする山の民であった。対するに海岸部のペリシテ人は基本、進んだ都市国家であって、鉄器を使用する先進民族であった。戦い方も戦車を駆使した進んだ集団戦法が得意であった。(古代の戦車)
これに対し首都がエルサレムという雪が降るぐらいの、最も高い山間部にあるように、イスラエル人は自分たちのフィールドである山、又は山裾でペリシテ人を迎え撃つ山岳戦が多かった。そこでは戦車や集団戦法があまり機能しないからだ。
このペリシテ人はイスラエルのカナン定着時代直前ぐらいかほぼ同時期に、ギリシャ方面から移住してきた海洋性の民族である。だから海岸部にポリス的な都市国家を築いていた。
何百年も経て、サウル王の息子ヨナタンは、山道の隘路でペリシテ人と戦って勇名をはせたのが好例である。イスラエルの初期の古戦場はだいたい山である。
ダビデの時代、王国時代になって、この宿敵ペリシテ人を圧倒。ようやくイスラエルは富強になり、このペリシテやモアブ・アンモンなどの周辺国との野戦もこなせるようになったのだ。
今のイスラエル人は海岸部や平野部に住み、山間部はアラブ人である。この逆転現象には神の計画があるのだろうと思う。
ケパ
私もそうだったのだが、この〈聖霊のバプテスマ〉ほど誤解されているものはないだろう。記憶間違いかも知れないが、クールマンが「(聖霊のバプテスマを)受けていない人とはチームを組めない」と言うことを聞いたりすると、受けていないと大変だと思うようになる。私たちの神学校でも、入学条件の一つがこれである。まるで運転免許証みたいに、必須アイテムのようにだ。
私もかなり焦っていて、西にベニー・ヒン来たれば駆けつけ、さらに遠方にアナコンディア来たる報あれば、遠距離もなんのその、とりつかれたように行ったものだ。しかしそれは、期待通りには得られなかった。高名な人に祈ってもらえれば、あるいは得られるかも知れないと勘違いしていたのかも知れない。
今も聖霊のバプテスマを受けたい人が、祈ってもらって、得ようとしている例を見る。そんな方に、以下の私の話が参考になればと思う。
マーリン・キャロザースという賛美と感謝の器が、聖霊のバプテスマについて一言、このように言っている。(著作「祈りの力」)
「弱くされることです」と。
その通り❗と私は膝を打つ。これを私流に言えば「自分に希望を失うことです」と。
ヤコブの手紙 3章11節に次のような御言葉がある。
「泉が、甘い水と苦い水を同じ穴から湧き出させるでしょうか。」
私たちが神に聞き従い、聖霊の賜物を用いるようになるためには、その栄光を決して自分の手柄にして、横取りし高慢になってはならない。それは身の破滅を待つばかりだ。
だから聖霊のバプテスマは、徹底的に己の罪を知らされ、弱くされること、自分に絶望し、かと言ってクリスチャンなので無神論者の太宰や芥川のように自殺できず、ただ神の前にひざまづき、悔い改めて行く時に、神の計画のタイミングで注がれるケースが私だった。
まさに苦い水を出し切って、もうその水は出なくなった時である。そんなタイミングは、昔、エレミヤに「あなたは何を見ているのか」と言われたのと似ている。神は神の最高の基準で、正確に注ぎの時を推し量られていると私は思う。
聖霊のバプテスマは、人の願いもあるが、何よりも神の主権と判断によろもので、それが最善なのだ。ちょうどそれは己れがもっとも弱くされ、または無きものとされた、その時が土台である。
聖霊のバプテスマを受け、その賜物を用いる時、自分の肉があったら、苦い水がまだ出ていたのなら、苦しむのは本人なのだ。さらにそのために神の栄光を盗むのなら、聖霊のバプテスマとそれに続く聖霊の賜物など、受けなかった方が、どんなによかったことだろうか。
だから、求めても未だ得られない人は、神に訳を聞きつつ(まだ、聞けていなくても祈ることはできる)、必ず最高のタイミングでいただけると信じて、安心して神にゆだねて行くことがよいのだど思う。
なお、聖霊のバプテスマは、受けたかどうかハッキリしないけれども、「受けた」と言われて、受けたという信仰に立っておられる方がいる。それは否定されるべきではないかも知れないが、しかし例えば、その証をお願いされたら困るのではないだろうか?
異言が語れる、という客観的な判定基準があるが、されは意図したものではなく、神の賜物として湧いてくるものである。また、異言が絶対に必須だとは聖書にないと思う。
聖霊のバプテスマは、少なくとも私の場合、受けたかどうかわからぬものではなく、ハッキリと自覚できるものである。ハッキリわかるよう、祈り求めて、しばらくして明確に経験した。
本人にハッキリした体験が無い場合、私たちには証人としての使命があるので、土台が揺らぐことになる。だからそのためにも神に明確に、受けるよう祈り求め続ける必要があるのではないだろうか。最初にも言ったように、それは何度でも受けられる満たしなので、それが良いと私は思う。
ケパ
今週の「クリスチャンのキーポイント」1分間動画は「異端」だった。下の青い文字でリンヌされています。
http://movie.antioch.jp/keypoint/%E7%95%B0%E7%AB%AF/
先週も触れたが、ここでもう一度整理しておきたいと思う。人間には心(霊)というものがある。古代から多くの人は肉体は死して滅んでも、霊・たましいは死なない、という霊魂不滅を信じてきた。イデオロギーと宗教の違いは、この霊魂不滅をテーマにしているかどうかである。
霊・たましいをテーマにしている宗教は、その不滅の霊の行き先(来世)が天国(極楽・浄土)と地獄の二箇所あるとほぼ同じことを言っている。この天国と地獄観が各宗教によって大きく異なるのが一つ。そしてどうやって天国へ行かの方法も、各宗教にあい伴ってそれぞれである。日本ではマイナーで除外しなければならないが、グローバルに全世界に展開しており、世界最大の宗教にして、すべての先進国はキリスト教国であることは紛れもない事実である。だからたとえキリスト教徒でないにしても、少なくとも宗教を知り、少しでも関わろうとする人には、キリスト教とはどういうものかを素養として知っておかれることが良いのではないかと思う。
グローバルで世界の先進国の・・・・と言えば、「キリスト教は誰でも分かる、すごい知的で合理的なんだろうな」と思われるだろう。確かに「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです」(マタイ伝5:3)などを聞けば、そう思われることだろう。唯一の聖典である聖書は、驚くほど多数の言語に、しかも現代語に訳されており、だれでもいつでも、平易に読むことができ、時に無償で配られてもいる。
しかし実はキリスト教の真実とは、頭や知性ではとうてい理解不可能な、極めて霊的な宗教である。つまり信じてみなければ、本当のことはわからない宗教なのである。これを聞けば「えーっ」と思われるだろうが、安心してください。棄教したら殺すという、世界第二位の宗教と違って、「違う」と思えばいつでも簡単に止められて何の問題も無いのが、正統的な(異端から見れば形骸化していると言う)キリスト教です。真の宗教というものは何よりも自由であり、束縛したり、圧迫をかけてマインドコントロールするはずがないのです。
もう少し一つだけ、異端が出やすい中心的なテーマに説明をしましょう。キリスト教は「三位一体」の神です。ここが一番はじめからなかなか信じられなくて、二千年前の当初から多くの異端が生じました。「使徒信条」というキリスト教ではスタンダードな信仰告白があります。その中に、「乙女マリヤより生まれ」「死してよみがえり、天に昇り」というくだりがあります。処女から子どもが生まれる・・・・なんて言うことがあるでしょうか。それも人ならぬ「神の子」が誕生したと言うのです。つまり母マリヤのDNAも一切ないのです。しかしクリスチャンたろうとするなら、この処女降誕を信じなければならないのです。その他、嵐を静め、湖を歩いて渡り、あらゆる病を瞬時に癒やし・・・・極めつきは二匹の魚と五つのパンで五千人(成人男性の数だけで・・・・つまりこの数倍の人が居た)に給食したということを。
だからキリスト教を常識的で人間的な判断をしようとするなら、最もつまずくところが処女から生まれるはずがないイエスが、神であると同時に完全な人であったという所です。しかしイエス・キリストが単なる人であって、神ご自身でないならば、人間の罪を赦す資格も権利もないことになる。実際聖書には三位一体という言葉だけがないものの、あらゆる箇所で「父なる神、子なる神イエス・キリストキリスト、聖霊なる神は唯一で神である」という内容、つまり三位一体を裏付けている。しかし聖書に従うより、人間的なこれまでの既成観念や常識で判断してしまい、イエスが「神ではなく、人だ」とした時、恐ろしい異端が始まります。
なぜなら、神でなければ人間の罪を赦すことはできないからです。罪を判定し、裁くのは神です。本来、人は罪多く、赦されなければ必ず地獄に行くしかない存在です。が、ここで身代わり(代わりに罪を引き受ける=贖罪)になって、人間の罪を赦そうという神の愛が明らかにされます。イエス・キリストです。断罪する立場にありながら、神ご自身が引き受けて罰されようというのが十字架なのです。宇宙と全世界を創造し、人さえも造られた神でなければ役不足です。人間であれば笑い話でしょう。
つまり三位一体の神を信じなければ、「十字架」による赦しがないので、天国に行くために、<行い>をして自分の力で得ようとするしかありません。聖書で激しく「律法」として責められているものです。夜も昼も教団組織のいう、伝道や集会参加に天国行きを賭けての果てしないレースへと駆り立てられる構図になります。そこに神ならぬ「教祖」「最高権威」「本部組織」が神代行として介在し、マインドコントロールされてしまいます。ところが三位一体を信じる正当なキリスト教の信徒は、イエス・キリストと十字架を信じた時点で天国行きは確実で、心配することは決してありません。なので教会や教団があっても、基本はただそれぞれが祈り、神のみ心に従うことです。神以外の束縛はないので、神の前に自由なのです。
<キリスト者の自由>それがポイントになります。
ケパ
子供時代、私は朝晩世話をするニワトリ20羽ぐらいとメス山羊(ヤギ)1頭を任されていた。他に耕作用の牛1頭も小屋にいた。
その思い出はいろいろあるが、聞くところによると羊というこの家畜動物、不思議である。私が触れてきたニワトリや山羊は、当たり前だが結構動物丸出しで野性味があった。基本家畜であっても動物は人間に従順ではない。逃げる専門だし、時に反抗もする。もっとも身近な犬にしろ猫にしろ、人間を離れて野犬や野良猫がいるわけで、人を離れても生きることができる。
ところが、である。羊だけは人間を離れては生きていけない。狼とかライオンに対し、逃げるための速い足、立ち向かう角や牙もない。かと言ってハリネズミとか、亀のような防御もない。ただ人間の羊飼いだけが羊の守り、盾であって頼りなのである。
だから羊には牧羊犬という人間の代理の動物にも従うほど、人間に極めて従順だ。野生種のいない羊、これほど人に依存する動物は存在しない。だから私は思うのだが、進化論者が何を言おうと、羊は神が人間のために特別に創造して下さった唯一の動物なのだ、と。
羊と暮らせば、それだけで人は生きることができる。草さえあればウールと言う贅沢な毛糸や布地を生えさせ、暖と乳、肉を提供してくれる。羊は何一つ無駄になるところがない。だから聖書の時代から古来、羊は人々の主要な財産であった。
アブラハムからヤコブ(イスラエル)、モーセ、ダビデに至るまで、聖書の主要な人物は皆、羊飼いかまたはその経験者であった。だから聖書を理解するには、羊に関しての知識が必要である。羊はまたその弱さと従順さのゆえに、神の子羊と呼ばれるイエス・キリストの別名でもある。これほど光栄に満ちた動物はいない。
羊は自分の羊飼い人を離れることは、基本、ない。それは即、死を意味する。どの羊も自分の牧者の声を聞き分ける。そして良い羊飼いは、自分の羊のためには命をかけて護る。
私たちは羊のように、神に従って生き、命を得るはずなのに、聞き従わない山羊になってしまって、愚かにも危険な急峻の崖で生きようとしている。自我という野生の山を降り、神の羊になりたい。
もっと羊がほしいケパ
友人にリンゴのついでにクルミを贈ると、クルミを割るのに役立つクルミ割りリスの写真をブログに載せてあった。この友の庭に来る本物のエゾリスにクルミをあげたところ、地中に埋めたまでは良いが、忘れてしまって春になると芽を出してビックリしたとのこと。前から話には聞いていたが、「なーるほど」と思ってしまった。(写真 エゾリスー日本の在来種では最大のもの)
何が「なーるほど」なのか? リスでなく、クルミの木の知恵に対してである。元来植物というもの、脳無し、足無し、おまけに体は緑色で紅葉以外に色気無し、そのように気の毒な生き物だと思っていた(これは独断と偏見に基づく)。そこが逆に我々動物にとって安らぐとか、落ち着くとかの好きなのかな?と。
確かに庭の雑草取りをするとして、抜かれる草ぐさが「ヤメテ!」とか、「痛いわ、私を抜いて殺さないで」と、いちいち悲鳴をあげられたとしたら、それは、困る。
いやこれは妄想であって、この本題ではない。本題は脳が無いはずのクルミの木の賢さである。クルミの実は実に硬い。冬のタイヤのスパイク代わりに、一時クルミの殻が使われたほどである。
このクルミの実は人間が食べても極旨なので、まして他の動物が食べたいのは山々なはず。ところがこのクルミの実を御相伴にあずかれる(食べられる)動物は、ごくわずかしかいない。殻の硬さゆえである。つまりクルミはあらかじめ、動物を選んで食料を供給しているのだ。その御指定動物とは一にも二にも本命の🐿リス。次に赤ネズミ、キツツキ、オオアカゲラ、番外でカラス・・・らしい。
なぜクルミの実は、基本リス様御用達なのかと言えば、リスは食べきれないクルミの実を冬に備えて、土に埋めて貯蔵する習性がある。そして友人宅のように、7パーセント前後ほどの割合で、埋めた所を結構忘れる。クルミの木は自分で労せず、リスによって時には百メートルぐらいの離れた地への植栽があちこちで完了する(凄い)わけである。脳が無いはずのクルミの、何という知恵だろうか。おそれ入る。
ちなみにドルカスは、クルミの生産量日本一、32パーセントを誇る長野県東御市に長年住んでいた。(信州浅間山麓のクルミの木)
クルミの木におそれ入る、と言ったが、これは進化の過程でクルミが手に入れた知恵(笑い)ではない。神が植物と動物との見事な調和をあらかじめ織り込んで創造されたのだ。その神の為さる創造の凄さに、改めて感動し、畏(おそ)れいるのだ。
と同時に人間の拙さ、限界を思う。人間は神によって造られた被造物に過ぎないので、天地万物を創造された神を全部知ることが出来ない。当たり前である。
よく、「神がどんな神なのか、よく分かってから信じよう」と言う方がいるが、その方は決して神を悟ることはできないだろうと思う。人間を神より上に置いて、不遜な思い上がりをしているのだ。そうではなく、十字架の死に至るまで私たちを愛してくださったイエス・キリスト、この方、この神を信じよう。
事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。(第1コリント1:21)
ケパ