ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

新たなる経験

2022年01月26日 | 信仰
姪の嫁ぎ先でお婆さまが亡くなられ、クリスチャンの姪が、仏教式葬儀の体験をした。その体験は貴重だっだと思う。何が貴重なのか?は、
姪がクリスチャンである事の痛いほどの葛藤を経験という事。
長男との結婚(よく言う後継ぎ)と言うと今の時代?に何が?と思われそうですが、実際今も葛藤は有るはず。
ましてやクリスチャンの姪が、人やまた地方にある確執やらにクリスチャンにおける葛藤のある生活
(あくまで、私の経験を書書いていますが)

クリスチャンとして生きる時、まず第一に天の父を選びたいのは当然でした、しかし
主イエスキリストを知らぬ人との間に葛藤が生まれる。特に田舎においては、親しい友からも肌を指すほどに感じた。

その信仰を共に歩む家族がいたなら、なんて❣️幸いな事でしょう。

26年間共に過ごした夫を亡くし(幸いな事に病床のベットで洗礼を恵みで頂けました)
一人になった私には、姉が心のうちにいつも寄り添い、励まし信仰を引き上げてくれていた。更に教会の恵みが守りがあった。
その祈りで日々を過せた。

姪は今回、夫と幼い娘と共に祖母の家族葬を体験しましたが、常に夫の配慮によりその心も身も守られたようだ。

この経験で主が示して下さった使命を受け取って歩むでしょう。

まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。
ヨハネの福音書 12章24節 新改訳2017

今私は姪のこの体験が、さらに信仰の灯火で光を放ち続けますようにと祈ります。

(ケパさんが、もっとわかるように書きなさいと指摘あり書き直してます)
ドルカス   

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ハイビスカス

2021年12月25日 | 信仰
(八重咲きの濃赤なハイビスカス)
早天の祈りで、外から居間へ移動したハイビスカス🌺が温度差に対応しつつと感謝を祈ると、どんな色ですか?と質問。

教会の庭では数種類のハイビスカスが美しく咲き続けて私たちの目を心を潤してくれました。しかし


ハイビスカスは常夏の地を好む植物。
いくら寒さに慣れてねと思っても
今年の12月の急激な寒さは、耐えられないのではと、例年とは違う選択。

ハイビスカスと四年目のブーゲンビリアの引越し。室内へ移動先は、この場所しか無いでしょ。
唯一の出窓、長年ここは乾燥に強い洋ランの定住地。

一日目、葉が落ちるのではないか
しおれた葉はないかとチェック
2日程の、様子見して、思い切り枝を切り詰めた。
切花は一番愛でる事になる洗面鏡前


切花はここで飾りましょう。

この時期赤い花と言ったら、
シクラメン、ポインセチアの赤ですが
季節外れのこの花も愛でるこの幸せを、感謝します。

カレンダーでは今日はクリスマス。昨夜のイブから街の中は洋菓子店には人が並び、イルミネーションに群がる人々、テレビでも話題が番組がetc。
今日は🎅のプレゼントの日と言う人もいるようですが〜可愛い子供達💕の為に〜でもある?かしら。

としても今日は、
聖書には期日は書かれてないけれど、
イエス様が誕生された事実を喜びます。今ある私は、天のお父様がして下さった事を知り、導いて下さったからです。
たとえ日時が聖書に無くとも、
私は一日中この誕生を喜び感謝し祈ります。

御使いは入って来ると、マリアに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」
ルカの福音書 1章28節 新改訳2017


ドルカス   




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金木犀見つけた

2021年10月05日 | 信仰
昨日は、去年まで見られたあの並木で、金木犀の香りを知ることがあるだろうかとちょいとつぶやき、いやいや感謝しますと、祈っていた私でしたが、

何と今日仕事が終えて帰る時、職場の隣家との生垣にキンモクセイ 見つけた

感激〜 マスクを外して顔を近づけて香りを満喫した。香りの嗅ぎすぎは難あり〜で、要注意です。

午後1時頃のお天気は☀️日差しが強くて、撮影向きではないですね。白茶けそう〜と思い、日差しのない奥の枝を選んで撮る。

何と灯台もと暗しです〜
今日は帰り道住宅地ウロウロ見つけながら帰ろうかなどと思っていたのですよ。

🚲を建物側から離し目先を変えたら見つけました〜幸せ❣️
このタイミングが嬉しい。イエスさま、天のお父さま〜感謝します。
そう。諦めず祈る。
かならずなにか教えてくださる。


昨日は田舎の妹から、長野産のシャインマスカットが届いた。
先日、長年同居していた義母を看取り送った。このコロナ禍ではあったけれど、病院の計らいで、最後の時まで三晩夫婦で義母に付き添うことが出来たと。

信仰を持つ妹が

私は大丈夫、キリストさんにお祈りしているからといってもらえたことが、嬉しかった。

そのようにLINEを流してくれた。妹の信仰は義母にわかっていたのですね。そのような祈りをしていたと。
とても安らかなお顔だったと。

労いをほんの少し気持ちを贈ったら、そのお礼だと私たちに🍇を送ってくれた。

夫婦2人で美味しいものでも食べて、疲れを癒してと言ったのに、
お姉ちゃん。
こちらでは心配なく買えるからね。と和やかに答えて、逆に労わられる。
私達兄妹では最後の義母でした。


(兄が、秋色を送ってくれた)
平穏で穏やかな信州の山々の紅葉🍁里のもみじを見たいわね〜
そろそろ田舎へ行きたいですよ、

緊急事態宣言解除。このままコロナ禍の終結がありますようにと祈りつつ。


ドルカス   



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力を合わせて

2021年07月29日 | 信仰
昨日は、教会員全員でお手伝い。
第一陣は朝6時過ぎから作業開始。
暑い日でしたが、涼しい風が気持ち良い日でした。家の中の片付けです。



それぞれ出来ることに汗を流しました。それぞれに祈りがありますが、
私は心の内で声を出し、祈ると自然と手も動きます。身体を動かせます。力が出て、喜んで作業しました。



女子組の見送りの中を、男組は❗️
トラック🚚にたくさんのゴミを詰め、焼却場やら2箇所の処理場へ運び込む。


牧師のトラックドライバーもなかなか様になってました。

2回目の運搬は、焼却炉終業ギリギリセーフでしたが、全て終えてから、隣接する♨️に行き一日の汚れと汗とスッキリと流し、
(撮り忘れましたかき氷 の二文字についつい目を奪われ、やれイチゴ🍧だのブルーハワイ🍧だのと、美味しく頂きました〜それが至福の時〜

一日の作業を感謝します。それぞれの帰路でしたが、爽やかな心は皆同じである事を主に語られました。
感謝します。   ドルカス   
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命に勝る愛

2020年10月09日 | 信仰
 今週の水曜礼拝でのメッセージで、私の二十代前半、ようやく決心できた独身時代に、いつも自分に問うていた御言葉を紹介した。それが今も生々しい感慨が襲ってくるので、このブログでも紹介したい。

しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも、天におられるわたしの父の前で、その人を知らないと言います。マタイの福音書 10章33節

 これは今はともかく、やがて来る迫害の時代に、例えばかつてのような〈踏絵〉にしろ、天皇陛下の〈御真影〉にせよ、信仰を問われて否むなら、はっきりアウトになると言うことだ。

 だから私はいつも「お前は信仰のために、本当に命を捨てられる(つまり殉教できる)のか?」と自分に問うていた。信仰を途中で捨てるぐらいなら、はじめからそれは持たない方が良い、そう思っていた。
 だから学生運動に挫折し、自分の愚かさを悔い、神様に降参するまでは、この御言葉に向かい合うことができずにいた。
 こうして始まった福音派時代の私は、その後も解決が見出されず、どうしょうもないまま、最後は決まって祈りに導かれ、神に委ねる形で幕引きしていた。喉に刺さった小骨のように、消化不良は免れていなかった・・・。


 イエス様に従っていた弟子たち皆が、特別に強烈に覚えていただろう特別な言葉がある。マタイ・マルコ・ルカのすべてにあり、イエス様に従っていた弟子たち皆が強烈に覚えていただろう特別な言葉だ。

だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音のためにいのちを失う者は、それを救うのです。」(マルコの福音書 8章34~35節 ©2017)

 この御言葉は、最初の若かりし私の自問と同じ類のもので、自分の十字架、肉のクリスチャンからいかに脱却するか、つまりはこの「自分に死ぬ」ことが自分にできるのか?と問うことなのだが、実はこれほど愚かな悩みはなかった。
 確かに一見、純粋であり、真摯では、あったかもしれないが、あまりに人間的な捉えようであったのだ。
 五十歳過ぎて家族が崩壊し、生きる希望を失った私に、哀れんでくださった神が触れてくださった。その瞬間から私は聖霊派、カリスマ派に俄然なった。神を知った私は新生という言葉そのもののように、人生観、人格、生きる目的などすべてが一変した。
 そこまでの〈殉教できるのか〉〈自分に死ぬ〉そんな問いかけは三位一体の神にして、イエス様が十字架に架かってまで私たちに贈ろうとされた聖霊の力を、まるで知らなかったことに尽きる悩みだということ。しかしほとんどのクリスチャンが今でもそうなのではないのだろうか、そう心配する。

 聖霊の注ぎと満たし、そのバプテスマを神のあわれみによって受けたなら、
神にとって不可能なことは何もありません。」ルカの福音書 1章37節
が体感的に確信が持てる。だいたい救われること自体が自分の力ではなかった。継父とは言え、己が父の子なので、今さら父という事実を否できるはずがない。何よりもその愛に報いたいのだ。命に勝る神の愛なのだ。

      ケパ
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ソーシャルディスタンス

2020年09月17日 | 信仰
一般住宅の居間だから会議室のように広くはない。その中で、

連鎖祈祷会も、ひとりひとりの間を、ギリギリ保ち祈る。



水曜は「感謝と賛美の連鎖祈祷会」が礼拝前にある。

コロナ対策のうちにある、教会の恵みあの時間です。

昨日水曜日の一コマでした。

ドルカス   


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神を信じた瞬間

2020年08月26日 | 信仰
 中三から高校にかけての時代、私は近所の年寄りばかりの小さな伝道所に、毎週、熱心に通っていた。今から思えば、高齢者ばかり三、四人の消えゆくような集会の中に、求道者の高校生がポツンと混じって、少々異様な光景だったかなと思う。(聖書に飢えていた高校時代の反動からか、今では皮革聖書の収集が多い)


 そんなことに臆することがなかったのは、とにかく聖書に関心があったからだ。ネット時代になるまで、片田舎では聖書を手に入れることが難しかった。けれども聖書の神が真の神であることと、私の人生はこの神が大きな影響を及ぼし、深く関わって行くことだけはわかっていた。

 高校の卒業時期になり、受洗を勧められた私は、決心が出来なかった。安芸門徒の牙城の土地で、依るべき教会一つ無い中、「耶蘇(やそ)になったら大学に行かさない」と言う父に抵抗ができなかった。


 二十歳の春、学生運動に挫折した私は、小田急線のガード下で凍える夜を迎えていた。自分のアパートに帰りたくても、そこに裏切り者への追手が待ち受けている恐れがあったからだ。
 三月の夜、何時間もただ通り過ぎる電車の音の中、ふと見上げると雪が降り出し、その先に明るい星々があった。最初に見上げた星空から、その頃にはずいぶん移動していることがわかった。天体は(人の思惑など一切関わりなく)秩序を保って正確に運行している。
 そう分かると、人間的な私の問題などがとても小さく、どうでもいいことのように思えた。すべては神の創造された規則正しい秩序の中にあるのだ、と。人間の体のミクロの世界から、宇宙の超マクロな世界まで、世界は秩序があり原理がある。想像もつかないが、それは神お一人が造られたが故の秩序だ。

 挫折し、恐れふるえていた私は、この時はっきりと神を感じ、創造主が世界を造られたこと、私もその一つであることを信じた。直後促されたように、近くのバプテスト教会の門をくぐったが、その扉には背中から押して入った。神への抵抗をあきらめ、降伏者としての私の姿だった。もう学費が止められようと、どうでもよかった。

"神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません"
ローマ人への手紙 1章20節(2017)
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生きるには支えが

2019年11月18日 | 信仰
ひと昔前になるが、五十代に入ってすぐの頃、夫婦と娘たち四人でマイホームを建てて暮らしていた私は、ある日、家族を失った。長女の進学を機に、妻が遠くの都会に出て行ってしまったのだ。長女のためというより「(癒しの教会に行くことで)癒されるため」というのが表向きの理由だった。その時の妻、つまり前妻は、重い精神の病にかかっていた。

【介護の日々】
家を賃貸してその家賃収入を妻たちの家賃払いに充てるため、私も自宅を出ざるをえなかった。それでちょうどその頃深刻化してきた母のアルツハイマーの介護に、実家に戻ることになった。その時私は、家族から捨てられたような気分になったものだ。



しかしアルツハイマーの母と住んだ二年間は、その淋しさを感じる間もないほど忙しかった。老人を食い物にする悪徳業者との戦いに明け暮れたかと思うと、その次には近所の方々からの、母への苦情にひたすら詫びて回った。実際母は、自由に出入りしていた隣家との境に、通行できない高いブロック塀を築くなど、かつてからは考えられないことをしていた。母は私の諌めに逆上して興奮する毎日だった。

その母も一年近く経つと、その時期が過ぎて、私の子どものように頼るようになり、かえってそのことの方が私には悲しかった。
とにもかくにも、夕食が遅いと茶碗をチンチン叩かれながらも、母が居たから私は正常だった。しかし二年もすると、あれほど相当待たされる、と聞いていた老人施設に急に入れることになった。そして私の一人住まい、ほんとうの孤独が始まった。もう誰からも私は必要とされていなかった

【孤独】
一人で食事は作る気にならず、心は淋しさとむなしさでいっぱいになった。特に御体なる行ける教会失っていたことが大きかった。なぜならそれまで、今で言うネット会員のような、当時属そうとしていた聖霊派の教会には、家族を奪われた思いとその間の軋轢で、もはや関わりが失われていた。御体なる教会を失う、これは信仰的にも最悪で、非常に危険な状態であることを私は身をもって知ることになった。

【私は、おかしくなった】
私は夜な夜なうさを晴らすために、自宅でカラオケをするようになった。演歌
(艶歌)というのは、かなりの曲がサタン的なのはご存知の通り。神への賛美が礼拝者として引き上げられるのと、ちょうど反対のことを私はしていたわけだ。だんだん私は破壊願望を持つようになった。私は歓楽街に行って、全財産をばら撒こうと思ったりしたが、よく事件で「誰でもよいから殺そうと思った」とかは、まさにこのサタンに支配された状態のことで、私もそのことがよくわかる状態だった。


【神のあわれみ】
もしあの時、神が私にその状態を気づかせ、悔い改めさせ、触れてくださらなかったら、ほんとうに「♪私はどうなっていたのでしょう♪」である。神にあわれまれた恵みを心から感じる。

私たちは何によって生きているのだろうか? 夫が、また妻がいる人は、けんかしようと何があろうと、その伴侶という生き甲斐がある。子やそのほか家族がいる人は、それが生き甲斐かも知れない。あるいは仕事やそれに類することもあるかも知れない。しかし言えることは、それらは決して永続的なものではないことだ。

自分が生き残っていて、そして体はだんだんに衰え朽ちていく。精一杯生きた証を残したいかも知れないが、所詮それは虚しいことだ。永遠なるものに目を留めよう。見えるもの、形あるものは必ず崩れ、失われるのが必定。むしろ見えないものに、永遠なるものがそこにある。

偶像ではなく、存在からして人間には全容が理解不可能だが、三位一体の真の神がいる。神が私たち一人一人のために十字架にかかって死んで、信じる者の全ての罪を赦してくださった歴史的にも確かにされた愛の神がいる。この神は永遠なのだ。決して失われることはない、永遠の世界までも。

もし霊を信じ、死後行く世界がこの世と変わらないなら、そこは地獄だ。しかし罪の無い世界に行くとすれば、確かに天国ではないか。人間の力で罪を無くすことができないから十字架の愛がある。もしイエス・キリストが神でなかったならば、私たちくりすちかは何と惨めなものであろうか。しかし神を信じる者に、イエスは確かに三位一体の神であることがわかる。こらは理屈ではないから、信仰と言う。どんなに世で一人者とされ孤独にされようと、この神の愛によって生きる者に本当の孤独は無い。天への喜びで日々新たにされ、喜びに満たされる。これは嘘では無い。
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本当に世の中、不平等?

2019年09月25日 | 信仰
私は現在、民間の某「放課後児童等デイサービス」施設(注 際下段に説明あり)にパートで勤めている。

私は二年間、障害児(現 特別支援)学級担任の経験がありながら、たくさんの障害児とふれあう機会がなかったので、今さらながらだが、一人として同じ障害がいないという障害の多様性に学ぶことが多い。

障害の多様性に目を見張り、その対応に取り組みながら、ふと「どうして神様、本人のせいではない(ある意味、不平等なとも思える)差を、この愛する子どもたちにお与えになったのでしょうか」と問うている自分が居た。

考えてみれば、何もこの子どもたちだけが不平等なのではない。障害だけではない、全てが不平等なのだ。豊かな家と貧しい家。I.Qの高い人と、低い人。背の高い人、低い人。顔の美醜。なぜか努力できる人とできない人。事故や犯罪に遭う人、病で早逝したり、天災で多くのものを失うこと・・・・と、キリがない。世の中、ほとんど不平等なのだ。

神は不平等を許されている。共産主義者たちは、この不平等に対してヒューマニスティックな平等の理想を掲げ、革命を起こした。しかし神ならぬ人間が作ったものは、国民を大虐殺し、閉じ込め洗脳する恐怖としか言いようのないサタン的な国だった。罪を自覚せず、神を否定し良かれと人間の考えで作るものには、恐ろしい罠が待ち構えている。

してみると、人の目にみえるのは確かに不平等かも知れないが、実はそれをはるかに超えた価値、真理がそこにあるからなのだ。例えば物が豊かであれば、イコール、幸福であるとは言えない。むしろ反対である。カンボジアの孤児院に一か月滞在して私が感じたのは、日本の子どもたちよりもはるかに幸せそうで、笑顔が素敵なことだ。

そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」(ヨハネ9:39)

この世で富んで豊かな者、一見祝福されている人には、世に執着し、永遠の天への希望、真理がかえって見えにくくなっている。財産があるために、骨肉の兄弟が相争うようのと同じだ。

神が許されている不平等は、こう言っている。
心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。」(マタイ5:3)
  それならば障害のある子どもたちは、神の裁きから免れ、最初から祝福されている。素晴らしい。すべての不平等感が打ち破られていくではないか。


イエスは幼子たちを呼び寄せて、こう言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。邪魔してはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです。(ルカ 18:16節)

ーーーーーーーーーーー
注)放課後児童等デイサービスとは?
法に基づいて、学校の放課後から夕6時過ぎまで、障害を持つ児童を預かる施設のこと。7年前から始まった。障害のある学齢期児童が学校の授業終了後や学校休業日に通う、療育機能・居場所機能を備えた福祉サービス。およそ十人までの小規模施設となる。


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聖霊のバプテスマ

2019年09月16日 | 信仰
  聖霊のバプテスマについて、今回、メッセージに向けてさらに示されるよう祈ったりした。すると霧が少し晴れるような、そんな気づきや思いがいくつかあった。(風に揺れる木)


  バプテスマには明瞭に二つある。水のバプテスマと聖霊のバプテスマである。初代教会では、ペンテコステ以降、聖霊のバプテスマを受けていることが当然視されていた。見落としてはいけないことに、彼らはユダヤ人で全員、すでに神を信じていた者であったこと。特に弟子たちはイエスが神であることを告白し信じていたことである。つまりクリスチャンになっていた。聖霊のバプテスマと水のバプテスマを同一視される方は、この点を見逃している。(ヨルダン川のヤルデ・ニットの洗礼所で)
  そして今は使徒時代に危惧されていたように、水のバプテスマだけがほとんどで、聖霊のバプテスマは使徒時代の特別なこととされ、ほとんど顧みられなくなっている。そんなことは聖書にも載っておらず、これは信仰上の大問題である。


  さらに異邦人が信じた時、エルサレム教会や使徒は、単に水のバプテスマだけであることを明らかに危惧し、使徒を送っていた。または、会えば相手が聖霊のバプテスマを受けているかいないかは、ほぼ瞬時にわかったのだった。(※使徒8:5-17,18:24-19:6)

  聖霊のバプテスマは、どんな人にとっても人生最大の出来事である。完全に価値観が180度変わるのであるから。また変わっていなければ、それは聖霊のバプテスマとは言えない。世に属するものから神に属するものへ。疑い深い者から、確信を抱く者へ。それらは愛と光に包まれ、魂が揺さぶられる感動と、まさに神は生きておられたという喜びの歓喜の中で注がれ満たされた個人的な体験なのである。

  聖霊のバプテスマを受けた人には、異言や預言、癒やしなどの聖霊の賜物がしるしとして現れるが、それらは本人を通しての神の霊の現れであって、事の本質ではない。

  注意すべき事だが、もし、聖霊のバプテスマを求めている人の中に、心の内底に聖霊の賜物が欲しくて願っている気持ちが少しでも混じっているとすれば、あくまで個人的な見方であるが、それはどんなに願ったとしても、そのままでは与えられないと思う。なぜなら信じてピリポに従っていたサマリヤの魔術師シモンと、それは大して変わらないからだ。

  聖霊のバプテスマはあくまで神の主権で注がれるもので、権威ある指導者や高名な牧師に祈ってもらったからといって、それは必ず受けられるものではない。神からのものを「あなたは受けています」と人に過ぎない存在が断言できるはずもない。受けたかどうかは、これほど大きなことが本人にハッキリわからないということは決してない。
  ではどうしたら受けられ、注がれるのか? そんなことが人間の私に答えられるはずがない。ただ、その証によって知るのみだ。ある方は信仰書を読んでいて、ある方は自分の罪に打ちひしがれ、生きる希望を失ったその時に、とさまざまだ。
  共通しているのは、自分というものを知り、自分に死にかけていたことだろうか。神がその人の中で、真に主に譲り渡された、その時と言うべきだろうか。しかしそれは己の力でできることではないから、まさに神の時になのだろう。


  聖霊のバプテスマは私はエデンの回復だと思わされている。神様との日々の交わりがその本質で中身である。それ以降、聖書を開けばわかるが、御言葉が聖霊様としか思えない解き明かしに驚く。また神の愛が骨身にしみ、この方の愛に何としてでも応えようとする自分がいて、その自分に対し世のブレーキはもはや効きめ目がなくなっている。私が子であって天の父、子とされるための十字架のあがない、いつも私の中におられる助け主、めくるめく愛の日々である。

  親しく交わるので、当然ながら御心が少しは感じられるようになる。預言や癒やしは、基本、自分の意思で行うものではなく、神の御心である。それが成就するのは当然であって、単に自分の口や手は神から来たものを言葉にしたりするホースという管に過ぎない。バプテスマのヨハネが言った通り、神から来るのでなければ、何も私たちは出来ないのである。
"ヨハネは答えた。「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることができません。"   (ヨハネの福音書 3章27節 新改訳©2017)
  聖霊のバプテスマを受けて、人は真の献身者となる。はっきりしないという意味で、得体の知れない相手に自分を献げることは、かなり困難なことだからだ。献身の動機は神への愛である。愛は交わりの中でさらに強くされ、揺るぎないものとなっていく。聖霊のバプテスマとは、何という祝福であろうか!これは永遠の祝福である。




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