今日は「老い」の仕上げ。
老いることなんて、だれも考えたくないことだ。まず自分の外見に失望する
。一番それを自覚させられるのは鏡で自分を見るよりも、ビデオとか写真とかである。「ええっ、これってだあーれ?」と、改めて見たりして、自分だと思いたくないが、しかし今の自分だとわかる。そして複雑な境地となる。
私の敬愛してやまないある牧師が説教中、しばしば「自分は25歳」だと称されておられる(が、実はその2倍半は固い?)。そして今の自分の姿には「違和感がある」と仰られる。聞いている皆は、いったい笑っていいのか、それとも実感ぽいので笑ってはいけないのか、ずいぶん困らされている。ところがこの私も、「まったくその通り」と切実に同感するのだ。笑っていいとも、も大いに結構だが、実は偽らざる実感なのだ。
確かに体は成長したり、容赦なく老いたりするが、心の方はある時点から成長が止まってしまうのだろうか?経験を積み、その知識が増すことで確かに見通し能力は増すが、それは成長とは異なるのだろうか?若い人と話してみると、経験の浅さ故の判断に甘さは感じても、柔軟な思考力はむしろ優っている。してみると「老い」には昔から、「悟り」とか「知恵」がポイントになるの。ところがそれが、「(体の)命あるまで」で思考停止してしまうのが不思議である。これを真剣に探求せず、ろくに知りも分かりもしないで旅立つのではあまりにも心もとないのではないか?
私のこれまでのとぼしい記憶では、(学生運動などの)ヒューマニズムに希望はなかった。教育の世界にたずさわって来たが、今日より明日がよりよい時代になるなどという希望もない。むしろ人間性はなべて自己中心化し、幼くなってきている。それには「人は肉体の命がある間がすべてだから、貪欲に生をむさぼる」という、哀しいことに肉の命だけに閉じ込められた精神からだと感じる。人の真の希望は、たましい(霊)が肉体から解放された世界にあること、その永遠に気づくことにあるのだが。その世界は真の神、聖書だけが答えることのできる世界なのだが・・・・。 (ケパ)