孫文さんの“多摩たまの隠れ部屋”ブログ編

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重要航空遺産 一式双発高等練習機

2021年11月28日 12時22分22秒 | 日本雑感 (日本の話題何でも)

重要航空遺産  一式双発高等練習機

この写真は、会場のパネル展示の写真を撮影したものです。

1943年9月27日、能代飛行場を離陸し少年航空兵が操縦した一式双発高等練習機がエンジントラブルで青森県十和田湖に不時着水没した。2012年に引き揚げられ、青森県三沢航空科学館に展示されていた一式双発高等練習機が立川に里帰りした。2021 年11月24日から28日まで立飛ホールディングスで一般公開されましたので見学してきました。この機体は、重要航空遺産として認定されています。初日に見学だったので係員が熱心に説明していて約1時間貴重な話を聞くことができました。

冷たい十和田湖の湖底に長く眠っていた機体の塗装は当時のまま、当時の日の丸がこの色です。

リベット打ちの正確さ、高ジェラルミンで作られ軽量化された機体、1時間ほど穴のあくほど(すでに穴あいていましたが)機体を眺めてきました。

 

一式双発高等練習機のスペックは下記 (Wikipedia)

試作名称:キ54    全長: 11.94m     全幅: 17.9 m

全高: 3.58 m       主翼面積: 40m2  自重: 3,120 kg

全備重量: 4,080 kg 

エンジン: 日立ハ13甲 空冷9気筒エンジン515HP×2

最大速度: 367km/h  航続距離: 960km   実用上昇限度: 7180 m

総生産機数は1,342機

 

現存する機体は、日本国内にはこれしかなく、胴体の一部が北京の航空航天博物館、オーストラリアにあると説明を聞きました。北京の航空航天博物館は見学したことあるけど、この飛行機には気がつかなかったなぁ。。。

北京の航空航天博物館に胴体の一部があるという事は、第2次世界大戦以降には中国の人民解放軍が使用していたという事でしょうか。戦後の中国人民解放軍は、九九式高等練習機や一式戦闘機(隼)が創立時の所有機だったので、輸送にも使えて使いやすい機体の一式双発高等練習機が使われていてもおかしくないはず。これらの機体、いずれも当時、日本で4番目に大きな航空機製造会社だった立川飛行機(当時の従業員約43000名)製造の可能性がある。なんて因縁を感じながら、下記に記述の一式戦闘機“隼”のエンジンをながめました。

展示会場に入ると、まず引き上げ時の様子を写したビデオを視聴します。

周囲をよく見ると、なんと展示会場は、昭和12年に建てられた倉庫の中です。 当時の飛行機を展示するために、当時の建物を使うという立川ホールディングスの配慮に感激です。まるで、古い学校の講堂にいるような雰囲気で、倉庫の木造の梁に時代を感じます。

さて、一式双発高等練習機の展示の前に、一式戦闘機“隼”のエンジン(ハ25型)が展示されていました。 隼のエンジンはゼロ戦のエンジンと同じで、陸軍と海軍の呼称の違いですが、隼用のエンジンを見たのは初めてです。 話はそれますが、Wikipediaで調べたら、一式戦闘機“隼”は中島飛行機設計ですが、実際は外注委託され、ここ立川飛行機で2型の後期と3型を生産していました。そして海軍のゼロ戦も、三菱よりも中島飛行機の方が生産機数は多いというのがWikipediaを読んだ驚きです。

展示会場には、引き上げられた一式双発高等練習機の機体や多くの部品類が展示されています。最初に引き上げられた部品が、ピトー管との事でした。

ピトー管

操縦席のパネル

 

信号灯は、新品で今でも光りそうな感じがして、とても戦争中に作られたものとは思えません。

操縦席

現代のフライバイワイヤー方式ではないので、操縦桿って重かったろうなぁ…

引き上げられた一式双発高等練習機の機体です。 長く水没していたことによる損傷はありますが、不時着時の影響と思える機体の損傷は殆どありません。 プロペラが曲がっていて、不時着のすごさを感じますが、少年飛行兵の操縦が非常に適切であったことを物語っています。

機体はリベットが正確に打たれていて、作業のミスを感じません。

また、外壁は1㎜以下(0.5~0.7mm)のペラペラですが、これが(材料は高ジェラルミン)軽量化に貢献しています。

機体の中を覗くと、第一印象は狭い!!

操縦席は2人座ると動けないくらいの狭さではなかったでしょうか、また胴体部も決して広く高くはないので、機内での移動は大変だったのではと感じます。当時の引き上げられた当時のままの姿なので、内装が無いことで暖房の配管を見ることができました。

 

両側に1名づつ座れますが、中央の歩く隙間ってあまりないのでは? 結構狭さを感じました。 そして、分かりにくいですが、機体下部の床部分に暖房の配管があります。上昇すれば気温は下がるので、暖房は必要だったのでしょう。

 

本体と主翼の結合部です。

ピンのようなものを通して固定したようでビックリです。

強度的にもこんな接合だけで持つのがビックリですが、こんな簡単な方法で結合できたら製造も楽で、この飛行機自身の分解や輸送作業も楽だったと思えます。

この拡大部が下の写真

下記は胴体側の写真です。

この拡大部が下記の写真

この2つの間にピンを通すことで、胴体と主翼を固定していた。

 

一式双発高等練習機のエンジンです。

通称 天風(あまかぜ)エンジン、東京瓦斯電気工業の製造です。このエンジンは、東京瓦斯電気工業の後継企業にあたる日野自動車によってオーバーホールされたので、まるで新品のような黒々とした輝きがありました。そこに着水で曲がってしまったプロペラがありましたが、今でも動くのではと思えるほど迫力ありました。。

なお、プロペラは可変ピッチを採用と説明がありました。 非力なエンジンを最大限活用するために効率的なプロペラの回転制御。と当時の日本の技術力に驚きです。

 

垂直尾翼に描かれた飛行第38戦隊のマークや主翼に記載の「乗るな(ノルナ)」の記載

日の丸や当時の部隊マーク、主翼の黄色の帯(この黄色の帯が日本の飛行機であることを示しています)がはっきり認識できます。

主翼の後部に、「ノルナ」と記載がありました。

これらは、当時の引き上げ時のままです。なお、垂直尾翼後ろ側の方向舵の部分に何もないのは、この部分は金属ではなく布を使用していたためです。少しでも軽くするために、布を使用していました。