笠置寺
木津川
文珠石
太鼓石
二の丸跡
デジタル復元
線刻弥勒像
十一面観音
千手窟
庚申堂
胎内くぐり
ゆるぎ石
舎利殿
うかりける 身を秋風にさそわれて 思わぬ山の紅葉をぞ見る
正月堂懸造
宝篋印塔と大砲の弾
笠置寺
木津川
文珠石
太鼓石
二の丸跡
デジタル復元
線刻弥勒像
十一面観音
千手窟
庚申堂
胎内くぐり
ゆるぎ石
舎利殿
うかりける 身を秋風にさそわれて 思わぬ山の紅葉をぞ見る
正月堂懸造
宝篋印塔と大砲の弾
笠置寺 京都府相楽郡笠置町笠置山29
本尊は弥勒仏。開基は大友皇子または天武天皇と伝える。歴史的に東大寺や興福寺などと関係が深く、貞慶などの著名な僧が当寺に住したことで知られ、日本仏教史上重要な寺院である。また、境内は鎌倉時代末期、元弘の乱の舞台となったことで知られる Wikipedia
弥勒佛
山門
登り口
本坊
曼陀羅図
TVより
大師堂 内陣
正月堂
扁額
正月堂 内陣
正月堂縣造
参考 TV 京都浪漫
法観寺 八坂の塔 京都市東山区清水八坂上町388 土、日、祭日⇒拝観 400円
清水寺の近隣に位置する 街中にそびえ立つ五重塔は通称「八坂の塔」と呼ばれ、周辺のランドマークとなっている。一番高いのが東寺の五重塔、二番目が奈良の興福寺の五重塔、そして三番目に法観寺の五重塔伝承によれば五重塔は592年に聖徳太子が如意輪観音の夢告により建てたとされ、その際仏舎利を三粒を収めて法観寺と号したという
心柱
明治初頭 日本の塔婆
都名所図会 日本の塔婆
相輪
太子堂 1663年
薬師堂
五重塔内部
軒瓦
五重塔内部 仏像 撮影 可
障壁画
五智如来
阿閦如来
宝生如来
薬師如来
木曽義仲塚
地蔵群
観音正寺 近江八幡市安土町石寺2番地 西国三十三所 第三十二番札所
当山は1400年前、聖徳太子が繖山の山上にて千手観音を彫み、寺を開かれました。爾来この「お山」は仏教、そして観世音菩薩の聖地として現在まで法灯が受け継がれてまいりました Home
標高433メートルの繖山の山頂近くに位置する。伝承によれば、推古天皇(605年)、聖徳太子がこの地を訪れ、自刻の千手観音を祀ったのに始まるという。聖徳太子はこの地を訪れた際に出会った「人魚」の願いにより一寺を建立したという
本堂
本尊・千手観音
太子堂
太子堂内
護摩堂
北向き地蔵
濡れ仏
朝鮮香炉
魚籃観音
トイレの神さん
大官大寺跡 奈良県明日香村小山 百済大寺
日本書紀、舒明天皇11年(639)7月の条に百済川のほとりに大宮と大寺を造った、そして、同年12月の条には百済川のほとりに九重塔を建てた、とあり、舒明天皇が建立したわが国最初の官寺である。この所在地を巡って様々な研究がされてきたが、1997ー2000年度までに実施された吉備池廃寺発掘調査の結果、発見された巨大な金堂土壇跡と塔土壇跡、出土瓦からこの吉備池廃寺が百済大寺であることが、現在最も有力な説となっている
塔跡
出土瓦 日本の塔跡より
出土金具 日本の塔跡
伽藍図 日本の塔跡
山田寺跡 奈良県桜井市山田944にあった古代寺院。法号を浄土寺または華厳寺と称する。蘇我氏の一族である蘇我倉山田石川麻呂の発願により7世紀半ばに建て始められ、石川麻呂の自害(649年)の後に完成した。中世以降は衰微して、明治時代初期の廃仏毀釈の際に廃寺となった。その後、明治25年(1892年)に小寺院として再興されている
模型図
金堂跡 日本の塔跡より
心礎 日本の塔跡
雪冤碑 碑文は江戸時代の名筆(江戸三筆の一人)貫名海屋(ぬきなかいおく 1778-1863(安永7-文久3)の筆によるもので雪冤と言うのは、無実の罪を晴らして、潔白を証明している
仏頭 (1187年)、興福寺の僧兵が山田寺に押し入り、山田寺講堂本尊の薬師三尊像を強奪して、興福寺東金堂の本尊に据えた。
天香山神社 橿原市南浦町608
正式名称には天香山・坐・櫛真智命・神社といい、式内大社とされている古社です。御祭神:櫛真命(くしまち)櫛は奇(不思議)真は兆(占い)の古語で、占いの神様です。本殿の左右にある小さな末社は、春日神社と八幡神社。
天香具山は、天津神が住んでいる高天原に通じる山で、当時は天から降ってきた山と思われていた。この山の土で造った土器を祭ればすべて意のままになると言われていた。
た。
中門
拝殿
割拝殿
本殿 左右は春日神社と八幡神社
本殿
磐座
波波迦の木
天岩戸神社 橿原市南浦町772
天香具山は大和三山の内でも、もっとも神聖視されてきた山です。三輪鳥居の後ろにはご神体は4個の巨石岩穴がありこれを御神体とします玉垣内には真竹が自生し7本竹といい毎年7本づつ生え換わります
本殿の裏山
磐座