法隆寺 秘められた聖徳太子の夢 その 2
礎石の上部には舎利容器と海獣葡萄鏡が納められている
舎利容器
四本の鎌---相輪の鎌の由来・意味とは、雷に対して鎌で威嚇して雷を落とさないようにとの、意味合いのような一種の呪いが込められている 堺の水野鍛錬所製造
向かって左・山背台兄王 右・殖栗皇子
法隆寺 秘められた聖徳太子の夢 その 2
礎石の上部には舎利容器と海獣葡萄鏡が納められている
舎利容器
四本の鎌---相輪の鎌の由来・意味とは、雷に対して鎌で威嚇して雷を落とさないようにとの、意味合いのような一種の呪いが込められている 堺の水野鍛錬所製造
向かって左・山背台兄王 右・殖栗皇子
法隆寺 秘められた聖徳太子の夢 2019年 NHK TV より
金堂
金堂
邪鬼 多聞天
増長天
持国天
広目天 サル顔
釈迦三尊
救世観音 聖徳太子の御等身の像と伝わる
178.8cm 楠木 造立年 不明
推定629年-655年(舒明天皇元年-斉明天皇元年/飛鳥時代
尺寸王身 法隆寺金堂の釈迦三尊像の光背に残る刻銘(作者などの名前を刻む)の一部分
厨子は高さ233cm。檜材製だが、蓮弁を彫り出した部分のみ樟材を使用している
荘厳浄土寺 大阪市住吉区帝塚山東5-11-14 約千坪の広大な境内をもつお寺 南朝の後村上天皇が後醍醐天皇の菩提を弔った寺院でもあります。 住吉神宮寺、津守寺(津守廃寺)とともに住吉の三大寺に数えられています 創建年代は不明
寺に住みついている 子猫
親猫
墓参りの人から餌をもらっている
隋心院 山科区小野御霊町35 2016.03.27は、はねず踊りで訪問 拝観料500円 朱印帳1200円 朱印500円 第5世住持の増俊の時代に曼荼羅寺の塔頭の一つとして随心院が建てられた。続く6世顕厳の時には順徳天皇、後堀河天皇、四条天皇の祈願所となっている。東寺長者や 東大寺別当を務めた7世親厳(1151年 - 1236年)の時(1229年)に後堀河天皇の宣旨により門跡寺院となった。その後一条家、二条家、九条家などの出身者が多く入寺 している
500円
大乗院
藥医門
化粧の井戸
絵馬
句碑
庫裏
小野小町像 平安時代前期9世紀頃の女流歌人 京都市山科区小野は小野氏の栄えた土地とされ、小町は晩年この地で過ごしたとの説がある。ここにある随心院には、 卒塔婆小町像や文塚など史跡が残っている。後述の「花の色は..」の歌は、花が色あせていくのと同じく自分も年老いていく姿を嘆き歌ったものとされる
はねず踊り
2016.03.27 はねず踊り かつては随心院の梅を「はねず」と呼んでいた
以下 TVより
板絵
内陣
一休禅師牀菜庵跡 住吉区上住吉2丁目6住吉東南へ300M 上住吉西公園内
室町時代の臨済宗大徳寺派の名僧・一休宗純が晩年、この地に仮居したと伝わる。一休は後小松天皇の落胤と伝えられ、天衣無縫・反骨で終始し、京都・奈良・堺などに移り住んだ。一休禅師は1469年応仁の乱の兵火を避けるため、京都を離れ、大和から堺に入り、住吉に居住していた。翌2年、堺の豪商尾和宗臨(大徳寺伽藍再興に尽力した)が、ここに一庵を設けて一休を招請した。 一休はここを雲門庵(雲門寺)と称し、弟子ともども移り住み、文明8年にその隣に牀菜庵(しょうさいあん)を営み、ここで記された『床菜庵法度』が現在に伝わる。江戸時代後期に刊行された『摂津名所図会』には、一休禅師と尾和四郎左衛門(宗臨)が話し合う場面が描かれており、説明文には「今、庵室荒廃す」とあり、江戸時代には既に荒廃していたと記されている。大阪再発見より
公園に居つくニャンコ
九島院 きゅうとういん 黄檗宗 大阪市西区本田3-4-18
九島禅院 龍渓禅師が創始したとされる禅 寺です。開山法要のとき、亀が 花を背負って祝福に来たとされ、 境内に「亀の墓」があります。 寛文10年(1670)に九条島が洪水 に襲われたとき、禅師は座禅を 組んで入寂しました。のちに「九 条の人柱」といわれ、河村瑞賢 による安治川開削の動機になっ たといわれています。当院は、霊亀山と号し禅宗の一派である黄檗宗に属する京都・宇治の黄檗山萬福寺の末寺で、別格地であります。 Home page
摂津名所図会
山門
龍吟鐘 中国の仏教書『碧巌録』の禅語「枯木龍吟から鐘の名が名付けられた。枯れた木の空洞に風が吹き抜けて、ヒューヒューと、龍が鳴いているような音を立てている
龍渓禅師御遺戒
六地蔵
佛塔
本堂
大亀地蔵尊
魚梆
開梆
扁額
外陣
犬猫供養塔
九条商店街
竹林寺 大阪市西区本田1-丁目9の3
(朝鮮通信使の墓) 竹林寺は九条島を開いた豪商・ 池山新兵衛と幕府役人・香西皙 雲によって(1649)に建 てられました。大坂に残留した 通信使一行の宿舎になっていま した。(1764)、通信使 一行の金 キム漢 ハン重 ジュンは大坂で病死し、 この寺で葬られました。
山門
法然上人
布袋さん
本堂
本堂
内陣 本尊阿弥陀仏(恵心僧都の作、長三尺
蓮のうてな
平和観音菩薩
金漢重墓 江戸時代、前後12回にわたり将軍の代替わりの祝賀に「朝鮮通信史」が訪れました。明和元年(1764)、11回目に来日し、竹林寺で亡くなった金漢重(キムハンジュン)崔天宗(チェチョンジョン)の墓が今も大事にお守りされています。
逆さ獅子
韓人墓
称念寺 枚方市長尾元町2丁目33-の28
当山に伝わる古記録『称念寺来由』によると、1649年(慶長2年)久貝家家臣岡田嘉兵衛が細谷善兵衛と長尾村(旧福岡村)開拓の仕事にかかり、仏道に深く帰依し、林の中に一小庵を営んでいた。厳島光明院の阿念上人が諸国を旅の途中、当地(福岡村)に来錫、嘉兵衛の小庵に滞在した。 嘉兵衛は阿念上人に教えを受けること多く、遂には上人が暫時この小庵に留錫するように願って許された。上人の不断の精進やその人格の高潔さを目の当たりに見た嘉兵衛は、上人を師と仰ぎ、財を投じて一寺院を建立し、上人を開祖とした。その後、津田村にあった平松山称念寺という古跡を当地に移し、その山号、寺号を踏襲したという。大阪再発見より
山門
本堂
扁額
この観音堂は1982年(昭和57年)の大改修の折、「寛延4年(1751年)上棟」棟札が発見され、当山ではもっとも古い建物と判明。同じく本堂が「安永6年(1777年)」に再建されたことが判明した。
内陣
境内
楠木 樹齢300年
飛天 庫裏内
旅立ちの法然様