常光寺 八尾市本町5-8-1
745年行基が開創し、聖武天皇の勅願所であった。
その頃は「新堂寺」と称していたが1390年足利義満が祈願所とし、『初日山常光寺』の扁額を寄せて以来、現山寺号を称している
大坂夏の陣では金地院崇伝の抱かかえ寺として保護され、徳川方の藤堂高虎がこの寺に陣を置き、大阪方の長宗我部盛親の軍と激戦に巻き込まれる
河内名所図会
地蔵菩薩立像 本尊 常光寺パンフ 本尊の延命地蔵菩薩は小野篁の作とされる。篁は夜な夜な冥府に通って閻魔王の補佐をしたという逸話のある平安時代の人物 実際の製作年代は室町時代前期と推定されている
山門
阿弥陀如来 阿弥陀堂
境内
本堂
阿弥陀堂
舎利堂
当地の土豪。 南北朝時代 八尾城主であり 楠木正成の家臣として南朝方に尽力した武士。正成亡きあと子の正行を助けるも八尾城において病死しここに葬られた
重臣五輪六基
藤堂家 墓
大国主神社 大阪市浪速区敷津西1丁目2-12
正式には「敷津松之宮大国主神社」と呼ばれる。社伝によれば、神功皇后が三韓を平定されて住吉大社に凱旋報告のため、敷津浦を航海されたとき、敷津浜に荒い波がうちよせられるのを見られ、松の木を渚に三本植え、素戔鳴尊をお祀りになり航海の安全を祈られたことから「松之宮」と呼ばれたとある。1600年以上の歴史を誇る古い神社。1744年、今宮戎神社が「えびす様」なら「大黒様」が無いと纏まらないということで、今宮戎神社に近い敷津松之宮の中に摂社として「大国主神社」が勧請されている
東門
南 正門
拝殿
拝殿内
折口信夫春はやきこぶしのうれひさきみちて たゞにひと木はすべなきものを
磐座
庭に飛んできたトンボ 何年ぶりだろう
難波八阪神社 大阪市浪速区元町2-9-19 「Youは何しに日本へ?」のTVで外人に人気のspot
社伝によれば古来「難波下の宮」と称し難波一帯の産土神でした。後三条天皇の延久(1069年から1073年)の頃から祇園牛頭天王をお祀りする古社として世間に知られていた。もとは神仏混淆だったが、維新後、神仏分離により寺は廃絶し、(1872年)に郷社となった。現在のご本殿は、昭和49年(1974年)5月に完成
前回参拝
東向き鳥居
獅子舞台
狛と逆さ獅子
拝殿
右・ 獲剣簸川飢配三種神寶 素戔嗚尊が出雲の簸川で獲得した天叢雲剣(草薙剣)を三種の神宝とした
左・建宮須賀初詠八雲国風 素戔嗚尊が須賀(島根県安来市)に宮を建て、新婚の住まいとした。そして初めて八雲国の歌を詠んだ」と記されている。
その時に素戔嗚尊の詠んだ歌は 八雲立つ出雲八重垣妻ごみに八重垣作るその八重垣を
難波村牛頭天王(『摂津名所図会
願泉寺 大阪市浪速区大国二丁目2-27 御朱印はやってません 本堂、茶室はS20年空襲で焼失 寺伝によれば願泉寺は小野妹子の八男、法証の開基といい、四天王寺と同時期にあたる古寺である。境内には伊達政宗寄進の客殿・茶室が国宝としてあったが、戦災で焼失した。相阿弥の作とされる庭園は、そのとき樹木などが焼失したが現在は昔の姿に復元されている
大阪府名勝に指定されている「枯山水の庭園」がある寺院
庭園
本堂
庫裏
相應庵(茶室)
勘助義田碑(かんすけぎでんひ) 勘助は木津村にいくらかの田畑を寄進、これを木津5町の共有財産として得た収益を公益事業に充ててきた。明治32年木津が大阪市に編入されることとなったので、田畑を売って小学校の建築に寄付し、その一部で碑を建て勘助の特を偲ぶ。 明治37年(1904)東之町有志の建。
石塔