圓通寺 京都市左京区 岩倉幡枝町389 以前来たが、水曜日休みだったので、再度来訪 来訪者 私以外2人のみ 開山10時 500円 御朱印500円 臨済宗妙心寺派
【山号】大悲山【本尊】聖観世音菩薩像(定朝作)【開基】円光院文英尼公(霊元天皇の乳母)
【勧請開山】景川宗隆禅師(妙心寺住持)【注意】撮影は借景のみ可
後水尾天皇
墓地へのみち
幡枝離宮
外壁
勅使門
山門
参道
玄関への階段
玄関
上がり口
生け花
境内 弁財天
庭園
鉄灯籠
収蔵庫
内陣
花頭窓
廊下
手水鉢
飛び石
蹲
比叡山 借景
借景
蹲
手水鉢
勅使門 裏から
虚子 句碑 柿落葉 踏まえてたずねぬ 圓通寺
観音堂
観音堂
参考 京都浪漫
常照皇寺 京都市右京区京北井戸町丸山14-6 御朱印200円 拝観料300円
臨済宗天龍寺派の寺院。本尊は釈迦如来。 開山は、南北朝時代に北朝初代の天皇となった光厳上皇である 北朝初代の光厳天皇が開き、南北朝の動乱という歴史の渦に巻き込まれ、ここに隠棲した 庭には、国の天然記念物「九重桜」樹齢300年、御所より枝分けした「左近の桜」など名木がある
寺へ行く途中の桜
参道
勅使門
庫裏
茅葺屋根の方丈
釈迦如来
方丈室内
書院
書院廊下
銀造りの小仏
書院衝立
開山堂 怡雲庵(いうんあん) - 開山堂とも。禅宗仏殿形式の建物で、奥に袈裟を着した光厳法皇の肖像彫刻がある。十六羅漢 寺の背後には光厳天皇の山国陵、後花園天皇の後山国陵、後土御門天皇の分骨所がある
開山堂内陣
光厳上皇
阿弥陀如来
釈迦如来三尊 獅子に乗った文殊菩薩と象に乗った普賢菩薩、更にその外側に地蔵菩薩
怡雲庵 いうんあん
方丈
襖絵
参考 京都浪漫
鵺塚 (ぬえ) 大阪市都島区都島本通3丁目18
母恩寺から南東に約500mの場所に「鵺塚」がある。平安時代に京で源頼政が鵺を退治した、そしてその遺骸を淀川に流したところ、この地にたどり着いた。付近の村人たちはその祟りを恐れて母恩寺の住職に弔ってもらい、鵺塚を建立した。鵺塚は明治時代に取り壊されかけたが、鵺の怨霊が地元住人を悩ませたりしたので、慌てて鵺塚は修復された。鵺とは、頭はサル、胴体はタヌキ、手足はトラ、尾はヘビ
鵺塚 正面
手水鉢
鵺塚祠
都島神社 大阪市都島区都島本通1丁目5-5
平安時代後期に後白河法皇が当地へ行幸した際にこれを哀れみ、当地の鎮守として神社を置くよう命じた。当社の歴史は、これを受けた東成郡毛馬村・滓上江村(澤上江村)・友渕村など8村が協力し、(1160年)に十五社神社を建立したことに始まる。後白河法皇は(1168年)には当社の北側に生母の待賢門院を祀る母恩寺を建立している。Wikipedia
三重宝篋印塔(大阪府指定有形文化財) - 嘉元2年(1304年)作。大阪市内最古の石造遺物
拝殿
拝殿内
本殿
遙拝所
母恩寺 大阪市都島区都島本通1丁目20-22
寺伝によれば創立は(1168年)、開基は後白河法皇である。本尊 阿弥陀如来
高野山金剛峯寺に参詣する途中であった後白河法皇は、大川沿いの風光明媚の地でありながら、たびたび洪水で被害を被っていたこの地を憐れんで、(1160年)に十五社神社を建立した。そして、(1168年)にやはりこの地が気に入ったのかこの場所に目をとめ、(1145年)に亡くなった母待賢門院の菩提をここで弔おうと考え、十五社神社の北側に寺を建立した。寺名の由来は「産んでくれた母への恩返し」という意味による Wikipedia
山門
本堂
扁額
外観
白峰神宮
崇徳天皇白峰御陵
崇徳上皇 鳥羽天皇の第1皇子。母は藤原璋子(待賢門院)。父の譲位により5歳で即位。実は白河法皇の皇子といわれ,院政をしく鳥羽法皇の意向で,3歳の異母弟近衛天皇に譲位させられた。近衛天皇の死後は同母弟の後白河天皇と対立,敗れて讃岐に流された(保元の乱)。長寛2年826日配所で死去。46歳。死後,怨霊としておそれられた。墓所は白峯陵
崇徳院
椿説弓張月
待賢門院 鳥羽帝との間に5男2女 崇徳天皇 後白河天皇 晩年法金剛院で、過ごした
西行も待賢門院璋子(1101~1145没44才)への叶わぬ恋の物語があった。西行と璋子17才の年の差があったが、西行は17才も年上の中宮(皇后)璋子に恋こがれ、想い叶わぬと知ると出家し、それでも彼女が亡くなるまで慕い続けた。西行は出家しても、中宮璋子の居る京の都から離れられず、京に近い畿内の山中で草庵をあみ、叶わぬ恋の寂しさ、哀しさを歌にして詠んだ。
参考 Wikipedia
戒壇院 戒壇堂 戒を授ける「戒壇院」という組織はなくなってしまったが、東大寺の戒壇院は築地塀で外とは隔絶されており、戒壇院区画内の戒壇堂という意味でなら、現在でも通用するわけです もともと東大寺の中に教学組織として「戒壇院」があり、その中心建物が戒壇堂でした
754年、聖武上皇は光明皇太后らとともに唐から渡来した鑑真から戒を授かり、翌年、日本初の正式な授戒の場として戒壇院を建立した。戒壇堂・講堂・僧坊・廻廊などを備えていたが、江戸時代までに3度火災で焼失、戒壇堂と千手堂だけが復興された 拝観料 600円
会談堂への石段
宝篋印塔
土塀
山門
山門の瓦
山門の瓦
山門の瓦
獅子
戒壇堂
入口
伽藍絵図 パンフ
敷き砂
庭
以下 Post Card より
持国天
持国天 邪鬼 四天王の足元で踏みつけられ、苦悶の表情、獣のような表情をしているのが邪鬼。端的に説明すると、祟りをなす者、物の怪などのこと。古代インドの闇の神に
「夜叉」という者があり、はじめは仏法に敵対していたが、お釈迦様に調伏されて降参した
増長天
増長天 邪鬼
多聞天
多聞天 邪鬼
広目天
広目天 邪鬼