妙法院門跡 京都市東山区妙法院前側町447
本尊は普賢菩薩、開基は最澄と伝える。皇族・貴族の子弟が歴代住持となる別格の寺院を指して「門跡」と称するが、妙法院は青蓮院、三千院とともに「天台三門跡」と並び称されてきた名門寺院。また、後白河法皇や豊臣秀吉ゆかりの寺院としても知られる。近世には方広寺や(三十三間堂)を管理下に置き、三十三間堂は近代以降も引き続き妙法院所管の仏堂となっている
外国人から見た京都ベスト10
①嵐山・竹林②伏見稲荷③ラーメン④抹茶⑤清水寺⑥舞妓⑦⑧金閣・銀閣寺⑨嵐山モンキーパーク⑩錦市場 ラーメンは以外
本堂
普賢菩薩
庫裏・国宝
宸殿
宸殿内陣
大玄関
勅使門
唐門
大書院の南庭
護摩堂内部
不動明王
地蔵群
法雲寺 京都市中京区河原町通二条上ル清水町364-1 縁切り寺
平安時代、公卿藤原兼家の邸があり、その没後に法興院に改められた
お堂の東側に祠が祀られています。御神体の「縁切石」は菊野大明神(菊野尊天)と呼ばれています。 「婚礼の際には菊野大明神の傍らを通らない」のが京都の習わしとなるほど地元では知られた縁切りスポット
本堂
瑞泉寺 京都市中京区木屋町三条下ル石屋町114-1
(1595年)7月、秀次は叔父豊臣秀吉から謀反を疑われ関白の職を剥がれて高野山に追放された。7月15日賜死を命じられた秀次は切腹した。山本主殿、山田三十郎、不破伴作など家来5人もまた殉死した
本堂
本尊・阿弥陀如来
秀次公 墓
妻妾の中で最初に処刑された継室、菊亭晴季の娘・一の台の辞世の和歌
蹲踞
高瀬川は、江戸時代初期に角倉了以・素庵父子によって、京都の中心部と伏見を結ぶために物流用に開削された運河である二条大橋の南で鴨川西岸を併走する「みそそぎ川」(鴨川の分流)から取水する。二条から木屋町通沿いの西側を南下し、十条通の上流で鴨川に合流する
誠心院 新京極通六角下る中筋町487
初代の住職は平安の歌人和泉式部で、その法名を誠心院専意法尼と申します。娘の小式部に先立たれた和泉式部は、書写山円教寺の性空上人に勧められ誓願寺の本堂に籠りご本尊に教えを受けます
役行者
誓願寺 京都市中京区新京極通三条下ル桜之町453
鎌倉時代成立と推定される縁起(『誓願寺真縁起』)によると、本尊仏である「阿弥陀如来像」(丈約6.5メートル)は、今から約1300年前に、天智天皇の命により、大和の国の賢問子・芥子国という親子の彫刻師によって造られた
阿弥陀如来
扇塚
矢田地蔵尊 京都市中京区寺町通三条上ル523
寺町にある、静かなお寺の雰囲気からはひときわ異彩を放ち、かなり目を引きます。
境内には、水子地蔵、大日如来、石仏地蔵も安置されています。
安養寺・倒蓮華寺 京都市中京区新京極通蛸薬師下ル東側町511
本尊の阿弥陀如来の蓮華の台座がさかさまになっているところから、倒蓮華と呼ばれている、古い由緒をもつ寺である。伝えによると平安中期の寛和年間に恵心僧都が今の奈良県当麻に建てた華台院は当寺の始まりという
蛸薬師堂 妙心寺 正式には永福寺 京都市中京区新京極蛸薬師下ル東側町50
(1181)室町の林秀が、比叡山の御本尊薬師如来の夢告により与えられた伝教大師が彫られた石仏の薬師如来をおまつりした六間四面の堂を作り、永福寺と名付けられたのが始まり
西光寺 京都市中京区新京極通蛸薬師上ル中筋町495-1
本尊阿弥陀如来の右側に安置する寅薬師如来像に由来する
新京極 御朱印めぐり 京都市中京区新京極通りの三条通~四条通
1573~1592、秀吉が市中の多くの寺院を寺町通りに集めたことに伴い、その境内が縁日の舞台として利用され、周辺は見世物や催し物を中心に発展するようになった
錦天満宮 京都市中京区新京極通四条上ル中之町537 平安時代前期の十世紀初頭、学問の神となられた菅原道真公の生家『菅原院』に創建されました。菅公薨去の後、菅原院は『歓喜寺』と寺名に改称、その後、嵯峨天皇の皇子源融公の旧邸六条河原院に移山塩竈宮を鎮守に天満大自在天神をお祀りした。
鳥居が参道からもビルの窓を通してめり込んだ先端を覗くことができる
拝殿
塩竃神社
白太夫神社