週一寺社めぐり

原則として週一回 神社仏閣を訪れる

宗我坐宗我都比古神社 2012.03.03 Archives

2016年08月31日 | 神社仏閣

宗我坐宗我都比古神社 (そがにます そがつひこじんじゃ) 橿原市曽我町1196   創建は不詳。『五郡神社記』では、推古天皇の時に、蘇我馬子が武内宿禰と石川宿禰を祀る神殿を蘇我村に創建したとする 一方で社伝では、持統天皇が蘇我氏の滅亡をあわれみ、蘇我倉山田石川麻呂の次男である徳永内供には紀氏を継がせるとともに、内供の子の永末には祖神を祀るための土地を与えて社務・耕作を行わせたことをもって創建とする
                                                                                                                           蘇我氏の本家は、六世紀半ばの蘇我稲目の時に、急速に勢力を拡大した。蘇我氏の本家は、稲目、馬子、蝦夷、入鹿の四代でほろんだ。蘇我氏の本家の滅亡は、大和朝廷の古い伝統の終わりを意味するものであった。

拝殿

本殿

本殿

拝殿内

   

 戎神社 八坂神社

ロウバイ 

 

磐余神社 奈良県橿原市中曽司町521
創祀は古代までさかのぼり 真菅(ますが)の地に神武天皇を祀る古社
  祭神 神日本磐余比古命(かむやまといわれひこのみこと、初代神武天皇)

拝殿 拝殿は寛文2年(1662)に新築、明和2年(1765)に修理

本殿

本殿

 「真菅よし 宗我(そが)の河原に鳴く千鳥 間無しわが背子 わが戀(こ)ふらくは」(柿本人麻呂 巻12-3087)

 

 

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正連寺・大日堂 入鹿神社 2012.03.03 Archives

2016年08月30日 | 神社仏閣

正連寺・大日堂 入鹿神社   橿原市小綱町14
国指定の重要文化財です。建造形式は、桁行三間、梁行三間、一重、寄棟造、本瓦葺。
もとは普賢寺と言われていましたが、明治の廃仏毀釈により普賢寺が廃絶することとなり、正蓮寺に管理が引き継がれた

入鹿神社

入鹿神社

    

拝殿

拝殿内

 板絵

本殿

本殿    庚申

 

大日堂

大日堂・重文

大日如来

 

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太郎坊宮(阿賀神社) 2014.09.10 Archives

2016年08月29日 | 神社仏閣

太郎坊宮(阿賀神社)滋賀県東近江市小脇町2247  駐車場よりご本殿までは約300段の石段
『太郎坊』とは京都鞍馬の次郎坊天狗の兄天狗でこの社を守護していると言われています。厄除け・開運・商売繁盛にもご利益があるとされ、初詣をはじめ年間を通じて多くの参拝者が訪れます。その昔には、聖徳太子や最澄も参拝したと言われ、また神秘的な霊山として修験者の修行の場になっていました

 

 

本殿

本殿内参集殿

祈禱殿

 願掛け天狗 

参集殿より

竜神舎

絵馬   地主神社布袋毘沙門天寿老人

魂窟       

 

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石馬寺 2014.09.10 Archives

2016年08月28日 | 神社仏閣

石馬寺 滋賀県東近江市五個荘石馬寺町823 
繖山の山中にある石馬寺は、聖徳太子がこの山麓に馬をつなぎ、山上に霊地を探して下山すると馬が石と化して池に沈んだ
 ここには、十一面観音立像や役行者腰掛像など、平安・鎌倉時代に作られた数多くの重要文化財が所蔵されています。緑に囲まれた寺内には静かな空気が流れ、訪れる人々に千年の歴史を感じさせてくれる

       石馬の池

本堂

本堂

     

衝立   

石庭

不動堂内陣

六所神社   拝殿本殿稲荷社

  

 薬師如来 弁財天不動明王毘沙門天

多聞天太子乗馬像涅槃図

持国天・増長天観音十一面観音閻魔大王内陣

            大威徳明王像

 

                      阿弥陀如来

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石塔寺 2014.09.10 Archives

2016年08月27日 | 神社仏閣

石塔寺 滋賀県東近江市石塔町860 
山号は阿育王山、本尊は聖観世音菩薩 石塔寺」の名のとおり、境内には、阿育王塔と呼ばれる石造三重塔を中心に、8万4千基の石塔や石仏が並ぶ 
湖東の渡来人が建てた> 天智天皇が667年に開いた志賀の都、近江大津京は、渡来人が活躍した都でもあった。琵琶湖の西岸に位置するこの地域には、朝鮮半島、特に百済からの渡来人が集住していた。


司馬 遼太郎 「最後の石段をのぼりきったとき、眼前にひろがった風景のあやしさについては、わたしは生涯忘れることができないだろう   「塔なとどというものではなく、朝鮮人そのものの抽象化された姿がそこに立っているようである」 歴史を紀行する

  山門入口

      

本堂

本堂

内陣

勅使墓 

五輪塔・ひだり・鎌倉右・南北朝

五輪塔・重文

石造・宝塔

八十八か所   ルコウ草 太子堂

宝篋印塔・鎌倉役行者

 

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法界寺 2016.03.27 Archives

2016年08月26日 | 神社仏閣

法界寺 京都市伏見区日野西大道町19 
本尊は薬師如来、開基は伝教大師最澄とされている。藤原氏の一族である日野家の氏寺で、「日野薬師」あるいは「乳薬師」の別名で知られる薬師信仰の寺であるとともに、国宝の阿弥陀堂と阿弥陀如来像を有することでも知られる。

  

  

阿弥陀堂・国宝

 

                               阿弥陀如来・国宝

薬師堂・重文

弁財天阿弥陀如来光背 

飛天  

    

阿弥陀堂

内陣誕生の地親鸞聖人誕生院

上人産湯の井戸 

  

御廟

   

 

 

 

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宝積寺(宝寺) 2015.02.25 Archives

2016年08月25日 | 神社仏閣

宝積寺  京都府乙訓郡大山崎町大字大山崎字銭原1
724年、聖武天皇の勅命を受けた行基による開基と伝える。聖武天皇が夢で竜神から授けられたという「打出」と「小槌」(打出と小槌は別のもの)を祀ることから「宝寺」の別名があり、大黒天宝寺ともいう 宝積寺は、山城国(京都府)と摂津国(大阪府)の境に位置し、古くから交通・軍事上の要地であった天王山(270m)の南側山腹にあり、寺伝では(724年)、聖武天皇の勅願により行基が建立したと伝える。


秀吉は大坂城ができるまでのあいだ戦場付近の天王山の宝寺を城郭化してそこを仮の根拠地にしていた。歴史を紀行する司馬遼太郎 p-246  

     

山門

           

本堂

十一面観音

木造慈恵大師坐像

小槌宮

内陣

不動堂弁財天堂

閻魔堂

    

 

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岸和田城  2016.08.23

2016年08月23日 | 神社仏閣

岸和田城 岸和田市岸城町9番1号 300円
建武親政期、和泉守護となった楠木正成が和泉国府の南の守りとして築城。一族の和田新兵衛高家を城主とした。築城当初は岸の城と呼ばれたらしいが、城主和田氏を「岸の和田氏」と言ったところから地名岸和田が定着し、岸和田城と呼ばれるに至った。

お濠のスイレン

八陣の庭 

御殿風復興建物

阿弥陀如来坐像 パンフより

紫糸威伊予札四枚胴具足 パンフより

      

八陣の庭

3Fより

五風荘 がんこ岸和田

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定林寺 2011.01.08 Archives

2016年08月22日 | 神社仏閣

定林寺 高市郡明日香村立部32   霊場第九番                                   別名を立部寺または常林寺といい、聖徳太子建立七ヶ寺の一つという伝承を持つが、その創建や寺史については全くわからない。寺跡は、飛鳥小学校から100mほどの南の集落の中にある            現在ある本堂と庫裏は、江戸時代後半の建立です 境内には墓地が有り、古い石仏や五輪塔等もあります 西隣に春日神社が有ります

 

   

   

  

 

定林寺跡

出土古瓦から7世紀前半に創建されたと推定されています 

   

 

 

 

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向原寺 2011.01.08 Archives

2016年08月21日 | 神社仏閣

 向原寺 奈良県高市郡明日香村豊浦630
この寺の起源伝承は古く、6世紀の仏教伝来の頃までさかのぼる。『日本書紀』は(552)、百済の聖明王が初めて我が国に仏像、仏典をもたらしたとき、蘇我稲目は仏像を譲り受け、向原の家を浄めて寺としたという。『向原寺縁起』はこの向原の寺が向原寺の起こり、としている。

本堂

文様石

内陣

金銅菩薩立像 昭和49年(1974)9月上旬、寺宝として本堂の内陣に祀られていた金銅製観音菩薩立像が、厨子と共に忽然と姿を消した
2010.9月実に36年ぶりに発見され、無事に向原寺に戻った

 

収蔵庫薬師堂

向原寺は、推古天皇の豊浦宮の跡地に建つ寺院としても知られている。 (592)12月8日、豊御食炊屋姫がこの地に豊浦宮を営み、推古天皇として即位した。

難波池 仏教伝来時、蘇我稲目が百済からの渡来仏を向原寺の前身の寺で祀ったら天然痘が流行した。そのため、廃仏派は病気の流行は蕃神を祀ったせいだとして、寺を焼き仏を”難波の堀江”に捨てた。この地方では、難波池がその難波の堀江であると言い伝えられてきた

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