天野の里は、和歌山県北東部のかつらぎ町南部にあり、国道24号線より南へ車で15分、高野山のふもと標高約450mに位置しています。四季折々のどかな田園風景が広がる天野盆地は、『にほんの里100選』にも選ばれています。
1998(平成元年)年には、環境庁(現環境省)から『ふるさと生きものの里』に認定され、初夏、
今なお清い流れを守る真国川では源氏ボタルの乱舞が見られ、豊かな自然に恵まれた地域です。
西行堂
西行石碑
妻 娘の墓
院の墓 待賢門院中納言の局 鳥羽天皇の皇后の待賢門院の墓でなく、院に仕えていた中納言の局の墓と考えられます。「山家集」には中納言の局が待賢門院の喪に服した後、京都の小倉の住まいを捨て、天野に移り住んだと記されており、久安五年(1149)の頃と推定されます。この地に庵を結び、入寂した後、里人が葬ったのがこの墓です
天野の里
娘を蹴落とす西行
妻子を振り捨てて家を出る西行
西行庵への道 金峰神社から約20分
奥千本苔清水
1684(貞亨元)年には松尾芭蕉もここを訪れて 露とくとく試に浮世すすかばや
芭蕉
春雨のこしたにつたふ清水哉 芭蕉
西行法師
母子堂
母子堂
西行 これまでも堪えてきたが、これからも堪えていくのだという、西行の決意
宝塔院跡 この付近に、多宝塔、四方正面堂、安禅寺蔵王堂他、大小の寺院が点在していた 明治の廃仏毀釈で姿を消した 「金峯神社」から「西行庵」へ向かう途中に有る
報恩大師 奈良時代 孝謙天皇の勅許を得て備前国内に四十八ヶ寺を創建もしくは整備したと伝えられている。地元でもあるので以前から多少気にはなっていたが、我が家の菩提寺もこのうちの一ヶ寺ということを最近知り訪ね歩いてみようという気になった。もっとも、以前にも備前四十八ヶ寺の中で参拝している寺院は多数あるのだが。そのうち一番馴染みのある寺院は、何といっても西大寺である。
西行庵 西行が3年の春秋をすごしたという小さな庵
西行庵
休憩所
安倍清明神社 大阪市阿倍野区阿倍野元町5-16
安倍晴明は阿倍野の豪族だった父・安倍保名と葛の葉と名乗る白狐の間に生まれた伝説がある。葛の葉の正体が白狐であることが発覚した時に、障子に葛の葉が書き残した 歌「恋しくば 尋ねきてみよ 和泉なる 信太の森の うらみ葛の葉」は、あまりにも有名 晴明公は1005年9月26年京都の堀川邸で亡くなり、(享年62歳、系図では85歳) 堀川邸跡(京都市上京区堀川通一条上ル)は現在晴明神社と成っている
泰名稲荷社
はらみ石
産湯井の跡
拝殿
本殿
http://www.kuzunohainari.com/ 信太森神社」 通称「葛葉稲荷神社」
印山寺 大阪市阿倍野区阿倍野元町9-24
彫刻
延命地蔵尊
阿部野神社 阿倍野区北畠3-7-20 北畠親房公は殊に後醍醐天皇のご信任が厚く、「後の三房」と称された一人である。後醍醐天皇の吉野御遷幸のあとは、吉野朝の中心人物として伊勢、あるいは常陸において、京都回復の計画を進められた。後醍醐天皇の崩御後、後村上天皇の帝王学の教科書として、常陸国の小田城で『神皇正統記』を著した後、吉野に帰り、後村上天皇を助け奉り、三后に准じられ多が、正平九年(一三五四)四月十七日、病にて薨じられた。御年六十二歳であった
当神社は、南北朝時代、北畠顕家(あきいえ)と足利軍が戦った古戦場跡地に1882年(明治15年)創建され、北畠親房(ちかふさ)、顕家父子が祀られている
拝殿 青い屋根は台風のため blue sheet
本殿
庫裏
詩歌の道
北畠親房、顕家
旗上稲荷社
旗上稲荷社 拝殿
祖霊社
勲の宮
旗上芸能稲荷社