芙蓉とモミジアオイが咲いた
芙蓉
モミジアオイ
葉鶏頭
風船カズラ
向原寺 豊浦寺 高市郡明日香村豊浦630
元は、飛鳥五大寺の1つ「豊浦寺」 聖徳太子御遺跡霊場第12番札所(浄土真宗本寺派)太子山「向原寺」 『日本書紀』は欽明天皇(552)、百済の聖明王が初めて我が国に仏像、仏典をもたらしたとき、蘇我稲目は仏像を譲り受け、向原の家を浄めて寺としたという『向原寺縁起』はこの向原の寺が向原寺の起こり、としている。 推古天皇の豊浦宮の発掘調査時出た遺構を現状保存で公開
境内
文様石
日本最初の女帝である推古天皇は592年に即位するが、崇峻天皇暗殺から間もない時であったため、新たに大規模な宮殿を築かなかったとする考えがあり、それが蘇我氏の邸宅の一部を転用した豊浦宮と考えられている
盗難にあった向原寺の仏像が36年ぶりに無傷のまま戻ってきた
参考 大和古仏探訪
甘樫坐神社あまかしにいます 高市郡明日香村豊浦626
道路を挟んで東側に推古天皇豊浦宮跡保存遺構が残っている太子山 向原寺があり、江戸時代から御祭神が推古天皇となったのも、この豊浦の地を推古帝が皇居としていたためだと思われます。
低い石垣上の境内は生け垣で区切られ、正面に大きな割拝殿、奥に鳥居と共に三社殿が建立されています。又、境内には謎の石造遺物・立石が注連縄を掛けられて祀られています。
本殿
盟神探湯 立石
春日神社 柏原市田辺1丁目16-38
境内は「国指定史跡 田辺廃寺跡」があります 現在は春日社になっているが、もともとは渡来人の田辺氏が開拓した土地の氏寺。田辺廃寺は現在の柏原市田辺を本貫地とした百済系渡来氏族の田辺史氏(記録係)が建てた氏寺と言われています。1971 年の発掘調査によって金堂、東西両塔、南大門などが確認され、薬師寺式の伽藍配置であることが判明した。東塔の基壇はセ春日神社ン(レンガ状の焼物)を積み上 げたセン積み基壇、西塔と金堂の基壇は瓦を積み上げた瓦積み基壇で、東西両塔ともに三重塔が建てられていたと考えられます。遺跡は春日神社の境内にあり、 瓦などの出土遺物も境内の収蔵庫に展示されています。 柏原市 Home Page
拝殿
社務所
本殿
本殿
本殿
収蔵庫
礎石
伽藍image
創建時の瓦
西塔・東塔跡
平城宮式の複弁蓮華文軒丸瓦
弁天社
参考 東高野街道 毎日新聞 2022.07.16
興福院 こんぶいん 奈良市法蓮町881 特別拝観 千円
2012.05.12 外だけ見たが、今回は前面が大きく変わっている。
寺伝では(9 - 757年)、和気清麻呂が聖武天皇の学問所を移して創建し、弘文院と称したという。『七大寺日記』(1106年)には藤原百川が創建した興福尼院が前身とされている。また、護国寺本『諸寺縁起集』には、(770年)、藤原広嗣の妻・輪立氏の発願で創建されたとある。古くは興福院、弘文院の2つの寺号が用いられ、本尊は薬師如来であった。前述の和気清麻呂を開基とする説は、和気氏が設立した学問所を弘文院と称したことから出たものと推測されている。寺はその後衰退していたが、安土桃山時代に大和大納言豊臣秀長から寺領200石の寄進を受け、復興した。寛永13年には 徳川家光から再び寺領200石を寄進される。現在残る本堂、客殿、大門はこの頃の建立である。
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境内図
前回訪問時、向かって右に長い土壁があったが、今はない
前回 向かって左は 上のような状態であった
由緒
寺宝
大門
大門
向かって左
パンフ
菩薩立像 飛鳥時代 大飛鳥展 図録
拝観入口
参道
参道
本堂
本堂
木鼻
扁額
大原野神社 京都市西京区大原野南春日1152 (784年)に桓武天皇が長岡京へ遷都した際、桓武天皇の后の藤原乙牟漏が藤原氏の氏神である奈良春日社の分霊を勧請して、しばしば鷹狩を行っていた大原野に祀ったのに始まる。嘉祥3年(850年)、藤原冬嗣を祖父に持つ文徳天皇が社殿を造営した。奈良春日社と同じ藤原氏の氏神を祀る大原野神社はそれに準ずる扱いを受け、二十二社(中七社)の一社。
紫式部が愛した名社「京春日」
鯉沢の池
拝殿
本殿
本殿
本殿
左より白髭社、藤森社、稲荷社
祓戸社
モミの大木
竹の道
参考 Kyotofukoh