三光神社 大阪市天王寺区玉造本町14-90 真田丸のTVのせいか参拝客がちらほら
反正天皇の時代の創建と伝えられる。創建以来、武内宿禰の末裔の武川氏が神職として奉職し、現在は86代目と伝える。社伝によれば、寛文元年(1661年)に一旦現在地の南東の鎌八幡の隣に遷座し、宝永3年(1706年)に再び現在地に戻ったという
拝殿
真田の抜け穴
真田山陸軍墓地---真田山陸軍墓地 現在の墓地の面積は4,550坪(約15,000平方メートル)を越え、明治6年の徴兵令以前に属する士官・兵士の墓碑にはじまり、西南戦争、日清・
日露・第一次世界大戦から第二次世界大戦にいたるまでの5,100基以上の墓碑が並び、8,200余の遺骨を納めた納骨堂を擁しております。
また、将校・兵士だけでなく軍事物資の輸送・その他下働きとして雇われた軍役夫や日清戦争や第一次世界大戦で捕虜となった清国兵・ドイツ兵の病死者の墓碑
など、当墓地独自の被葬者もみられます http://www.sanadayama.or.jp/about.html
興徳寺 大阪市天王寺区餌差町2-17
当山の縁起は聖徳太子が在世中に法円坂に「薬師院」として草創と伝えられるが詳細は不明。
天平年間(729~49年)行基菩薩によって再建された畿内49ヶ院の一つである。行基菩薩が原野を拓かんとして、この地で薬師如来を発掘して、別に木造を刻しこれを本尊として一宇を創建、「薬師院」とした
准胝観音
東海亀遊信士 その人は勇亀(いさみがめ)という男で、商店の宣伝を引き受けて拍子木を打ち鳴らし、芝居の口上をまねて『トザイ東西・・・』と大声で呼びながら町中を触れまわりました
心眼寺 大阪市天王寺区餌差町2-22
大坂夏の陣の数年後に真田幸村・大助父子を弔う意味で建てられたそうです 浄土宗知恩院末寺 海養山元和8年(1622)僧白牟が真田幸村・大助父子の冥福を祈って創建。昭和20年6月1日の戦災で焼失し、昭和42年5月再建。
山門
まんなおし地蔵尊--「まん直し(間直し)地蔵」は、間の悪い時に祈願すると、不運を直して幸運に変えるよう、ご利益を授けてくれるといわれています。
善福寺 大阪市天王寺区空堀町10番19
当寺は、高野山岩本院法資法運が、「大阪夏の陣」の戦死者の霊を弔うために開創されたと伝わる。 創建当初は「鏡如庵大師堂」と称し、浪速大師巡り(摂津八十八ヶ所巡りの前身で13ヶ所程度を巡る)の道順にあり、特に21日の弘法大師の縁日には大変な賑わいだったと伝えられる
山門
勝軍地蔵尊
安居神社 2011.01.05 大阪市天王寺区逢阪1-3-24
大坂夏の陣で真田信繁が当神社境内で戦死したと伝えられ、境内に戦死跡之碑が、他に古来、名水特に七名水として名を馳せた安居の
清水(別名:かんしずめの井)の址などがある
拝殿
吉田寺 奈良県生駒郡斑鳩町小吉田1-1-23 浄土宗 本尊:阿弥陀如来 拝観 300円
吉田寺の創建は古く、天智天皇の勅願によると伝えられ、本堂西側には妹君・間人内親王の御陵と伝えられる清水の古墳がある。その後、平安時代末期(987年)に恵心僧都源信が開基された。 浄土教の先駆者として知られる恵心僧都源信はお念仏のみ教えを早くから世に広められ、その著書の「往生要集」では、お念仏による衆生救済の功徳を理論付けられた。浄土宗の法然上人や浄土真宗の親鸞上人にも多大な影響を与えられた。 御本尊・丈六阿弥陀如来(重要文化財指定) 別名を『ぽっくり寺』という
阿弥陀如来坐像 TV
TV
多宝塔 1463年
多宝塔に大日如来TVより
間人内親王墓
【間人皇女(はしひとのひめみこ)】
舒明天皇と斉明(皇極)女帝の一人娘で、孝徳天皇の皇后
同母兄弟に中大兄皇子(天智天皇)、大海人皇子(天武天皇)がいる
鐘楼
古図
額安寺 大和郡山市額田部寺町36 本尊】十一面観音菩薩立像 【開基】聖徳太子
宝物殿・撮影可 400円
十一面観音
忍性菩薩骨蔵器 昭和57年の五輪塔修理の際に見出されたもの。鎌倉極楽寺開山の良観上人忍性(嘉元元年/1303年没)ならびに忍性の弟子で極楽寺3世の善願上人順忍(嘉暦元年/1326年)の骨蔵器などの一括遺品である
宝篋印塔 ・鎌倉中期
五輪塔 額安寺の北西にある石造五輪塔群で、この辺りは通称『鎌倉墓』とも言われている。五輸塔は西側に東面して5基、北側に南面して3基が鍵の手に並んでおり、東端および南から4番目のものに永仁5年(=1297年)の銘があることから、鎌倉時代後期に造立されたものと思われる
(永仁五年銘)
大和郡山市額田部寺町に鎮座する推古神社
乾漆虚空蔵菩薩半跏像
吉祥天
不動明王
愛染明王
梵天
仏教伝来 552年『日本書紀』では、欽明天皇(552年、壬申)10月に百済の聖明王が使者を使わし、仏像や経典とともに仏教流通の功徳を賞賛した上表文を献上したと記されている
538年『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』(724年)においては、欽明天皇御代の「戊午年」に百済の聖明王から仏教が伝来したとある。
しかし書紀での欽明天皇治世(540年 - 571年)には戊午の干支年が存在しないため、欽明以前で最も近い戊午年である538年(書紀によれば宣化天皇3年)が有力と考えられた
百済はなぜ飛鳥寺建立に力を注いだのか強固な同盟関係を結ぶため
舍利容器には「百済王の発願で(王興寺が)577年2月に創建された」となっている。日本書紀によると同年11月、百済王が日本に寺の技術者たちを送り、11年後の588年、当時、権力を握っていた蘇我馬子が飛鳥寺を創建した
仏教伝来は「古代ニッポンの文明開化」とも言うべきインパクトをわが国に与えたが、その中心となる飛鳥寺建立の背景には、上記の王興寺との関わりが深く、飛鳥寺は王興寺の言わばデッドコピーであるということだ
今熊野観音寺 京都市東山区泉涌寺山内
京都市東山区泉涌寺山内にある真言宗泉涌寺派の寺院。泉涌寺の塔頭のひとつで、今熊野観音寺とも称される。山号は新那智山。本尊は十一面観音(秘仏)。西国三十三箇所第十五番札所、ぼけ封じ・近畿十楽観音霊場第一番札所、洛陽三十三所観音霊場第十九番札所、京都七福神えびす神奉祀
観音寺は、初め東山観音寺と称したが、後白河上皇が(1160)新熊野社を勧請創建された際、改めて新那智山の山号を寄せられ、今熊野観音寺と称することになったという
本堂
内陣
子まもり大師
三重石塔・平安
三重塔
島津逆修の塔・桃山--中央の大型五輪塔は、その銘文から16代島津義久の三女で18代家久の夫人である「亀寿」の逆修塔で、島津義久が願主であることが指摘されています。
これらは鹿児島県で採石された山川石を用いており、はるばる京都まで運ばれており、かつ5塔には全て(1598)の年号が見られることから歴史的にも極めて重要な石造物群と知られています
藤原三代の供養塔・鎌倉後期
地蔵堂
地蔵堂のご本尊、地蔵菩薩
大師堂
毉聖堂
来迎院