石塔寺 いしどうじ 滋賀県東近江市石塔町860
創建 伝・推古天皇在位年間(592年~628年)
平安時代、一条天皇代に石塔が出土し、石塔寺と改称、一条天皇の勅願寺となり、八十余坊の大伽藍を擁する大寺院として隆盛を極めた。 織田信長の焼討ちですべてを焼失し、寺院は荒廃した。 江戸初期。(1624~44)になって、天海僧都が弟子・行賢に指示して堂宇が再建され、その後も徳川の庇護が続期、整備が進んだ 〈重文〉三重塔 宝塔 五輪塔(2基)石塔石仏は、約3万と言われている 石塔寺は、聖徳太子創建の伝承をもつ寺院である。 伝承によれば、聖徳太子は近江に48か寺を建立し、石塔寺は48番目の満願の寺院で、本願成就寺と称したという
石塔寺へ最初に行ったのは、ずいぶんの前のことだが、あの端正な白鳳の塔を見て、私ははじめて石の美しさを知った。朝鮮にも、似たような塔はあるが、味といい、姿といい、これは日本のものとしかいいようがなく、歴史や風土が人間に及ぼす影響を今さらのように痛感した。 『かくれ里』より 白洲正子
山門
本堂
内陣
山門仏像
三重塔 花崗岩製、日本最古の石造三重塔、高さ約7.7m、上層部に行くほど仕上げが良くなっている。三重塔は土中に埋納されて以来、十一世紀初頭に発掘された
五輪塔・・重文 左:鎌倉時代後期、右:南北朝時代
石造宝塔1302(正安4)年の銘がある
東大谷日女神社 桜井市山田989
山田寺跡の西南に隣接した、叢林の深い独立丘に鎮座する。
東大谷日女命神社は「東」を「やまと」と読み、東漢氏の祀ったものとする説もあり。
当社を式内社の畝傍山口神社とずる説もある。
神社は当地にあつた明王寺(廃寺)の鎭守であつたと思われる。
橿原にもある東大谷日女神社http://blog.goo.ne.jp/chx15430/e/dcbee8debce49bed444d2bd0791b0680 橿原市畝傍町字唐院69
拝殿
本殿
長慶寺 泉南市信達市場815
真言宗泉涌寺派 本尊 如意輪観音 創建年伝)神亀元年(724年) 開基(伝)行基、聖武天皇(勅願)往時は海会宮寺と号し、海会宮(海営宮)祇園社(牛頭天王/現在は一丘神社などという)周辺が寺地であったという。その、古代海会寺の法灯を継ぐという。 堂宇は平成に建てられて、新しい
仁王門
仏心殿
多宝塔 (1991)完工。高さ13.7m,一辺3.96m行基開山堂と称する。木造彩色本瓦葺の正式の中型多宝塔である。開山行基菩薩を祀る
三重塔
裳階付三重塔 本塔は「孔雀宝塔」と称するという。それは本塔に高野山孔雀明王(重文、正治2年(1200)快慶作、高野山孔雀堂元本尊)を摸刻した孔雀明王を安置するためである。
本堂
内陣
庭園
龍の凄い彫刻が彫られている、ゆうに3mはある石灯籠。中国からの輸入
部分
三面仏像
丹生都比売神社(にふつひめじんじゃ、にうつひめじんじゃ)は、和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野230
全国の丹生都比売神を祀る神社の総本社である。別称として天野大社・天野四所明神とも
『播磨国風土記』によれば、神功皇后の出兵の折、丹生都比売大神の託宣により、衣服・武具・船を朱色に塗ったところ戦勝することが出来たため、
これに感謝し応神天皇が社殿と広大な土地を神領として寄進されたとある
ご祭神のお名前の「丹」は朱砂の鉱石から採取される朱を意味し、『魏志倭人伝』には既に古代邪馬台国の時代に丹の山があったことが記載され、
その鉱脈のあるところに「丹生」の地名と神社がある。丹生都比売大神は、この地に本拠を置く日本全国の朱砂を支配する一族の祀る女神とされている
全国にある丹生神社は八十八社、丹生都比売大神を祀る神社は百八社、摂末社を入れると百八十社余を数え、当社は、その総本社である
輪橋 淀君が寄進したといわれる
楼門 1499年(室町時代)の建立で入母屋造桧皮葺室町中期の三間一戸の代表的な楼門形式
第一第二本殿
本殿
若宮
石像史跡鎌倉後期~南北朝初期
光明真言曼荼羅碑・江戸前期 1662年(寛文二年)に建立され正面の円形の部分に梵字で光明真言が刻まれている
脇ノ宿石厨子・内部には葛城修験の御本尊 「役の行者」の石像が安置されている
高野山百八十町石五輪卒塔婆(国史跡、鎌倉中
町石百八十町目:高野山への出発点
妙国寺 堺市堺区材木町東4-1-4 400円
堺での日蓮宗の代表的な寺院。堺を支配した三好四兄弟の一人三好実休の寄進により、(1562)日珖上人と三好一族の尽力によって建てられた。
織田信長の安土城へ移植され帰された大蘇鉄や、本能寺の変の際に徳川家康が妙国寺から伊賀越えし帰国したこと、(1868)の堺事件・土佐十一士の切腹など話題豊富である。三重塔は戦災で焼失し、再建されていない
北門
西門
本堂
十一烈士の墓 堺事件慶応4年(1868年)堺港に上陸してきたフランス軍艦の兵に対し、堺の警固にあたっていた土佐藩士が阻止しようとしてフランス人22名を殺傷した堺事件で、土佐藩士11名が切腹した地としても有名
枯山水庭園
ソテツと本堂・パンフ朝寒や蘇鉄見に行く妙國寺」 子規家康歌碑与謝野晶子 千利休 六地蔵灯籠夜泣きのソテツ利休の蹲
かつての三重塔 (1658)再興塔・昭和20年7月10日未明の空襲で焼失
和 泉 妙 国 寺 三 重 塔 より
宝珠院 妙国寺の向かい 堺市堺区宿屋町東3-53-2
宝珠院は、栄亮大僧正の開基で真言宗に属し本尊に虚空像菩薩を祀っている。堺事件で切腹した土佐藩士11名の墓が境内にる。切腹した妙国寺が勅願寺であったため埋葬が許されず、向かいの宝珠院に埋葬された
土佐藩士供養塔