芳徳禅寺 奈良市柳生下町445
(1638年)大和国柳生藩主柳生宗矩の開基、沢庵宗彭の開山により創建されたと伝えられる。宗矩が父の石舟斎宗厳の菩提を弔うため、柳生城があったと伝えられている場所に建立した
参道
柳生一族の墓
六地蔵(柳生家代々の墓の入口にある)
山門
本堂
天乃石立神社 奈良市柳生町柳生字岩戸谷789
本殿もなく巨岩そのものを神体として崇める太古からの祭祀の形態を遺す古社で、創祀の年代など詳らかにすべくもない 鎮座地後方に聳える戸岩山にかけての到る所にも巨石が見られるほか、柳生を初めとする奈良市の山間部には巨岩、巨石に対する信仰の形跡が多く見られ、大柳生町に鎮座する夜支布山口神社の摂社立盤神社等も巨岩上に社を構えている
一刀石---石舟斎(柳生宗厳)が修行中、天狗と試合をし一刀のもとに切り捨てたが あとに残っていたのは2つに割れた巨石という逸話のある約7m四方の巨石 ★所在地;奈良市柳生町柳生岩戸谷789
巨石が上の崖から転げ落ちてきて、転げ落ちたとき、何かの力が働いて亀裂が入り、そこに雨水がしみ込み、その水が凍って膨張し、亀裂を広げたとおもわれる
西円堂
地蔵菩薩
毘沙門天
吉祥天
阿弥陀如来 康勝--鎌倉時代前期の慶派正系の仏師。仏師法橋康勝。運慶の4男
法隆寺金堂阿弥陀如来像(1232年)
百済観音 通常の仏像に比べて著しく痩身で頭部が小さく、8頭身に近い2.1m 法隆寺の古い記録にはこの像に当たるものが見えないことや、作風の違いから、造像当初から法隆寺にあったものではなく、後世、他の寺院から移されたものと思われる
玉虫厨子
九面観音
勢至菩薩
救世観音 あくまでもふくよかで 笑みをたたえたこの面持ちに
フェノロサは東洋の神秘 アーカイックスマイルの真髄と褒め称えモナリザに並ぶ 逸品と称した 救世観音は まさに 頭の後で釘を 打ち付けられているのである 梅原猛は法隆寺は鎮魂の寺であるという
頭に釘が刺さっている 釘で仏像を支えているのは、今まで一つもない。聖徳太子の怨霊を
封じ込めているのだ
鎌は 水野鍛錬所(堺)で作られた。法隆寺の相輪の鎌の由来・意味とは、雷に対して鎌で威嚇して雷を落とさないようにとの、意味合いのような一種の呪い(まじない)が込められている
41番 龍光寺 愛媛県北宇和郡三間町大字戸雁173 終日:雨
空海(弘法大師)がこの地を巡錫した際、白髪の老人に出会った。その言動から五穀大明神の化身と悟り、稲荷明神像を刻んで安置。本地仏として十一面観世音菩薩、脇侍に不動明王と毘沙門天を刻んで開基したという。
神仏習合の寺として、三間の稲荷として親しまれた。神仏分離で旧本堂は稲荷社とされ、現在の本堂は新たに建立されたものである
参道
本堂
大師堂
七福神
全景
42 仏木寺 愛媛県宇和島市三間町則1683
(807年)空海がこの地で牛を牽く老人に勧められて牛の背に乗って進むと、唐を離れる際に有縁の地を求めて東に向かって投げた宝珠が楠の大樹にかかっているのを見つけた。そこで、この地が霊地であると悟り楠木で大日如来を刻んで、その眉間に宝珠を埋め、堂宇を建立して開創したという。牛の背に乗ってこの地に至ったというところから家畜守護の寺とされている
山門
山門
本堂
大師堂
不動堂
太子殿
家畜堂
茅葺鐘樓
道租神尊
43番 明石寺 愛媛県西予市宇和町明石201
6世紀、欽明天皇の勅願により正澄上人が唐からの渡来仏である千手観世音菩薩を祀るため創建したという。734年に寿元行者が熊野より十二社権現を勧請し修験道の中心道場としたとされる。(822年)空海が再興したという。
山門
山門
本堂
本堂
延命地蔵堂
大師堂
同宿のMr.I 氏より頂いた、漆塗りの箸、材質は竹 器用な人も居るもんです Wifeも感心していました。赤い篆書の刻印も自分で彫ったとのこと 素晴らしい!
38番 金剛福寺 高知県土佐清水市足摺岬214-1 終日雨
千百五十余年前、嵯峨天皇の勅を奉じて、弘法大師この地に来らせ、開創せられた。
本尊は、三面千手観音菩薩、脇仏は、不動明王と毘沙門天であります。代々皇室の勅願所として栄え、また源家一門の尊崇をうけ多田満仲公は、多宝塔を建立し、源頼光公は家来の渡辺綱に命じて、諸堂を再営された
山門
参道
本堂
大師堂
大師亀
庭園
仏像群
40番 観自在寺 愛媛県南宇和郡御荘町平城
大同二年弘法大師の御開創の名刹で平城天皇の勅願所で、本尊は薬師如来
大師は一木に本尊薬師如来、脇仏阿弥陀如来、十一面観世音の三体を刻まれ、残りの霊木で舟形の南無阿弥陀仏の名号を刻まれた
山門
参道
本堂
内陣
大師堂
心経宝塔
寶聚殿
観音像
八体佛