興善寺 奈良市都祁白石町2518 PK-30台
(融通念仏宗 大念仏寺末)大栄山「興善寺」 火災にあい記録類を焼失していますが寺伝によると天正年間(1573~92)に道音により開基されたと伝わります 現在の本堂は元禄9年(1581)の建立 石仏は、本堂の左横の階段を上る。 御朱印はやってません
興善寺 奈良市都祁白石町2518 PK-30台
(融通念仏宗 大念仏寺末)大栄山「興善寺」 火災にあい記録類を焼失していますが寺伝によると天正年間(1573~92)に道音により開基されたと伝わります 現在の本堂は元禄9年(1581)の建立 石仏は、本堂の左横の階段を上る。 御朱印はやってません
観音寺 奈良市都祁友田町(字坂久保)286 途中にある郵便局に停めて歩く五分程度
現在は友田の集会所・墓寺となっています (高野山真言宗)舎利山「観音寺」です 創建由緒など不詳 明治18年の火災で、すべて灰になってしまったそうです 本尊;木造正観音菩薩 境内の大師堂には弘法大師の石造が安置されています 奈良の寺社より
都祁水分神社 奈良市都祁友田町182 PK-space あり
俗に「友田宮」・「水分宮」すいぶんのみやとも言われます 創祀は詳かで有りませんが 元慶3年(879)現都祁山口神社のある小山戸の高山に萱葺の社殿を建て 天禄2年(971)現在地に移転して下宮と称し、元の小山戸を上宮と言ったそうです 本殿は一間社春日造檜皮葺で総丹塗です 奈良の寺社より
万葉歌碑-- 和銅5年(712)に、長田王を伊勢の斎宮に遣はす時に、山辺の御井にして作る歌「山辺の御井を見がてり神風の伊勢娘子ども相見つかるも」万葉歌碑- 81 長田王
中山廃寺への道 天理市中山町493 長岳寺に車を停める 長岳寺より徒歩10分 秋分の日で山の辺の道を行き交う人が多かった 長岳寺近くの「志古」でザルソバ¥650
中山廃寺
古墳の石棺材に彫り窪めた仏像。 鎌倉時代の作、高さ89cm・幅42cmの石棺材に舟型を彫りくぼめ、薄肉彫りの蓮華座に坐している
像高31cmの定印阿弥陀像が半肉彫りされています穏やかで端正なお顔です 奈良の寺社より 人麻呂の歌-衾道(ふすまぢ)を 引手の山に 妹を置きて 山径(やまじ)を往けば 生けりとも無し
御旅所坐神社 歯定神社 念仏寺の南 大和神社の境外摂社で「御旅所坐神社」別称「大和稚宮神社 中山廃寺跡と中山大塚古墳、歯定神社、大和神社お旅所は、ほぼ同じ所に存在する。手前に中山町公民館があり、その先の広場の真ん中に、 大和神社御旅所の標柱が建っている。その右手の森が中山大塚古墳である。森の中に歯定神社と大和神社御旅所坐神社が並んで建っている
歯の形に似せた磐座に注連縄が
長岳寺 天理市柳本町508 PK-Free 長岳寺千燈会の準備中
弥勒丘(みろくおか)弥勒石龕仏 龍王山への道を徒歩15分ほどのところ トレイルセンタ-で道を聞いていたところトレイルセンターの農家のおじいさんに軽四で連れてもらう 一人ではとてもわからないところにある 。畦道から、石龕仏まで,獣除けの電気線が貼ってあり要注意。長岳寺の北東の山裾に弥勒丘と呼ばれる所があり,そこに前向きに倒れかかった弥勒石龕仏がある。木の根が張っているので,いずれ倒れてしまうかもしれない。蓮華座に坐し、右手に錫杖、左手に宝珠を持つ。像横に貞和五年(1349)の刻銘が入る。善教の作といわれている
念仏寺 奈良県天理市中山町401 PK-なし 今は廃寺の「旧中山寺」の一坊とされます (浄土宗) 大塚山宝性院「念佛寺」です 明応7年(1498)の地震で炎上 天文19年(1550)に十市遠忠(十市城主)が再興 宝永6年(1709)に再び焼失し、同年沢公が再建 本尊;阿弥陀如来立像(焼け残りの弥陀) 奈良の寺社より 御朱印代を,払おうとしたら,お金はもらってませんとのこと。今までお寺を回っていて,初めての経験であった。
柳本は、慶長5年(1600)織田信長の弟で茶人としても知られた織田有楽斎(うらくさい)の知行地となり、さらに元和元年(1615)有楽斎の五男尚長(ひさなが)が入府して、柳本織田藩の祖となった。 柳本織田氏の菩提寺である専行院には、有斎・尚長をはじめ歴代藩主の墓が残っている。本堂の前に阿弥陀石棺仏が立っている。阿弥陀石棺仏の右には建治2(1276)年の地蔵石仏がある