SpiMelo! -Mie Ogura-Ourkouzounov

L’artiste d’origine Japonaise qui mélange tout sans apriori

他者との共有

2024-12-05 14:07:00 | Essay-コラム
クリスマスの近づく雨降りのパリ

最近、パリ19区音楽院の即興アトリエの新同僚となったドラマーのエッジと、小学校1年生のための「スパイラル」即興プロジェクトのため、地域の小学校によく一緒に行っている。


セッションが終わって職員室でコーヒーを飲みながら


「さっき、子供に歌歌った時さ、あんたって歌上手いよな、って思った」 ってエッジが言うから


「え?まさか。管楽器奏者だから息の扱い方は分かってるけど、声は生まれながらにして良い声じゃないよ」 って言うと、


「そんなの、うそさ。それは「自分の声」だろう?良い声、良くない声、なんてないさ」


そこでドキッとした。私自身、もしかしてあの私の嫌いな教育に毒されているのかも知れない。自分の可能性を狭める、あの教育に。


「確かにあんたの言う通りかも!クラシックだと、よくフルートの試験やコンクールに来た審査員が言うのよ、「君の音は良くない」ってね。

いっつも思ってた、何がよくないのかってね。何の権利があってそういう言い方出来るのか、って。それって「君の顔は良くない」って言ってるのと同じだって分からないのかって」


「それってさ、そいつらの頭の中に「良い音」のモデルがあって、それから外れてたら認めないってことだろ」


「そうそう!君のヴィブラートはバッハには相応しくない、とか、君のタンギングはモーツァルトに相応しくない、とか、それ自分が思ってるだけじゃん。バッハやモーツァルトに会ったことあるのか?って聞きたいよね()


「そうだね、クラシックでは他人の作品を解釈する。変装するってことだ。でも変装するのは誰だ?自分自身だろう。自分自身がなくて、誰かが考えた「モデル」しかないのに、どうやって変装するんだ?」


(膝を叩いて)なるほど!インプロビゼーションについても、やっぱりそういう音楽教育__モデル至上主義で、自分を否定する__をずっと受けて来たら、当たり前だけど即興しなくなる。

だから即興自体を否定する。つべこべ言わず音楽家は書いたものを弾いてなさいってね」


「それね、俺何でか知ってるよ。植民者たちは音楽を書いて来た。だから土着民のやってたトランス的な「インプロヴィゼーション」を受け入れることは、自分たちのやったことを否定し、彼らを受け入れることになるんだ。だから西側諸国の多くの人たちは何処かで、即興に対するブロックがあると思う」


ドカン、さすがフランスの植民地、カリブ海のグヮドループ島出身の黒人。ちょっとタブー的な物言いだが、見事に核心を突いている。


しかし生粋の白系フランス人であるもう一人の親愛なる同僚、アフリカ音楽専門家のクリストフにこの話をしたら、もうウハウハで同意しそうである。完全な例外が存在する、ということはどんなに勇気づけられることだろう。


私の周りは、幸福なことに例外に満ちているのだ。


本当の意味での「自分」が常にないがしろにされると、どうなるだろう。「自分」は他人より上手いんだ、という空っぽで平べったいエゴになってしまう。


そしてその裏返しは「自分はダメなんだ」という失望。


「自分てスゴい」も「自分てダメ」も、どっちもコインの裏表の如くエゴの裏表である。


自分とはスゴいのでもなくダメなのでもなく、自分自身なだけなのである。


この間ピアニストのマリア・ジョアン・ピレシュが語る「芸術家と社会」の記事見たけど、ばっちりそのことが書いてあった。 


そこには、私やエッジやクリストフが即興アトリエで常に追求している、楽譜を使わない耳伝えから音楽に入る方法、空間と音、身体意識、自由、想像力、イメージとアイデアについて書かれていた。


「現在、若手の音楽家の多くが競争によってエネルギーが枯渇し、十分に社会との繋がりが持てていない」と彼女は述べている。


そしてモデルイメージをなぞり、「一日10時間の練習で出来上がる、統一された、ロボットのような、真の意味で楽譜を読むこのと出来ない演奏」に警笛を鳴らしている。


そして「他者へのリスペクトを本質とする芸術創造」と「競争」は相反する、とピシャリと言っていらっしゃる。


同僚エッジは若い頃ずっと数学をやっていて、マイルス・デイヴィスのコンサートを聴いて目覚め20歳でドラムを始めた。クリストフは24歳でアフリカに行き、アフリカ文化とアフリカンパーカッションの魅力に目覚めた。


うちのパートナーのギターのアタナスにしたって、15歳でギターと作曲を始めるまで、森で遊んだり軍隊に取られたり、全く箱入り音楽家とは違う道を歩んできている。


私はと言うと、3歳で音楽を始めずっと音楽浸りで来たために、逆に音楽の社会という狭い考え方から出て開けた考え方に至るまでに、フランス社会に出て相当の修行をしなければ彼等に追いつけなかった、50歳のスロースターターである。


どんな道を通ったって良い。何歳で始めるだとか、なんのコンクールを取っただとか、どこの音楽院を出たかとか、そんなのは本当は音楽の理解には何の関係もない幻想で、「他者との共有」これこそが音楽だ、そう思う。








2 Comments

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Unknown (ナオフミルク♪)
2024-12-12 22:42:02
春(冬だけど)の坂の上、良くも悪くもない。
花の枝は自然に長いものや、背の低いものもある🌸🐉

俺も3才でバイオリン🎻を始め発表会に何回か出た記憶があるぜ♪けどもう忘れちまって弾けないのさ……(T_T)
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Unknown (ナオフミルク♪)
2024-12-17 02:24:42
> ナオフミルク♪ さんへ
> 春(冬だけど)の坂の上、良くも悪くもない。... への返信ええ!ヴァイオリン習ってたんだ!!しーらーなーかーったーー!!!😂
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