SpiMelo! -Mie Ogura-Ourkouzounov

L’artiste d’origine Japonaise qui mélange tout sans apriori

現代の世界、お金のカラクリ

2024-12-16 16:26:00 | Essay-コラム

19区から望む冬のサクレ・クール


ついに「スパイラル」即興プロジェクトの小学校出張が今年度分全て終わった。


パリ19区は、難しい地区もたくさんある。

そういう移民の多い貧困地区では、子供たちは6歳で全く集中力がなく、きちんと座ることも、ちゃんと話を聞くこともできない子供が多数派だ。


そういう学校で生徒たちひとりひとりに臨機応変に対応し、音楽を教えるのは並大抵ではない。


しかも、一緒にやっている、前ブログにも登場した同僚のドラマー・エッジは、性格は違えどびっくりするほど私と教育のアプローチが似ていて、全ての授業が「インプロヴィゼーション」(準備はしてきても、その場で起こることを一番重視して、なるがままに任せる)というやり方なので、一瞬一瞬が全力投球なのだ。


インプロヴィゼーションを教えるのなら、授業自体が「インプロヴィゼーション」でなくてはならない。私たちは心からインプロヴィゼーションを信じている同志である。



持参したポット一杯のコーヒーを二人で飲み干しながら、


「フヒー疲れた!なんて大変な仕事んだろうね。給料倍にしてほしいわ!!」


「本当に!この国さ、冗談抜きで教育と医療の従事者の給料を倍にしてみろよ。絶対社会が良くなるからさ。」


なんて話していると、


「え?でもお金だけじゃ物事は解決しないでしょう」とそこに居合わせた音楽院のある職員が一瞬反論したが、エッジが完全に論破してしまった。


「そんなことないさ。お金ってただの「お金」じゃないんだ。それはその人への「考慮」なのさ。その人の仕事をリスペクトしているという印なのさ。それを示されたら絶対に人はいい仕事をするんだ。そしてそれは子供だって患者だって感じとるんだ。必ず良いエネルギーが循環する」


私が思っていることを歯に衣着せぬ言葉でズバッと言ってくれる同僚に恵まれたので、最近なにかとスッキリ!の連続である。


「お金」とは汚いものである、だから教育者や医療従事者など大して払わなくても殉業してくれる人に任せて、原子力やら軍備やら戦争やら、利権の絡む事柄にはお金を惜しみなく払う。金のことを話すなんて美しい職業には相応しくない。そういうイメージを散々私たちは刷り込まれている。そしてそのせいでどんどん教育や文化や医療が低下して国家危機になっている。


大体、みんなお金がないないと言いながら、誰でもスマホ、パソコン、車は買う。でもコンサートのチケットや楽器の修理代は「高い」と言って払わない。


最近ピカイチの仕事を一緒にしているアーチストのシャルリー・オブリーも、エッジと同じくこの現在の世界のカラクリを誰より理解し、実行している一人である。


彼はお金のあるところに堂々と挑んでいく。そして獲得する。そしてそのお金をより大きな場で芸術に還元し創造する。自分が芸術に寄与するのにそれが当然だ、と思っているからだ。


彼は繊細で、エネルギーの循環を感じとることが出来るから、自分がどうしたいより先ず他人の気持ちをまず理解しようとし、他人を絶対無碍に扱わない。大きな共同理解を社会に育てることイコール、芸術を育てることだと思っている。それには自暴自棄にならない規則正しい生活態度が一番重要だといつも言っている。


すごいなあ、と心から思う。

こういうやり方は、エゴを一掃して、自分が社会に対し何に寄与出来るのか?が分かってないとと出来ないと思う。


民意に与して多数派に好かれるものを計算し、他人を利用して有名になり、浅ましく私腹を肥やしている、そして金とエゴの塊になってセクハラやパワハラで身を持ち崩す、多くの「自称」アーチストと正反対のアプローチである。


この前「スパイラル」のベース担当の、これまた同僚のマチューとお昼を食べながら話したのだけど、IT技術者出身で、現在は音楽院の小学校プロジェクト担当をしながら音楽家である彼も、自分の経験から「エゴ」、これこそ全ての仕事を妨げるものなんだ、と言う。 


最近、こういう人たちと出会って仕事をする中で、リハーサルをしていても、音楽院で仕事をしていても、誰が自分側からのみものを見ていて、誰がエゴを排してモノごとに直に向き合っているのか、怖いぐらいすぐに分かるようになって来た。昔は人の表面に囚われてそういうのがなかなか分からなかったから、どうやら年をとると良いこともあるみたいである。


また、今年度からノルマンディー高等音楽教育機関という大学でも教鞭をとらせていただいているが、そこの生徒たちも、今まさに私が現実で生きている命題に挑んでいて、その経験がすぐに若い人たちに還元されている、という実感があるから、時々ルーアンに行くのを心から楽しみにしている。一緒にディスカッションしながら答えを探し出していくのが、とてもエキサイティングである。


お金って、使い方によっては絶対に世界は良くなっていくんだと思う。使い方を誤ったこのおかしなエゴの悪循環を超えて、汚いものたちにお金を回させず、勇気を持って大切なところに還元するのが、私たちアーチスト、また教育者の使命ではないだろうか。


芸術とは社会だ。2025年に向け、いよいよ準備が整って来ている!そう感じる年末なのでした。








他者との共有

2024-12-05 14:07:00 | Essay-コラム
クリスマスの近づく雨降りのパリ

最近、パリ19区音楽院の即興アトリエの新同僚となったドラマーのエッジと、小学校1年生のための「スパイラル」即興プロジェクトのため、地域の小学校によく一緒に行っている。


セッションが終わって職員室でコーヒーを飲みながら


「さっき、子供に歌歌った時さ、あんたって歌上手いよな、って思った」 ってエッジが言うから


「え?まさか。管楽器奏者だから息の扱い方は分かってるけど、声は生まれながらにして良い声じゃないよ」 って言うと、


「そんなの、うそさ。それは「自分の声」だろう?良い声、良くない声、なんてないさ」


そこでドキッとした。私自身、もしかしてあの私の嫌いな教育に毒されているのかも知れない。自分の可能性を狭める、あの教育に。


「確かにあんたの言う通りかも!クラシックだと、よくフルートの試験やコンクールに来た審査員が言うのよ、「君の音は良くない」ってね。

いっつも思ってた、何がよくないのかってね。何の権利があってそういう言い方出来るのか、って。それって「君の顔は良くない」って言ってるのと同じだって分からないのかって」


「それってさ、そいつらの頭の中に「良い音」のモデルがあって、それから外れてたら認めないってことだろ」


「そうそう!君のヴィブラートはバッハには相応しくない、とか、君のタンギングはモーツァルトに相応しくない、とか、それ自分が思ってるだけじゃん。バッハやモーツァルトに会ったことあるのか?って聞きたいよね()


「そうだね、クラシックでは他人の作品を解釈する。変装するってことだ。でも変装するのは誰だ?自分自身だろう。自分自身がなくて、誰かが考えた「モデル」しかないのに、どうやって変装するんだ?」


(膝を叩いて)なるほど!インプロビゼーションについても、やっぱりそういう音楽教育__モデル至上主義で、自分を否定する__をずっと受けて来たら、当たり前だけど即興しなくなる。

だから即興自体を否定する。つべこべ言わず音楽家は書いたものを弾いてなさいってね」


「それね、俺何でか知ってるよ。植民者たちは音楽を書いて来た。だから土着民のやってたトランス的な「インプロヴィゼーション」を受け入れることは、自分たちのやったことを否定し、彼らを受け入れることになるんだ。だから西側諸国の多くの人たちは何処かで、即興に対するブロックがあると思う」


ドカン、さすがフランスの植民地、カリブ海のグヮドループ島出身の黒人。ちょっとタブー的な物言いだが、見事に核心を突いている。


しかし生粋の白系フランス人であるもう一人の親愛なる同僚、アフリカ音楽専門家のクリストフにこの話をしたら、もうウハウハで同意しそうである。完全な例外が存在する、ということはどんなに勇気づけられることだろう。


私の周りは、幸福なことに例外に満ちているのだ。


本当の意味での「自分」が常にないがしろにされると、どうなるだろう。「自分」は他人より上手いんだ、という空っぽで平べったいエゴになってしまう。


そしてその裏返しは「自分はダメなんだ」という失望。


「自分てスゴい」も「自分てダメ」も、どっちもコインの裏表の如くエゴの裏表である。


自分とはスゴいのでもなくダメなのでもなく、自分自身なだけなのである。


この間ピアニストのマリア・ジョアン・ピレシュが語る「芸術家と社会」の記事見たけど、ばっちりそのことが書いてあった。 


そこには、私やエッジやクリストフが即興アトリエで常に追求している、楽譜を使わない耳伝えから音楽に入る方法、空間と音、身体意識、自由、想像力、イメージとアイデアについて書かれていた。


「現在、若手の音楽家の多くが競争によってエネルギーが枯渇し、十分に社会との繋がりが持てていない」と彼女は述べている。


そしてモデルイメージをなぞり、「一日10時間の練習で出来上がる、統一された、ロボットのような、真の意味で楽譜を読むこのと出来ない演奏」に警笛を鳴らしている。


そして「他者へのリスペクトを本質とする芸術創造」と「競争」は相反する、とピシャリと言っていらっしゃる。


同僚エッジは若い頃ずっと数学をやっていて、マイルス・デイヴィスのコンサートを聴いて目覚め20歳でドラムを始めた。クリストフは24歳でアフリカに行き、アフリカ文化とアフリカンパーカッションの魅力に目覚めた。


うちのパートナーのギターのアタナスにしたって、15歳でギターと作曲を始めるまで、森で遊んだり軍隊に取られたり、全く箱入り音楽家とは違う道を歩んできている。


私はと言うと、3歳で音楽を始めずっと音楽浸りで来たために、逆に音楽の社会という狭い考え方から出て開けた考え方に至るまでに、フランス社会に出て相当の修行をしなければ彼等に追いつけなかった、50歳のスロースターターである。


どんな道を通ったって良い。何歳で始めるだとか、なんのコンクールを取っただとか、どこの音楽院を出たかとか、そんなのは本当は音楽の理解には何の関係もない幻想で、「他者との共有」これこそが音楽だ、そう思う。