毎日新聞のネット版、MSNニュース内にある読み物のコーナーで、偶然にも先日ご紹介した「こころの傷を読み解くための800冊の本」の中で、何度もお名前が出てくる、精神科医の齋藤学さんのこころに関するお話のシリーズを見つけました。
今回のこのお話も最近あった事件に関連していて、とても興味深いお話ですが、ここのバックナンバーの中にも「メール依存症の女」「性差逆転の親たち」など、実に興味深いお話があります。お時間があったら、ぜひご覧下さい。
http://www.mainichi-msn.co.jp/kurashi/kokoro/century/news/20061004org00m100084000c.html
以下 全文引用
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秋田県藤里町の団地は過疎対策として10年ほど前に開発された町営団地であった。28世帯のうち10世帯は他から転入してきたという。転入世帯の人々も含めて、この団地の住民は地元の自治会や運動会に無関心であり、お互いどうしも淡い付き合いしかしていなかったので、農村の中の「都会」のようだったと地元の人は言っている。今年4月に9歳の娘を殺し、その1カ月余り後に娘の同級生の弟であった小1男児までも殺めた畠山鈴香容疑者(33)の母子世帯もこうした孤立した世帯のひとつだった。そして、わずかに付き合いのあった近隣の一家の男児が被害者になった。
この事件についての一連の情報から透して見えてくる鈴香という女性のありかたそのものは、私が日々の精神科臨床で接する母親たちから大きく隔たっているようには思えない。この事件についての報道が多かった7月ごろ、診察に来ていた6歳の娘の母親は夫から「鈴香容疑者とそっくりだ」と言われたと苦笑していた。「先生もそう思われますか?」と聞かれたが「そんなことないよ」とは即答できなかった。彼女も母親としての自分に意味を見つけられずにいる。「死にたい。せめて消えたい」と思うほどの空虚感の中に漂っていて、そこに何かが付け加われば事件を起しかねない人だからだ。最近ある地方都市へ引っ越して近隣の人間関係から孤立しているところも似ている。
この女性と鈴香容疑者との違いは夫と暮していて、取りあえずの生活に困っていないことだが、それも決定的な違いとまでは言えない。他の母親の中には暴力夫から逃げ出してきて生活保護を受けたりしている人々もいるからだ。より重要な相違は、クリニックを訪れてくる母親たちが自分の抱えている「危うさ」に悩んでいる点にある。逆に言えば、世の中にはたくさんの畠山鈴香がいて、それぞれ孤立しながら世間やら他人やらに怒りを抱き、たった一人だけで頑張ってしまっているということだ。
児童虐待を臨床のテーマにしていると「母子関係とは脆(もろ)いもの」と思えてくる。世間の人々が信じたがっているような「母の愛」とか「強さ」というものは感じない。むしろ「母親ともあろうものが」という世間の母親信仰が母親を追いつめているように見える。
日本では婚外子出産が2%と極端に少ないが、これも実は社会が母親というものを一定の枠に閉じこめようとしているからで、枠から出ようとする女性たちへの世間の目は冷たい。こうした時、母親の不満や怒りは無力な子どもに向かいがちなので、「危ない」と思う。特にその母親が空虚感、抑うつ感に覆われ、衝動制御に問題のあるような人格(境界パーソナリティー障害)である場合には危ない。
この事件の場合、警察が事故と判断した娘の死に関して容疑者が「人手が絡んでいる」と言いはってビラまきまでしたり、マスコミの取材を受け続けたり、ついには他人の子を殺めるまでに至ったことが奇怪とされているのだが、ここに述べたような空虚感にとらわれた弱い母親に見られる代理ミュンヒハウゼン症候群の亜型とみなせば説明可能である
普通は我が子にけがを負わせたり、発熱その他の身体症状を起させたり(医療従事者なら可能だ)して救急車で病院を訪れ、大事な我が子が死に瀕(ひん)している「悲劇の女性」を演じ、医療関係者の注目と同情を集める。これと似たことを極端な状況のもとに行なったのが鈴香容疑者ではないか。このような女性たちは、社会の辺縁にいて人々に無視されていると思いこんでいるおり、その分だけ人々の注目を必要としているのだ。
こうした母親たちに出会った時、私たちは子どもを代理母ないし養護施設に預けることを勧める。しかし、この種の母であればこそ、子育てを「生きがい」にして自らの空虚感を埋めようとする。被虐待児としか言いようのない子どももまた、そうした母から離れたがらないから、こうした母子分離の危機介入のたびに、私たちは生木を引き裂いているかのような罪悪感に苛(さいな)まれる。しかし、これをやっておかないと大変なことになると知っているから、心を鬼にしてやる。そのことを責任行政機関である児童相談所はどれだけ認識しているのだろう。児相(児童相談所)の踏み込みが足りなかったばかりに殺されてしまった事件(例えば福島県泉崎村の3歳児衰弱死事件)に出会うたびにそれを疑う。
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私がこのお話に興味を引かれるのは、ごく身近に、酷く不安定なお母さんが居られるからなんです。四年ほど前から近所のアパートにご両親とお子さんと三人でお住まいなんですが、お子さんも一時期とても不安定で、はらはらする出来事がたびたびありました。以前よりは、だいぶ落ち着いておられるようですが、うーん。
ご本人は近所なんて関係ないと、こちらへの影響を考えもしないでしょうけれども、そのお子さんが勝手に学校から帰って来て、家に入れず(お母さんはお子さんが帰って来るぎりぎりの時間まで実家に居るんです)泣き叫ぶので、アパートにお住まいの方と私とで、学校に連絡して先生が来るまで家でココアを飲ませてあやした事や、夜中と言わずに外に出されて大泣きするのを延々聞かされるなど、影響ってあるんですよ。そういう事があったら、普通は大丈夫かしらって思うでしょう?子ども会の行事やなんかにも、出て来るようになったので、少し安心しては居るんですけどね。
これが「余計なお世話、これだから田舎は詮索するから嫌だ」と思われる方には、まったくもってその通りと思います。でも、普通に生きていたら、誰もが何かにか他人に関わって暮らしていますよね、それがどうでも良いとしか感じられなかったら、ほんとうに怖い、と私は思うんです。
今回のこのお話も最近あった事件に関連していて、とても興味深いお話ですが、ここのバックナンバーの中にも「メール依存症の女」「性差逆転の親たち」など、実に興味深いお話があります。お時間があったら、ぜひご覧下さい。
http://www.mainichi-msn.co.jp/kurashi/kokoro/century/news/20061004org00m100084000c.html
以下 全文引用
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秋田県藤里町の団地は過疎対策として10年ほど前に開発された町営団地であった。28世帯のうち10世帯は他から転入してきたという。転入世帯の人々も含めて、この団地の住民は地元の自治会や運動会に無関心であり、お互いどうしも淡い付き合いしかしていなかったので、農村の中の「都会」のようだったと地元の人は言っている。今年4月に9歳の娘を殺し、その1カ月余り後に娘の同級生の弟であった小1男児までも殺めた畠山鈴香容疑者(33)の母子世帯もこうした孤立した世帯のひとつだった。そして、わずかに付き合いのあった近隣の一家の男児が被害者になった。
この事件についての一連の情報から透して見えてくる鈴香という女性のありかたそのものは、私が日々の精神科臨床で接する母親たちから大きく隔たっているようには思えない。この事件についての報道が多かった7月ごろ、診察に来ていた6歳の娘の母親は夫から「鈴香容疑者とそっくりだ」と言われたと苦笑していた。「先生もそう思われますか?」と聞かれたが「そんなことないよ」とは即答できなかった。彼女も母親としての自分に意味を見つけられずにいる。「死にたい。せめて消えたい」と思うほどの空虚感の中に漂っていて、そこに何かが付け加われば事件を起しかねない人だからだ。最近ある地方都市へ引っ越して近隣の人間関係から孤立しているところも似ている。
この女性と鈴香容疑者との違いは夫と暮していて、取りあえずの生活に困っていないことだが、それも決定的な違いとまでは言えない。他の母親の中には暴力夫から逃げ出してきて生活保護を受けたりしている人々もいるからだ。より重要な相違は、クリニックを訪れてくる母親たちが自分の抱えている「危うさ」に悩んでいる点にある。逆に言えば、世の中にはたくさんの畠山鈴香がいて、それぞれ孤立しながら世間やら他人やらに怒りを抱き、たった一人だけで頑張ってしまっているということだ。
児童虐待を臨床のテーマにしていると「母子関係とは脆(もろ)いもの」と思えてくる。世間の人々が信じたがっているような「母の愛」とか「強さ」というものは感じない。むしろ「母親ともあろうものが」という世間の母親信仰が母親を追いつめているように見える。
日本では婚外子出産が2%と極端に少ないが、これも実は社会が母親というものを一定の枠に閉じこめようとしているからで、枠から出ようとする女性たちへの世間の目は冷たい。こうした時、母親の不満や怒りは無力な子どもに向かいがちなので、「危ない」と思う。特にその母親が空虚感、抑うつ感に覆われ、衝動制御に問題のあるような人格(境界パーソナリティー障害)である場合には危ない。
この事件の場合、警察が事故と判断した娘の死に関して容疑者が「人手が絡んでいる」と言いはってビラまきまでしたり、マスコミの取材を受け続けたり、ついには他人の子を殺めるまでに至ったことが奇怪とされているのだが、ここに述べたような空虚感にとらわれた弱い母親に見られる代理ミュンヒハウゼン症候群の亜型とみなせば説明可能である
普通は我が子にけがを負わせたり、発熱その他の身体症状を起させたり(医療従事者なら可能だ)して救急車で病院を訪れ、大事な我が子が死に瀕(ひん)している「悲劇の女性」を演じ、医療関係者の注目と同情を集める。これと似たことを極端な状況のもとに行なったのが鈴香容疑者ではないか。このような女性たちは、社会の辺縁にいて人々に無視されていると思いこんでいるおり、その分だけ人々の注目を必要としているのだ。
こうした母親たちに出会った時、私たちは子どもを代理母ないし養護施設に預けることを勧める。しかし、この種の母であればこそ、子育てを「生きがい」にして自らの空虚感を埋めようとする。被虐待児としか言いようのない子どももまた、そうした母から離れたがらないから、こうした母子分離の危機介入のたびに、私たちは生木を引き裂いているかのような罪悪感に苛(さいな)まれる。しかし、これをやっておかないと大変なことになると知っているから、心を鬼にしてやる。そのことを責任行政機関である児童相談所はどれだけ認識しているのだろう。児相(児童相談所)の踏み込みが足りなかったばかりに殺されてしまった事件(例えば福島県泉崎村の3歳児衰弱死事件)に出会うたびにそれを疑う。
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私がこのお話に興味を引かれるのは、ごく身近に、酷く不安定なお母さんが居られるからなんです。四年ほど前から近所のアパートにご両親とお子さんと三人でお住まいなんですが、お子さんも一時期とても不安定で、はらはらする出来事がたびたびありました。以前よりは、だいぶ落ち着いておられるようですが、うーん。
ご本人は近所なんて関係ないと、こちらへの影響を考えもしないでしょうけれども、そのお子さんが勝手に学校から帰って来て、家に入れず(お母さんはお子さんが帰って来るぎりぎりの時間まで実家に居るんです)泣き叫ぶので、アパートにお住まいの方と私とで、学校に連絡して先生が来るまで家でココアを飲ませてあやした事や、夜中と言わずに外に出されて大泣きするのを延々聞かされるなど、影響ってあるんですよ。そういう事があったら、普通は大丈夫かしらって思うでしょう?子ども会の行事やなんかにも、出て来るようになったので、少し安心しては居るんですけどね。
これが「余計なお世話、これだから田舎は詮索するから嫌だ」と思われる方には、まったくもってその通りと思います。でも、普通に生きていたら、誰もが何かにか他人に関わって暮らしていますよね、それがどうでも良いとしか感じられなかったら、ほんとうに怖い、と私は思うんです。