いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」

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郵政民営化の考察5

2005年03月01日 22時24分46秒 | 社会全般
先日の政府側が提示した、4事業の収益見通しなどについて、自民党内から批判が相次いだ、とのことである。そして本日、自民党本部で郵政改革合同部会が開かれた模様。共同通信によると、民営化により年間で最大約6000億円の増益が見込めるとの政府試算をめぐって、「前提条件があいまいであまりにずさん。党をばかにしている」「(増益という)結論ありきの試算だ」などと批判が相次いだとのこと。与謝野さんもガッカリの様子。ちょっと可哀想。


しかし、反対派は本当のバカだな。今後の収益に不安がなければ、本当に国から切り離して公社単独として運営していけるということだ。完全民営企業か公設民営企業かの違いならば、対した問題でもないだろう。4つの事業会社(窓口NW、郵便、貯金、保険)の利益をそれぞれA、B、C、Dとして、公社全体でKとしよう。公社の収益はK=A+B+C+Dとなる。反対派は、公社のままでKが十分大きければよい、という判断なのだろう。バカ野郎だな、自民党議員は。公社の民営化を仮定した場合、単に現在のKを4つに切り分けただけであるから、民営化会社でも公社のままでも、Kの大きさは変わらない(厳密に言えば、租税公課の分など変わってくるかもしれない)。政府案は、A~Dの個々の収益を「増加させる要因」について検討した結果、事業が好調ならば上昇余地が6千億円あるということなので、本当は不利益は存在しないはずだ。ところが、これには落とし穴がある。


反対派が戦々恐々とすることがあるのだ。それは、今までの資産が従来通り使えないという点である。約340兆円の資産が自由にならない。仮に年利1.5%で長期運用するなら、現在でもそれ程困難ではない。これだけで、利息収入は約5.1兆円になる。公社の平成15年度利益は2.3兆円程度であるから、これよりは悪い。郵便事業などを行っているから、単純には言えないのであるが。人件費は約2.4兆円程度なので、人件費を払った残りが、ほぼ利益として積みあがるという寸法である。特に何もしなくとも、である。巨大資産があれば、何もせずとも、これだけで利益を残すことは簡単なのである。これが、公社の収益を支える源泉なのである。


因みに、公社の収益項目のうち、約3.7兆円くらいが預託金の利息収入となっている。これは政府系機関への貸出なのであるが、この貸付がなければ、公社の収益構造などすぐに吹き飛ぶ。バカな反対派議員はこういうことに頭が回らないか、知っていて敢えて隠しているかであろう。政府の債務保証付きで国民から集め続けた巨額資産の上にあぐらをかいて、「儲けが出ています」というのは全くの錯覚なのである。これに比べれば、郵便事業の収益など、ゴミみたいなものだ。230億円程度しかない。このままいけば、郵便事業は将来的には恒常的赤字となりかねないだろう。郵便事業は、一般的な物販などとは違って、「大ヒット商品」とかが登場するわけではないし、急に収益が上向くことも有り得ないのだ。一発当てることは無理なのである。従って、構造的不採算が起こり、慢性赤字へ転落してしまうということだ。前から書いているように(郵政民営化の考察2)、ここ数年来、郵便物の絶対数が減少しているトレンドに変化はない。郵便事業収益の下降トレンドもこれと全く正比例だ(当たり前ですが)。これを変える方法やビジネスモデルは思いつかない。


今後の政府方針としては、政府系機関の統廃合や整理縮小が当然視野に入っているであろう。となれば、今までの預託金は回収へと向かい、公社の適当な貸付先はどんどん消えていく。公社の収益構造を支えていた、預託金収益は大幅に落ち込む。この時に、公社全体を支えきれると言えるか疑問であろう。


民営化後の事業計画で、増収部分の全てがゼロであるならば、現状と全く同じということになる。これを否定するということは、現在の郵政公社事業を当然否定するということになるのである。反対派はよく考えてみた方がよいでしょう。また、反対派は「バカにしている」などと言っていないで(私は先ほどからおもいっきりバカにしていますが)、どうしたら郵便事業の慢性赤字が回避できるか、政府への増収要因をどのように作っていくか、を挙げてみてから反対と言ったらどうだ。何でも文句をつければよいというものでもないだろう。それから、これも前々から(郵政民営化の考察4)言っているように、財投資金をつぎ込んできた、政府系機関の整理をどうつけるのか、言ってみろ。3百兆円を超える債務を抱えた、これらの機関の処分をどうするのだ?バカにつける薬がないとは本当だな。


各事業について、A~Dの割り当てを決めて、自民党側が積算すればいいんだよ。それぞれの事業計画と収益見通しを作ってほしいですね。国鉄、電電、タバコ専売、どれも似たような結果だったろう?放っておけば、公社も必ずお荷物になる。

与謝野さんや園田さんは、ワーワー騒ぐ自民党議員に一喝したらどうですか。「お前達は、日本をこのまま沈めるつもりか。」くらい言ってもいいですから。

改革論議の前進

2005年03月01日 12時55分46秒 | 社会保障問題
今まで社会保障改革の提言(過去の記事(カテゴリー:社会保障問題)を読んでみてください、一部参照記事を入れておきます。社会保障改革への道1社会保障改革への道2医療制度改革4)を続けてきましたが、いよいよ前進する兆しが見え始めました。政府与党は民主党の要求している年金一元化の先行討議の受け入れを示唆したようです。民主党も変な意地を張らずに、「誰の為の議論か」を考えるならば、譲歩する姿勢を見せてよいと思う。


前から述べているが、社会保障の抜本改革は制度設計もさることながら、税制改革との関連もあるため、枠組みの段階が非常に重要となってくる。その検討材料としては、厚生労働省や財務省が作成している現状の基礎的データや将来推計・見通しなども重要な意味がある。これらをよく検討した上で、「総論」としての大枠を作らねばならない。まず、全体像を国民に示すことだ。目に見えない「将来の不安」を払拭し、意識の中にある「破綻懸念」とか「失望」を取り除くことが最も重要だ。しかし、これが非常に困難な作業なのである。何故なら、各制度の積み上げを行いながらも、財政面の裏付けを確認し、税制モデルも作り、国庫の収支予測も作成し、ということになるので、省庁はもとより民間の研究機関などによる「総力戦」が必要になるかもしれない。それくらいの意気込みでやらなければ、到底社会保障改革は進んでいかないだろう。


枠組みが出来上がれば、(議員さんたちの得意用語である)”ロードマップ”を作成し、あとは個別制度の細部について詰めていくことが可能である。現在、最も早く取り掛かれる年金については、他の改革に先行して行う方がよい。これは民主党の意見と同じだ。今後10年間での年金受給者は、相当の伸び率で増加していくことと、金額的規模で見た国家財政への影響が最大だからである。それ故少しでも早く先行して改革に取り掛からなければ、財政圧迫要因を軽減できない。


同時に、国民の覚悟も必要である。不満が出る部分は必ずあるということを念頭に置くべきである。自分にとって都合のよい、百点満点の制度はできっこない。多くが賛成しても、一部には不満が出ることはある。その時に、最大公約数的な妥協点を見出せるように考えておくべきである。また、国民自らも意識改革に取り組むべきである。何でも行政が解決してくれる、というのは、有り得ない時代なのである。地方自治体も人員削減や給与水準の引き下げに取り組まなければ、破綻する可能性だってある。今までのように、行政のお金を当てにはできないことを認識すべきである。地域社会に貢献するシステムを、自分達で作り上げるように工夫するしかない。例えば、町立図書館の職員の半数を、町民ボランティアにするだけでかなりの人件費が浮かせられる。そういうシステムを自分達で作っていく心構えが必要、ということだ。家庭の節約と同じで、小さな一つひとつを積み重ねていくしかない。これには行政も国民も一緒になって皆で知恵を絞り、改善努力を重ね、創意工夫するしかないのだ。地域社会には、そこに合った仕組みがきっと出来てくるはずで、自分が参加者であることを自覚し、そういう地域作りを目指すならば、地方の財政危機を乗り切れるかもしれない。


人事院勧告では、国家公務員の給与の一律引き下げを検討しているようであるが、これも時間があれば個別に検討するべき問題であろう。何故なら、殆どの真面目な職員達はそれ程の高給取りばかりとも言えないであろうし、重要な政策や決定に携わる人が薄給でもよいとも思わないからである。ある程度の重要ポストについては、加給制度を設けるとか何かの工夫も必要であろう。まあ、公用車まで必要とも思えない人達も存在するのは確かなのであるが。国会職員給与が国会議員よりも高いというのも変だし、国会図書館職員の高給ぶりも槍玉に挙がっているようで、職種とか業務内容による金額のバランスも大切ですね。一律カットは、頑張っても空しくなるので、少し可哀想だな、特に末端が。必要な部門に人員不足で深夜まで残業が続き、その一方で不必要な補助金事業とか天下り先への資金供給とかで無駄に食い尽くされているのだ。ごく少数の人の利益を得る為に、残りの職員達は一律カットに見舞われるというのは理不尽だな。そういう「おかしい現状」に気付くなら、もっと内部から改革を進められるはずなのだが。


天下った先で回収しようとするから、無駄に消えるお金が増えるんじゃないか。10億円の補助金出して、その一部分、仮に1億円が人件費として使われたとしても、実質的に自分達の首を絞めることになる。無駄な補助金をカットして10億円を残し、ダイレクトに自分達に3~4億円貰えば、国庫金を6~7億円浮かせられる上に、自分達が3~4倍多く貰えるという、簡単な算数なのである。これに気付かないバカ官僚達が多すぎなのだ。


結局財政が苦しくなれば、「一律カット」で自分達に跳ね返ってくる。こういうことを長年に渡り、あちこちで続けてきたから、今さら直ぐに止められないかもしれないが。自業自得だな。でも、いつの時代も、多くの真面目な末端の職員が迷惑を被るのだ。

マスメディアの自己批判

2005年03月01日 01時41分31秒 | 社会全般
マスメディアが今までの横一線、馴れ合い関係から抜け出す変化の兆候があるかもしれない。これには、少し伏線があったようにも思う。昨年のプロ野球界の騒動である。今までこっそり守ってきた聖域に、いきなり殴り込んだ堀江氏の登場が状況を一変させた。情報をオープンにして大衆を味方につけ、新規参入障壁のぶち壊しを図った。結果的に楽天に敗れはしたものの、企業としての存在を知らしめるのには十分の効果があった。(追記あり)

一方、聖域は世の中に広く公開されてしまい、ナベツネをはじめ球団経営者達の退場者を出すこととなった。ダイエー、阪神、横浜そして西武。今、西武王国は崩壊し、西武鉄道株問題に至っては、刑事事件に発展しそうな勢いである。また、一時代を築いてきたワンマン型経営者達が次々と去ったことは、長老社会の終焉を示唆していた。時代の大きな潮流には逆らえないのである。NHKの海老沢会長辞任劇も、そうした流れによって生み出されたと言えるかもしれない。

(今まで少しNHK問題の記事も書いたが、皆がしつこく取り上げていても、NHKと朝日があまりに愚かしいし、ライブドア問題もバッシングの滑稽さが見られただけで、フジや産経新聞の慌てぶりの報道がくだらないと思った。どちらも注目の話題であるものの、これ以上書いてもしょうがないとも思った。だが、ちょっと感じたことをまとめてみた。)

参考記事:
プロ野球界の「壁」
報道の中立性
マスメディアの正論


あちこちに飛び火した有価証券報告書の問題は、各報道機関にもスポットを当てることとなった。恒常的に不正確な記載が行われていたことが明るみになった。この時に、「メディア支配」の実態が垣間見えるのである。大きな新聞社とテレビ放送局のコンプレックス(複合体)は、自社の系列を厳格に作り出し、ラジオ・出版などを含む他のメディアも支配する構図である。財閥形成のような、株式持合がその根本だ。今回のニッポン放送株の問題でも、それがくっきりと表れている。何に配慮して報道するかは、こうしたメディアコンプレックス内での位置付けによる、ということであり、本来の報道のあり方とは異なった考え方である。


パワーメディア(影響力の大きなテレビや新聞などということです、このような言葉があるかどうか知りません)が頂点となって系列支配を行い、「言論の自由」などと言いながらも実質的には系列内の言論封殺、もしくは自社内でさえ封殺があるかもしれない、というメディア内の大きな問題が出てきている。「公平公正」「中立」などの要件はあるものの、結局のところメディアとして行われてきたことは、メディアコンプレックスの「影響力の最大化」なのではないのか。ニッポン放送株問題で、蜂の巣をつついたように騒いでいたフジテレビ、その系列支配の一翼を担う産経新聞、これらは日枝氏が述べているところの「ジャーナリズム」の本質とは違ったところで、ライブドア問題を報道しているように思うのである。


NHKもパワーメディアの一つであり、新聞は持たないがメディアコンプレックスとしては、最大規模を誇るかもしれない。その内部の問題が、番組改変問題となって顕在化した。およそ政治的・官僚的体質が、いらぬ「政治家の介入疑惑」を呼び込み、国民の「ジャーナリズム」不信の原因を作ってしまった。番組制作に関わる多くの制作会社や下請け会社の存在は、逮捕されたプロデューサーのような不正の温床となり、また、番組改変問題で見られた番組制作や編集権の責任所在の不明瞭さにも通じている。これは、組織肥大化と統治の悪さが、こうした問題に繋がったと言えるだろう。


NHKと朝日新聞の争いは、単なる泥仕合に過ぎず、どちらも自分の了見を主張しているだけである。ラグビーの試合を放送するかしないか、という問題が、胸に「気に入らない文字」が書かれているから、というのも馬鹿な話である。確かに「社名」が必要以上に誇張されてしまうのは問題かもしれないが、この場合には本質的な問題とは違う。にもかかわらず、争っている相手の社名が映るという理由を放送中止の種にするのは、番組放送の意義を取り違えている。もしこれを徹底するなら、プロ野球やJリーグの試合は一切放送できなくなってしまうだろう。「公平公正」の意味について冷静に考えれば簡単に分ることだ。こういう意識が、NHKにも朝日新聞にも存在していること自体が間違いである。これは、フジにも産経新聞にも同じ事が言える。現場の報道担当者達は、自分たちが本当に信じる、理想的な「ジャーナリズム」だけを心掛ければよく、その他には影響される必要がない。これは、どのような時にも同じなのである。


たとえ誰と誰が争っていても、極端な話、自分の父親と母親が争っていたとしても、「ジャーナリズム」の心に基づいて報道すべきなのである。報道の担当者には、ある意味冷徹で第三者的な、視点と心が必要であろう(心の底には、多くの人に伝えたい、という熱望があるのであろうが)。だが、実際には難しいかもしれない。自分1人の判断では、情に流されることも有り得るかもしれない。そういう時にこそ、編集長がいたり、番組制作のチーフがいたりするのではないのか。客観的判断に苦しむかもしれない時に、他の意見を述べる人が報道機関に存在するのでしょう。それが、メディアである自分達が当事者になった途端に、突然公平性も客観性も見失うばかりか、得意の”言論”で「敵をねじ伏せる」ために自分のメディアを専ら利用しようとする、その姿勢や考え方が根本的に間違っていると思う。


こうした報道の根本姿勢に欠けていたために、安倍・中川議員の介入疑惑が持ち上がったのであろう。本来、NHKは議員に番組説明を行う必要性がない上に、仮に議員の1人や2人が「おもしろくないね」とか「もっとましな題材にしろよ」などとイチャモンを言おうが言うまいが全く関係がないはずであるし、そうした発言で番組に影響が出ると考えること自体、志が低すぎる。どんな言葉を投げかけられても、真の「ジャーナリズム」の心をもってすれば、突っぱねて当然である。その審判は、視聴者の批判や世論、または放送倫理機構のような機関での評価に委ねるべきであろう。予算について国会承認を受けることも、一部議員の反対があろうがなかろうが、否決されるということ自体有り得ない話であろう。数人の議員が反対票を投じても、承認が阻止されるというような非常事態は想定しにくい。議員が表明する個々の言葉を、いちいち「政治的圧力」と評価されては、不用意に発言してしまった安倍議員や中川議員がちょっと可哀想だ。国会議員も思うところを発言するなら、「オープンな状況」でガツンと表明するべきであったことは確かなのであるが。議員側の言動にも問題があり、これを材料にされてしまうという甘さがあったと言える。当然のことながら、政治家は不注意な発言を慎むべきであろう。


また、議員が放送前の番組について発言したから、これが即「圧力だ」「政治介入だ」ということに結びつけるのも、非常に困難であろうと思う。他のNHKの職員が「これ変じゃないか?」や「このままじゃ、放送できんぞ」と評価し、番組の編集をするのと、どの様に区分するのであろうか。これも介入ということになるのであろうか。勿論、議員側から、「放送を中止しろ」とか「絶対に○○を消せ」という指示があったならば、これは明らかに介入で、これはとんでもない話であろう。しかし、編集作業そのものを判断するのに、議員が言ったから編集したのか、元々内容が問題であったかの区別は容易ではない。NHKばかりでなく、放送に際しては不適切な部分がないかどうか、番組制作の責任所在を明確化することと編集作業の透明化・明文化などが必要であろう。先日民放で女性タレントの犯罪告白放送があったばかりであるが、これもきちんと編集手続きが経られていないことによるもので、NHKの問題と同様の”落ち度”であると思う。


朝日新聞は、NHKばかりではなく、他のメディアからの非難も受けているが、取材過程の検証ができるような社内体制が必要であるし、これを明らかにする責任がある。取材した記者の言い分を信じる、というだけでは、およそ説得力に欠けるであろう。書いた記者の心証や推論だけで、「政治的圧力」を断定するには公平性が保たれているとは言えない。もしもその根拠となした重要な証拠が存在するならば、当然公表するべきであろう。「番組内容を削除したり変えたりした」「議員は番組について話した」「NHK幹部と議員の接触はあった」というような、状況証拠を組み合わせてストーリーを考えた可能性もあるのではないか、と私は思っている。本当に朝日新聞の取材が正しいならば、司法の場で争う道を選択すること以外にないように思う。このままでは、「言った」「言わない」の水掛け論だからである。新聞記事に自らの正当性を表明する記事を載せるのは、本来的な報道の意味を失っている。パワーメディアのするべきことではなく、そのような報道も期待されていない。これは、NHKも産経新聞もフジテレビも同じである。


このようなパワーメディアの混乱を、他社の報道機関は意外に早く感じ取ったかもしれない。メディアコンプレックスを作り上げてきたこと、同様のパワーを持つもの同士であること、などの共通項があるが、メディア自らの「異常さ」に気づきつつある。あまりに「おかしな」報道姿勢を目の当たりにしたからであろう。当事者以外から見てみると、さすがに「こりゃ変だな、報道として如何なものか」という当たり前の感覚が生じたのではないか。それ故に、徐々にではあるが、他のメディアを冷静に批評したり、客観的に論評するようになってきた。従来の業界結束ということが崩れているのは、長老達の引退が効いている面もあるのかもしれない。メディア同士が批評するというのは、ある種のタブーであったかのようである(雑誌社同士ではありました)が、現状ではそれが崩れており、日テレ会長である氏家氏のコメントがそれを表わしているかのようである。TBSがNHKと朝日の問題について論点を掘り下げ、読売と毎日が冷静にライブドアとフジサンケイグループの問題を解説し、テレ朝がフジテレビへの賛成を表明し…というように、意見が割れてきている。これは、ごく自然なことであり、全員が一方向を向いてバッシングに徹するとか、業界全体で全会一致の見方に徹するという姿勢が薄れてきている。これは、メディア業界の変化の兆候であると思う。今までこのような問題が発生してこなかったから、という意見もあるかもしれないが。


結局のところ、メディア同士が互いに他を批判したりできることは、報道の健全性を保つには必要である。行き過ぎを監視し合えるし、極端におかしな報道は抑制されるからだ。今後もメディア批判が活発に行われることを期待する。またジャーナリズムの本当の心を取り戻して欲しいと思う。


追記:産経新聞の社説を先ほど見ました。24日付産経朝刊の「主張」には、23日付朝日新聞の社説「いきり立つのでなく」に対するお返事、「朝日社説 共に冷静に考えてみたい」と題された社説が掲載されたようです。読んでみて、気持ちは理解できますが、先の産経社説については行き過ぎの感がありました。ですが、朝日新聞の社説と産経新聞の社説の「往復」があったことは知りませんでした。これは非常に意外でした。一連のマスメディア騒動は、メディアの言論やジャーナリズムについての再考をもたらした点は、ある意味良かったと言えるかもしれません。

産経をして「産経としては、仮に朝日の言論性が何らかの横紙破り的行動によって損なわれる事態が起きれば、言論の自由を守る立場から、徹底的に朝日を擁護する」と言わしめたのも意外に思いましたが、記者の少しばかりの意地を見たようにも思います。そこまで腐ってはいませんよ、と言いたいのでしょう。
その後に「『いきり立つ』とか『目くじらを立てる』という批判が産経にも向けられているなら、それは曲解というべきである。また、『独自の言論路線を侵されたくない気持ちはわかるが』と書いたあと、フジサンケイグループの資本構造問題を持ち出す論法には、論点をすり替えられた思いだ。」と書いてあるのも、”らしさ”があって面白い。

最後の「メディアの存在意義は何か、という重い問いが突きつけられているからではないのか。『ここは冷静になってことの本質を考えてみたい』。この言葉はぜひとも共有したいと考える。」というところは、なるほど頷けますね。この言葉が自ら出てきた所に、意味があったと思います。