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401kの「投資教育」は誰の仕事?

2005年03月24日 22時10分26秒 | 社会保障問題
官僚の考えることは、本当によくわかりません。頭がいいのに、どうしてこういう制度を思いつくのでしょう。厚生労働省は、他にやるべき業務はないのかね?これは、東京などの大都市圏に存在する一部上場の大企業だけを中心に考えた制度ですか?まあ、余裕がある大企業ならできるかもしれませんが、日本全国の大多数の中小企業の福利厚生は何倍もの補助を貰う公務員とか大企業並みということはありませんから、事業主が従業員に「投資教育」などできるような環境にないでしょうね、多分。

Yahoo!ニュース - 時事通信 - 加入後も投資教育継続を=401kで事業主向け指針-厚労省

厚生労働省は24日、加入者が自ら運用先を指示する確定拠出年金(日本版401k)で、事業主が従業員を対象に実施する投資教育の指針を作成した。指針は特に、加入後の継続的な投資教育の重要性を強調。「(加入者が)運用を経験しているため、実践的、効果的な知識の習得が期待できる」として、事業主が計画的な実施に努めるよう求めている。 





日本版401kは導入されましたが、今ひとつなんでしょうね。でもね、何でも事業主に役割を押し付けるのは無理があると思うけどね。私は公的年金と確定拠出型個人年金(概ね401kと似たような制度で、というように書いてしまいました)を推奨していますから、その点で考えると、関係があるのです。結論的には、事業主に「投資教育」を計画的実施させることは反対です。事業主は「年金」や「投資」のアドバイスができるような人材とは限らないだろう。従業員個人の投資判断とか運用成績に影響するのに、雇用主が従業員に「投資教育」するのって、ある意味「コワイ」。私がその立場だったら、勘弁してくれ、と思うだろうな。どこかの証券会社とか保険会社とかの人に詳しく教えてもらえば、って思うけど。本来、専門家が教育するんじゃないの?


まず今の日本できちんとした長期運用に耐えうる評価を得られる運用会社が少ないだろうし、ファンドマネージャーにしても当てにできる人なんて殆どいないだろう。従業員への「投資教育」も必要かもしれないが、やるべき順序としては運用会社の充実とか運用担当者への厳しい教育・育成とかファンドの成績・結果重視の制度だろう。無知な投資家にでさえ年金原資として、確実に運用してあげられなければ殆どがまともな成績なんて残せないだろう。そういう運用会社をまず育てるような努力を業界に求めるのが先決ですね。厚生年金運用基金の連中を見ろよ。役人のボケかすどもが大穴あけちゃって、大損しているでしょ。そういう連中に教育しなかったくせに、今後は従業員に計画的投資教育なんて、笑わせるな。ちんけな中小企業では、あれこれ手が回らないだろう。この制度を考えた奴は、労務管理とか福利厚生とか多くがきちんと整った制度を持つ大企業の話しか聞いてないだろう。官僚の考えることなんて、所詮こんなレベル。


「投資」は、官僚が得意でしょ。先日も経産省で有名になった投資家がいたでしょ?逮捕されちゃったけれど。他にも注目を集めた某ファンドの方も、そこのOBでしょ?官僚は結構投資好きが多いんだね。まあ、「経済」を背負っているらしいから、投資が得意でも不思議はないけどね。厚労省に乗り込んで、「何バカな政策を作っているんだ!」って教えてやれよ。「下らねー制度を作るな」って怒ってやれば?こういう一つひとつが怪しいんだよね、厚労省は。


また、何かの組織でも結成しようとしてるんじゃないだろうね?日本版401k対応の「研修・教育機関」として「~~協会」とか「○○センター」とかを作ろうって魂胆なんじゃないの?そこで、各企業に「投資教育計画」を策定させる(もっともらしいけどね、出来レースなんだろうよ。多分基準をクリアできるのは官庁と仲良しの企業だけさ)。計画が公益法人に認められたら、計画策定費として補助金を給付するのと、教育研修を受ける従業員に1人あたりいくらか補助金を出す。そうして、この元締めになる公益法人には、国庫から補助金を入れてるのと、天下りポストを抱えてるって、いつものお決まり通り。もっともらしく作る動機はあるんだけど、何か怪しい。何度も書くけど、従業員への「投資教育」なんて大きなお世話なんだよ。自己責任が基本だろう。教育を受けるなら、金融とか証券とか保険とかそういうところの専門家にしてもらえ。今時そんな情報はどこでも手に入れられるし、通常の生活をしていても向こうから(そういった投資商品の勧誘など)やってくるだろう。なんでそんなご時世に、「投資教育」を厚生労働省がそれほど頑張るんだ?元来他の省庁の仕事だろう?やっぱりかなり怪しいな。変だよ、こんなに「投資教育」にこだわるなんて。裏があるような気がするが・・・・・・。

薄汚い企みだけは、一丁前だからな、官僚は。信用できん・・・


人権擁護法案はどうなるか

2005年03月24日 03時01分30秒 | 法関係
今までいくらか考えてきましたが、この法案についての不安は未だ解決されておりません。法学上の知識が十分ではない国民はおそらく大多数でしょう。国会議員と言えどもこれは同じような部分があるかもしれません。小倉先生が記事に書いておられた古川議員は、天下の東大法学部卒であり、しかも官僚出身者のようです。通常の理解として、一般的な個人に比して法学的知識、行政法や行政システムについて十分熟知されていることは想像に難くないでしょう。そんな人が危惧したり誤読してしまう以上、一般国民にそれ以上の解釈レベルとか法の理解を求めるのはかなり困難があると言えるのではないでしょうか。その意味で法案の誤解釈とか大袈裟に心配することも、ある意味「普通の国民」の心理を代弁しているとも言えるかもしれません。

国民の代表である国会議員が、必ずしも法の専門家(法曹関係者)と同じような判断をするものではない、ということが言えるのかもしれません。本当は立法に携わる以上、正確・厳密に法律を理解することが必要であると指摘されるかもしれませんが。ただ、素人である一般国民が読んだ時に、たくさんの誤読とか誤解釈をもたらす法案というのは、優れた法案なのかと言うと、そうとは言えないかもしれません。これは「そのようにも読める」とか「そういう可能性がある」といった、普通の国民の反応を如実に表わしているとも考えられるからです。また、反対が非常に多いという状況ならば、民主主義の原理に従い「この法案は必要ない」という意見が大多数であるかもしれない、ということも考慮せねばならないでしょう。


自民党の古賀さんに法案の調整等について一任したようであるが、よく検討するべきでしょう。
Yahoo!ニュース - 共同通信 - 「国交」規定で修正検討 人権擁護法成立を再確認


当然マイノリティについての救済は、単純な多数決で決定できるものではない、という判断も有り得ます。しかし、立法制度上多数決によって決するということになるのであれば、法整備での解決を試みるのではなく、行政制度上での努力によって支援する形も考えてみる必要も出てくるかもしれません。私は法律とか行政制度の専門家ではありませんから、具体的にどのような制度を作ることができるか、正確には判らないのですけれども。


法律上は「不知は法的責任を免れるものではない」という立場は堅持されるでしょう。すると、一般的に法律の条文を読んで自分自身で考えるとか(行政に尋ねるということも可能ですが、一般的は「個別の案件には答えられない」という立場を貫くでしょう、国会答弁でも同様ですのでこれは改めて説明する必要がないでしょう)、法の存在すら知らないということになりましょう。その時に個人の権利がどの様な制限を受けるか、若しくは言説・主張等に対してどの様な判断を行政側から下されるか、正確に「判らない」ということになります。勿論勧告を受けた時に、それを受け入れれば問題ないかもしれませんが、以前に検討した独禁法と比べても勧告受け入れを拒否した場合の手続について制度上問題があるように思います。

人権擁護法案の立法上の危惧として、次の点についての合理的理由・説明が必要かと思います。

1)会計検査院は十分な独立性が保たれているとも言えず、会計検査院法の運用についても恣意的運用の可能性を否定出来ない(もしもこれに適切な説明・反論があれば聞いてみたいです)。憲法規定である会計検査院であってもこの程度の行政システムであるから、委員会の独立・中立性や法の運用がこれ以下になってしまう可能性が当然推測される。この時に国民の権利は守られるか。

2)法律に「罰則規定がないから」という理由で、後年罰則規定を法律に附与しようという改正案が出されることは珍しくはない。また、マスコミ条項についても別な法令で規制可能という暗黙の規制(ある意味人質)が行われる可能性がある。一度法律が作られると、それに対して条文や法令を追加することは比較的容易に行われる傾向にあるが、これに対する国民側からの抑制策は少ない(所謂選挙とか違憲立法審査くらい)。

3)もしも法案を導入するとしても、独禁法に見られるような「勧告」に対する「受け入れ」または「拒否」についての選択・意思表示の機会、続いてその適否を検討する機会、それに対する司法判断を受ける機会、が整備されることが望ましく、罰則的(制裁的)意味合いを持つ「公表」手続は慎重に行われるべきではないか。

4)法律自体は変更されなくとも、後から省令を変えたり、通達を出すことで実効的に法解釈を変えることが可能であるが、これに対抗できる手段が明確でない(裁判くらいでしょうか)。「勧告」に該当する具体例について行政側が設定できるということです。これは法案作成時点で明らかなわけではなく、後に著しく制限するような具体例の設定も可能である、と言えます。国民側が「その事例は差別的表現ではない」と主張する言論を行おうとした時に、それが例え正当であると思われても、メディアを封殺してさえいれば一個人の声など広く知られないし、権力に対抗できる言論ともなり得ないでしょう。
(これは地道な活動をしていた拉致被害者の訴えがメディアに取り上げられるまで、非常に長い期間世間に知られず、政府の行動にはなかなか結びつかなかったことを考えれば理解できるでしょう)


追記:3/24 13:10頃

独禁法違反による勧告を受けていたドンキホーテは、「勧告」の受入を拒否して「審判」を受けることを公取に意見通知したようです。以前の記事に書いたように、勧告の適否を審判手続きによって問うことが出来ます。
また、人権擁護法案には行政指導上の「勧告」とそれに続くものとしての「公表」がありますが、これが条文では明確に区分されています。しかしながら、公取が行う「勧告」とか、他の記事に書いた放送法に基づく行政指導は、「公表」されているようです。前者は意図していることは確かで、公取のHPに記載されているからです。また、後者の行政指導については、放送法上に「公表」は審議機関が答申した内容とか措置について規定されていますが、総務省の行政指導については行政側の裁量権の範囲(?)として考えられているようです(電波管理審議会の勧告は総務大臣が公表するべき事項になっていますが行政指導とは関係ありません)。このような違いが何故起こるのか不明です。総務省は行政手続法についての統一見解は持っていないのでしょうか?法務省は何故、行政手続の「勧告」と「公表」について区分して規定したのでしょうか。行政手続法上で規定は必要ないのでしょうか。


参考記事:
人権擁護法案擁護論への疑問1
人権擁護法案擁護論への疑問2
人権擁護法案擁護論への疑問3


ライブドア第二幕――高裁決定

2005年03月24日 00時05分08秒 | 社会全般
大方の予想通りの結果でした。東京地裁決定の時にも具体的な理由を挙げていましたが、今度の東京高裁の決定でも、具体的理由を4つ挙げております。現状で考えられる法的解釈について、法に基づいて妥当な判断を下されたと思います。今回の3度に渡る司法判断の過程で、国民にも企業にも経営者にもよく考える機会を与えてくれたし、司法の中立性や政治的影響力排除という点では評価が高いと思います。やはり、日本の公権力の構造の中では、現状で最も信頼性が高いと考えます。この司法の役割は非常に大きいでしょう。今後裁判員制度で国民が係わっていくことになりますから、司法への期待は大きいし国民側にもその覚悟が必要になってくると思います。


今回の騒動で今までのところ分かったことは、旧態依然の経営者達は「話を聞く必要はない」という頑なな姿勢と、単なる保身とも言える狼狽ぶり、そして「ジャーナリズム」は志の低いものである、ということでしょうか。日本人の心情としては、根回しや水面下の交渉といった「慣習」を守ってやって欲しいということであると思いますが、話も聞かない立場をとる人が果たしてそれが出来たかどうか、というと難しかったかもしれないでしょう。昨年の近鉄買収騒動を思い起こせば、まるで同じような感じだからです。そして、日枝氏があたかもナベツネの発言に共通するものがあります。


放送の持つ公共性というのは重視されなければならないでしょうが、仮に他の公共性の高い企業が買収されたらどのような問題があるのか考えてみる必要があるかもしれません。例えば、電力会社を外国企業が買収にやってきたとします。巨額費用を投入して一つ買ったとしても、経営者が変わるだけで住民は「電力供給がなくなる」といった不利益を受けることはないでしょう。何故なら、行政が許認可権を有している事業であり、持っている免許を失うと企業としての存続が出来なくなるからです。これが放送事業であっても同じです。もっともらしく「報道」や「ジャーナリズム」の意義が失われるということを主張してみても、行政機関の監督を厳然と受けている以上、法令から逸脱することは許されない訳であり、また不適切な「放送」や運営があれば厳しく改善命令等を受けるのです。実際、民放3社(日本テレビ、テレビ東京、熊本県民テレビ)に、総務省が放送法に基づいて厳重注意したと報道されている。これは、視聴者はもちろん、許認可権を有する行政の判断が加わるということを示しており、「報道の価値が失われる」といった批判は必ずしも当てはまらないであろう。もっとも、低俗かつ報道の価値のないような番組を粗製濫造で世に送り出している放送局もあるのかもしれないが、それは社会的に(法的にも、笑)許容されているというのが現状なのであろう。何ともバカらしい「ジャーナリズム」かもしれないが。産経新聞がフジサンケイグループの報道の価値について頑張って主張しても、世論の理解とか共感があまり得られなかったのは、「そのレベルの報道・言説しか行ってこなかった」ことの裏返しなのかもしれない。これについては正確には分からないのであるが。


今後は、「社会的に求められていること」「企業として行うべきこと」、そして、現場の人間がメディアとして「行わねばならないこと」をよく考えて、企業間で問題解決の道を見出すようにするべきでしょう。結局のところ、視聴者・利用者をどれ程大切に考え行動してきたか、メディア企業としての存在意義をどう考えるか、これが答えを導き出す要件であると思います。これが理解されていなかったから、今回のような結末を招いたのでありましょう。


追記:(3/24 1:30頃)
放送局3社への総務省の態度(とりあえずそう表現します)は、行政指導であり、指導内容と対象が報道されています。これは「行政指導と内容の公表」は合法ということのようですね。