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経済学は難しい5

2005年03月18日 19時23分47秒 | 経済関連
経済財政諮問会議は、ついに「インフレ・ターゲット政策」を導入することを宣言するようです。以前から、ネット上でも色々な論争を巻き起こしており、私は素人ゆえその学問的背景とかは詳しくわかりませんが、デフレ脱却という点で意味がありますし、借入金の相対的縮小の意味は大きいでしょう。素人考えと非難されるかもしれませんが、政策的にこれを行うという明確な宣言があれば、財政政策と金融政策の両者がそれに向けてきっと頑張る(?)でしょう。どう頑張るのかは、専門家に聞いて下さい(笑)。

Yahoo!ニュース - 読売新聞 - 経財諮問会議「21世紀ビジョン」にインフレ目標


具体的目標としては、年率2%程度ということです。リフレ派は高らかに「勝利宣言」でしょうか(笑)。とは言っても、このリフレ派というのも、実態をよく知らないのですが。庶民感覚としては、賃金が減少するって話よりも嬉しいし(単に見かけ上の話なのですが、実質的には価値が上昇するというものでもないでしょう)、借金の額が相対的に小さくできるのも、当然嬉しい!って感じでしょうか。私は住宅ローンにも苦しんでいますから(笑)。国の借金も勿論そうですね。


年率2%が毎年達成されるとどうなるか。これを考えてみます。
仮に今の給料を100、借金を1000としましょう。今22歳の人が働き始め、相対価値は一定であるとしますと、だいたい58歳頃に給料が200となります。倍ぐらいですね。この時にも借金が同額残っていたとしても(利息とかが増えないものとして)、年収の10倍あった借金は、何と5倍まで価値が減少します。返済が随分と楽になりますね。前に医療費のキャップ制導入は無理だ、って経済財政諮問会議に文句を言った時に、必要成長率がだいたい2%くらいではないかと考えたのですが、インフレが着実に達成されれば色々役立ちそうです。

2%のインフレ率が達成されて尚且つ年金の給付水準を据え置くと、実質的に給付減少と同じ効果が得られます。しかも、受け取る側は、すぐには気付きにくいですから、いい方法と言えるでしょう。これは、私的には大賛成ですね。私が提言した年金改革は、基礎的年金と確定拠出型個人年金の2本立てでした。しかし、完全な確定拠出型に移行できるのは、新制度開始時に20歳の人からです。それよりも年長の人は既に旧制度(つまり今の制度)で年金保険料を納めてしまっています。また現在既に受給されている人は大幅な減額とかが困難ですので、それについての問題は以前記事を書きました(新しい年金給付 1新しい年金給付 2)。でも、本当は満額受給できる人はできるだけ少ない方がよく、しかも現在の給付水準とこれから受給される人の給付水準には結構な開きができるでしょう。これを多少緩和できるのが、インフレ率でしょう。満額受給の人は現在価値のままで出来るだけ長く据え置き、後から確定拠出型に掛金を入れる人達は、インフレ率の分だけ多く積立られるようになります。そうすれば、結果的に満額受給者と確定拠出型の人との給付差が減ることになります。ラッキー!


例で考えてみます。今65歳の人がいて、その人が受給している厚生年金が月20万円とします。今後20年間で受け取る年金は、4800万円です。一方、現在45歳の人がいて、今後20年間確定拠出年金を20年間積立するとします。この人が受け取れるのは、基礎年金部分とそれまでに払った保険料と比例する上乗せ額(大して多くはならないでしょう)が公的年金となります(正確には計算しないと確定しません)。それとは別に個人の年金を積立ますが、年率2%のインフレ率だと給与は最終的に約45%増加し、掛金が一定割合で給与の8%とすると、掛金総額はインフレ率が0%の場合に比べ約20%増加します。この人が年収500万円だとすると最後の給与は約728万円(相対価値は一定です)で払い込み年金掛金は約972万円となり、インフレ率がない時(年収500万円のまま、掛金年間40万円で総額800万円)に比べて増加してますね。これに運用益を加えた分が年金原資となります。これによって年金給付額が据え置かれた満額受給者と、20%の増加効果をもたらした確定拠出型個人年金併用者の差が縮まっているのです。ですから、インフレ・ターゲットは、私が提唱する年金方式の場合にはとても役立つと言えそうです。


これによって年金負担の軽減が図られれば、医療関係費の財源に回せる額が大きくなりますから、財政上のメリットも大きいでしょう。もっと早くに、インフレ・ターゲットを開始してほしかったですね。


人権擁護法案擁護論への疑問2

2005年03月18日 03時46分50秒 | 法関係
前の続きです。

2)行政指導について

人権擁護法案の勧告と公開についてですが、勧告は行政指導という解釈のようです。
通常行政指導には強制力もなければ、不利益処分もない。an accused さんが「勧告」及び「公表」について司法判断は及ぶか、という点に疑問を述べられて、私もよく解らなかったのであるが、行政不服審査法の適用にはならない、という見方のようです。コメントには、行政手続法による規定で、「聴聞」と「不利益処分」への行政訴訟と書いてしまったのですが、聴聞は誤りでした。これは行政手続法の規定によるもので、正しくは「弁明の機会」の附与ということになります。bewaad さんの記事を読んで、「ああ、そうか」と得心が行きました。さすがに現役官僚(法務官僚ではないでしょうが、どこかの法規課の方なのかな?)の方だなと感心し、行政法に明るいなと思いました(当然と言われるかもしれませんが)。また、「不利益処分」についてですが、「公表」そのものは行政側の行為としては処分に該当せず、「公表」によって第三者から受ける「不利益」に過ぎないので、行政手続法に規定される「不利益処分」にも該当しない、ということのようです。


従来の一般的な行政の態度を考えてみます。通常、行政が企業や個人に対して行政上の命令を下す場合、ある段階を経ていると思います。それは、informal な権力行使の形をとることが多いでしょう。それが一般的にいう行政指導です。特に、許認可権がある場合には、殆どの場合にこの形をとることが多いと思います。まずは指導によって、「正しく業務を行って下さいね」という意思表示をする。勿論この時に行政側の意見に従わなくともよいのですが、現実には相当の実効性を持ってほぼ「強制的に」認めさせることが多いと思います。行政指導に従わなければ、その後にformal な権力行使が待ち構えているからです。何がしかの行政処分や許認可の取り消し処分(これは滅多にはないでしょうが、重い処分としては存在しますね。シティバンクの時とか、医療機関・介護事業者の処分とか、入札指定取消とか…所謂伝家の宝刀です)が行われれば、大きな打撃となることが多いでしょう。これをいきなり行うことは少なく、明らかな犯罪があった場合とかは別として、普通では指導を行って改善を図り、それでも効果が十分ではないとか従わないような場合には、正式な処分が発動されますね。

昨年の放火事件によって死亡者が出たドンキホーテの例がこれに近いものでありましょう。事件の以前に、消防当局が立入検査を行い行政指導を行っていたと思います。この最初の立入検査は消防法に基づく強制的な命令が発動された訳ではなく、単なる指導であり「改善して下さいね」というお願いに過ぎませんが、事件後緊急立入検査が行われ、会社に対して改善命令が出されたかもしれません(もしくは、命令ではなく再び行政指導であったのかもしれませんが)。これを聞き入れず従わない場合には、強制的な改善命令を出した上で、さらに強制的に営業停止などの処分を下すことになっていくでしょう。


また一般に、行政指導の内容や指導した企業等の公表を行うかと言えば、それは行われず、行政処分を受けた場合にのみ処分内容と対象となった企業等が公表されます。例えば、三菱重工の指名停止処分とか、富士見産婦人科に見られたような医療機関の保険医療機関取消処分とか、医師の免許取消処分や医業停止処分などですね。こうした処分は、「公表」という形がとられるわけですが、人権擁護法案の「勧告」という行政指導に従わないものについて、「公表」という、あたかも「行政処分」を受けたかのような形が取られるわけです。もしも、一律に行政指導に従って改善していない(意図するかしないかに関係なく)ものについて全て公表するということであるならば、まだ理解できうるかもしれませんが、今までそのようなことは行われていないわけです。金融庁が金融機関に行った行政指導の結果、改善が不十分として毎回公表していたら、相当多くの金融機関が公表の対象となるのではないでしょうか(実際にはよくわかりませんが)。


行政指導は、行政の権力行使の中でも大きな地位を占めており、法的には単なる「お願いに過ぎない」といっても、これがなんら規制や強制力が発揮されないなどということは有り得ない、と思われます。法律は、そんな行政の実態までは面倒を見ない、ということでしょう。この行政指導の形をとった権力行使は、通知・通達の実効的強制力発揮と併せて、様々な企業、組織や個人に行政庁の意向を押し付けているものです。通知や通達が如何に「法律ではないから従う必要がない」などと言ってみても、これに逆らうことは許されないのと同じです。銀行がなぜ簡明な銀行法によってのみ行政の監督を受けているわけではないかは、行政庁から大量に発せられた通知通達に縛られていることを見れば明らかでしょう(実態がどうなのかは正確に知らないので推測です)。個人であっても、法的責任を生じさせられる、ということは、今までも記事に書きました(市立札幌病院事件1市立札幌病院事件5)。法律が規定せずとも、行政庁が法解釈して、その解釈を強制することが出来る、ということは確かでしょう。ですから、法的な手続き上は「行政指導に過ぎない」ということをいくら説明されても、「そうですか、弱い力なので安心です」などとは考えられないのです。


また、ドンキホーテの例だけではなく、薬事法違反容疑で立入調査を受けた健康食品会社の倒産(確か小倉先生の記事で読んだように記憶しています)などを考えあわせても、個人または団体に、「人権委員会の立入調査を受けたこと」また「公表」という実質的な「制裁」が発動されることは、大きなリスクとして存在することは確かです。このような処分を回避するような安全弁的仕組みが法案には存在しないばかりか、司法判断を仰ごうにも、「勧告」は処分でもなく「公表」も不利益処分でもなく、行政訴訟の対象ともなり得ないとするならば、国民側には対抗できる手段や判断の過誤を審問する機会すらないことになってしまいます。唯一の方法は、「公表」によって受けた不利益の損害について賠償を求めるしかない、という、何だか本末転倒のような事態が生じてしまう法律というのは、果たして信じられるのか、とも思います。このことは、an accused さんも危惧されておられます。


私のような「法律」や「法学」に疎い人間は、間違えた解釈や知識不足による誤認などがあるかもしれません。しかしながら、法律の運用が如何に人間に依存するか、行政庁は如何に都合よく法を適用するか、権力行使への対抗手段を持たない国民が如何に弱い立場か、ということが過去の経験や実例から感じられてしまうのです。その不安が払拭されない限り、単純に「いい法律ですね、大賛成」とは考えられないものなのです。