いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」

オール人力狙撃システム試作機

「バトー、残念だがお前は産めない機械だ」―by トグサ

2007年01月31日 18時13分13秒 | 社会全般
ますますヒートアップする柳沢バッシング。ちょっと気の毒。
森元総理のことを思い出すね(笑)。前にそれも触れたのですけど(参考記事)。「神の国」発言で、所謂「言葉の切り取り」「言葉の独り歩き」というので、格好の攻撃目標となってしまいました。しかもメディアで繰り返し報じられることで、十分情報を行き渡らせ、女性たちの怒りを煽ることになり、一地方都市の「閉じられた参加者」の集会という場での発言をネタに、辞任要求まで出されるとは…。

そもそも、こういう閉鎖的講演会での内容というのは、完全に広く公開してもいいものなのでしょうか?仮に、「きっと儲かる株式投資講座」みたいな場があって、そこでコッソリ「推奨銘柄10選」とか教えてもらったとして、それを参加者たちとかそこに居た誰かが外部に完全公開してしまうと、大変なことになるように思うのですけどね。

でも、大臣の発言内容ならばよい、ということなんでしょうか?ちょっとこの辺の法的な考え方とか判らないんですけどね。

ところで、しょうもないタイトルですみません。まあ、深い意味はないです。


話は変わりますが、NHKの番組改変に関わる訴訟がありましたが、微妙な判決であったようですね。当時書いた記事を読み返してみたのですが、気恥ずかしいです。

報道の中立性

あるある捏造問題とか、NHKの問題というのを通じて、「テレビ」「報道」ということについて、考えてみる機会になるかもしれません。信頼度では高い評価を得ているのですけれどもね……

信頼される組織・制度は

でも、実際は思っていたほど信頼に値しない組織だったのだ、ということに気付くべきでしょうね。メディア側が変えようとしなければ、神話?か幻想か判りませんが、必ず崩れ去るでしょう。一度信頼を失えば、そう簡単には取り戻せないものなのです。


爆笑だったので、ちょっと追加です。

今日、ウチの子のクラスでも「産む機械」発言で盛り上がっていたそうです(笑)。さっき教えてもらった。既に、中二にも取り上げられる話題となってるんですね。

一応、中二女子の意見として、次のような感じだったそうです。
「産む機械って、ちょっとね。機械まで言わなきゃね…」
「そりゃ、女の子だから、産むのはそうだけど…」
「でも、産めない人は壊れた機械ってことで、酷くない?」

だって。うーん、確かに。
でも、ウチの妻は「ちょっと滑っちゃったんでしょ?しょうがないでしょ。別に辞める程のことじゃないよね」と言ってました。どうなるんでしょうね。



06年の実質賃金

2007年01月31日 16時59分55秒 | 経済関連
この前、個人消費のことについて書いたのですが、やっぱり賃金は厳しい状況ですか。日銀の”引き締め”策実施後には、停滞が明らかになってきた、ということですかね?素人の私には、よく判らないんですが。折角ですから、実質賃金が減少したのは日銀の利上げのせいではない、とか擁護してあげた方がいいんじゃないですか?エコノミストだか、経済評論家とか何とかの肩書きで「利上げするべし」とか言ってた人たちは(爆)。


実質賃金2年ぶり減 景気回復 家計に波及せず

(以下に一部引用)

厚生労働省が三十一日発表した毎月勤労統計調査(速報、従業員五人以上の事業所)の二〇〇六年まとめによると、物価上昇分を差し引いた〇六年平均の実質賃金は前年比0・6%減となり、二年ぶりに減少した。物価が緩やかに上昇する中で賃金の伸びは抑えられ、景気回復の恩恵が家計に及んでいないことがあらためて浮き彫りになった。

残業代などすべての給与を合わせた現金給与総額の月平均は、0・2%増の三十三万五千五百二十二円と二年連続で増加。しかし、所定内給与は0・3%減の二十五万二千八百十円と、二年ぶりに減少した。所定内給与が減った理由について厚労省は「若年者を中心に(賃金が安い)パートや契約社員など非正社員が増えた結果」(雇用統計課)としており、企業が安価な労働力にシフトする動きが昨年も継続していたと分析した。実質賃金は、現金給与総額をもとに物価上昇分を考慮して算出する。一九九八年以降マイナス基調だった実質賃金は〇五年に五年ぶりにプラスに転じたが、再びマイナスとなった。




日銀の人たちは、総裁、副総裁や政策委員とか、その他専門の人たちがいっぱい揃っていて、本当にアレなんですかね。「賃金上昇」を謳ってた人たちは、是非ともここで名乗り出て欲しいですね。「06年は、賃金上昇という形で、家計にも波及する」という見通しを立てていたんでしょう?違うの?

専門家の判断というのは、本当にどうなんでしょうか?これを誰が、どのように評価するのでしょうか?たとえ政策的に誤りであったとしても、彼らは誰一人何の責任も負わないわけです。結果責任ということについて、一切、問われることもないのですよ。きちんと検証することもなく、そもそも「失敗であった」ということを認めることすら一切できないのですよ。そういう心底「Bureaucracy」の染み付いた、硬直的な組織なのですよ、日銀というのは。

まず、「失敗だった」「良くなかった」ということを認めるところから始められないと、改善や向上は全く期待できないだろう。これはどんな分野でもそうだと思う。だが、「認める」ということのできない連中が、改善するどころか余計に悪い伝統にだけ固執しているのだ。それで、どんなフィードバックが働くというのか。故に、彼らは失敗から教訓を得ることができないのである。失敗から学ぼうとしないから、同じ誤りを繰り返し、同じように失敗し続けるのである(これも前に書いたが)。組織としては、既に腐っている。昔のフレーズで言えば、「オマエは既に死んでいる」だ。

はっきり言いますと、日銀の政策決定は、「ヤマ勘」と大して違いがありません。それも、大ハズシの。大体の雰囲気、印象で決めてるんですよ。これまで、そういうので何となくやってこれたから。しかし、変化やそのスピードにはついて行けてない、対応もできてないのです。実戦で全く役立たずの連中が、敵がもう目前に来て弾が頭の上に飛んできてるのに、ノロノロと教科書やマニュアルを広げて「どうやって撃ち返すのか」と迷っているようなもんです。司令部にいる上官がそんなありさまですから、国民は次々と無駄死にするのです。先行きについて、慎重な洞察も、豊富な経験に裏打ちされた鋭い予測も、見落としがちな予兆を察知する観察力も、何も持ち合わせていないのですよ。作戦指揮能力を著しく欠いているような組織に命運を託している方は、たまったものではありません。専門家という看板を掲げているのであれば、まず自分達のやっていることに対する評価をもっと厳密にやるべきだ。レベルが低すぎる。厳しさのハードルをもっと上げていくのは当たり前で、「いつまで経っても同じ」というのは何も良くなっていないということだ。企業だったら倒産してるぞ。

素直に、「ここは悪かった」「もっとこうすれば良かった」「次からはここを注意してみよう」というような、反省(=評価)をきちんとやって、それぞれに対して「改善策」を講じるのは当たり前だろ?それが普通なのではないか?これを繰り返しやっていけば、精度は向上するだろうし、研究成果などによっても使える知見は増えていくはずだから、その分良くなるはずなのだ。なのに、それすらできない。それは、「ここが間違いだった」という反省を誰もしない、できないからだ。本当のヤブなんですよ、日銀は。完成度が上がっていかないのです。

フィードバック機能もなく、いつまで経っても官僚主義を脱却できない機構と伝統を持つのが、日銀という組織なのでしょう。こんな連中は、絶対に信頼できない。



教育を考える13

2007年01月31日 10時39分26秒 | 教育問題
朝日新聞に本田由紀先生の論説が載っていた、というのをH-Yamaguchinet 教育再生会議から学んだことで知った。
山口氏のご意見は、政治的な決定プロセスという部分に着目して、専門家同士の会議では中々踏み込めない部分については「専門外」の構成員が多数含まれている、教育再生会議のような「超越的諮問機関」で踏み込むという手法も一法であろう、ということだと理解した。うん、そうかもしれない、というのを私も思う。だって、専門外のことにばかり首を突っ込んで色々と書いているのは、何を隠そう私だからである(笑)。これまでの教育の専門家たちの議論というのは、対立点があったりすると、そこから先に進めなくなって、結局具体性に欠ける合意点にしか到達できなかった、という部分があったのではないかと思える。故に、教育行政については、一貫性も決定打(これは過剰な期待かもしれないが…)も見出せなかった。昔の記事の中にも何度も書いてきたのだが、専門外でしかない国民の「じゃあ、どうするのさ?」という素朴な疑問に対して、明確に説明することがなかった、答えを用意してこなかった、ということなのではないかと思う。

これは教育分野だけに限ったことではなく、他の学術分野でも同じような問題構造を持っているかもしれないのだが(ニセ科学云々と似た部分はあるように思えるからである)。教育再生会議の位置づけと似ているのは、上限金利問題で議論を呼んだ貸金業に関する懇談会もそうかもしれない。国民の大多数や市町村議会からの提出意見は、全て上限引下げを求めるものであったし、懇談会メンバーは全部が金融関係の学者や専門家ばかりということではなかった。これがもしも経済学者たちや業界専門家たちだけで構成されていたならば、踏み込めない部分はかなりあったかもしれない。そういう意味では、「超越的諮問機関」の「素人感覚」的意見というのは、局面打開の推進力になり得るかもしれない。

前置きが長くなってしまったが、本題に入る。
この前の中教審での山田先生の議論(教育を考える12)を選択したのには、ちょっとした理由がある。それはあの回の提出資料に、中々重要なことが書かれていたからである。これはついこの前の記事の中にも、チラッと含めておいた。「勉強時間」をただ単純に増やせばいい、という発想が本当に望ましいのか、という問題があるからである。「成績」との関係というのが、あまり明らかになっていなかったからである。OECDの比較なんかでは、成績優秀なフィンランドの授業時間数が、そんなに飛び抜けて多かった、ということも認められなかった(笑)。本田先生の論説は、そのことを的確に指摘していると思えるし、そちらの解説をよく見て頂いた方がいいだろう。


今回は、これを取り上げたい。

子どもたちの自己評価・勉強観・将来の希望について


この中から、いくつか気になった部分をピックアップしてみる(資料は、ご自身で内容を確かめられた方が良いと思います)。


◎生活の中で重要なこと(の上位回答)
(「きわめて重要」と回答した比率、%)

同性の友人との交友  62.5
学校の勉強  49.1
一人でいる時間  43.9
家庭生活  43.3

何と、「おトモダチ」関係が一番大事、ということが窺える。しかも同性。これは年齢にもよるのかもしれないが。最も気になるのは、要するに「自分が友人関係の中で浮かないように」とか、「友達が一番理解してくれる」とか、そういう思い込みなのか幻想なのか判らないが、「友達と繋がっていないと超不安」症候群(私の勝手な創作です、失礼)みたいなことのように思える。価値観として、友達は大事なんだ、というのは同意なのですが、やや違和感があることはある。

疲れたので、砕けて書きます。

携帯を一日何時間くらいやってる(操作?)か、とかの質問で、2時間以上やってるヤツラとか、6時間くらいやってるとか、もう信じられないわけです。アホかと。下手すりゃ、睡眠時間よりも長いんじゃなかろうか、というくらいの勢いなんですよね。そりゃ、さすがに「やり過ぎ」だわ。勝手な推測だけど、それもきっと「おトモダチ」関係を継続させていくための、相当な自助努力なんだろうな、と思ったりするわけですよね。そんなに、交友関係を維持していくのに、コストかけてどうすんの?とは思うわけです。時には、深刻な話を聞かされたり、色々と悩みを打ち明けられたり、仲違いをしたり、あれこれあるだろう、というのは理解できる。でも、友達同士の関係の中で、そんなにコミュニケーションを努力しなくてもいいんじゃないか、もうちょっと気楽に行ってもいいんじゃないか、とは思うね。ひょっとして、全てを知りたい、みたいな勘違いとかあるのか?赤の他人なんだから、判らないことだらけだと思うよ。それで、いいじゃないか、と思うね。

なので、「友人」呪縛によって、相手が「時間をかけてつくす」のだから、それにこっちも応えていかねばならん、みたいなことになっているんじゃないでしょうか。それって、低年齢のうちに、子どもの世界の中で「トレーニング」を受けてない(少ない?)からとか、あるんじゃないだろうか?どうなんでしょう?よく判らんけど。どっちにしろ、昔は電話すること自体が滅多になかったし、電話してても「家族みんなが聞いている」中で、会話せざるを得ず(昔は全て有線方式の固定電話が居間なんかに置かれていた、笑。ワイヤレスだの、子機だのが登場するまでは、手に持って何処かに行くなんてできんかったのよ)、短くしか話さなかったね。学校で、面と向かった時に話せばいいんだよ。でも、今はそういうのが難しいのかな?全員が交換日記(=今で言えばメールでやりとり)でもやってる感じなんだろうか。そう思うと、何だか笑える。交換日記を非難してる訳ではないですよ、勿論。でも、(男のくせに)交換日記なんて…とは思ってた、昔(なので、やった経験はない)。


◎してはいけないこと(%)

先生に暴力をふるう  77.3
友達をいじめる  78.7

規範意識については、米中に比べて低い数字が多い。特に、教育再生会議でも議論に上がってきた2つを見れば、約2割以上の子どもが、「してはいけないこと」と認識していない面がある、ということが問題だと思えた。「親に反抗する」という項目でも4割を切っており、米中の半分程度でしかない。これらから思うところを述べれば、子どもにとって「絶対的権威」のようなものが存在していない、という面が強く感じられる。言葉として「絶対的」とか「権威」とか言うのが不適切なのかもしれないが、まるで社会のルールとしての法みたいなものがない、という印象である。普通の社会では、違法なことに対しては、それに対する法の強制力が働くようにできている。店に陳列されている商品を見て、自分がどんなに「これが欲しいー」と思っても、それを自由勝手に自分のものにすることはできない。しかし、子どもたちは「自分が主張」すれば、そこそこ通ってしまう、という経験を積むことで、自分のものにできる、という「学習」効果を得ているのではないだろうか。要は、甘えであり、我慢がないのである。自分の意に反して「受け入れなければならない」ということがたくさんある、ということを経験的に学んでいない面があるのではないか。

そうは言っても、してはいけないと認識しているのが多数派なので、みんなが問題になるわけではない。けれども、家庭生活の中での親子関係に、子どもに同調しがちとか「おトモダチ」感覚でしかないとか、そういう部分は多くなってきているのかもしれない。基本的には、してはいけないことやルールを守ることなんかは、家庭で教育するべきことであり、学校教育での問題であるとも思えないのである。主に大人(親)が「ルールを守らない」というような規範意識の低下が酷くなっている影響かもしれず、政治家や知事や高級役人などがボロボロ逮捕されたりしているのを見れば、一体全体どういう教育を受けてきたのか、とは誰しも思うだろう。子どもばかりを責めるのは酷かもしれない(笑)。

親子の間では、衝突や反抗したいこととかは必ずあるし、それは子どもの成長の証でもあるように思うので、絶対服従みたいな軍隊式が良いとは思わないが、それでも基本的には「親」という権威の前には従うというのが規範であるし、その延長として先生(という権威)や大人たちには従う、ということがあるのではないかと思う。子どもたちが力関係を認識する時、自分と同じかそれ以下であるという場合には、当然それ相応の態度を取るのではないだろうか。昔ありがちだった、「校則は管理教育で害悪だ」「権力によって押し付けるのは子どもの人権を侵害する」「子どもの権利を守れ」というのも、部分的にはそうなのかもしれないが、別な面では過度に「放任」になってしまって、何の強制力も働かない・罰を受けないというのが子どもに「見透かされている」という方向に来てしまったのかもしれない。何だか、ドラマの「女王の教室」を思い出した。


◎クラスのいじめに気づいたら(%)

いじめをやめさせようとする  45.2
そのまま見ないふりをする  54.8

いじめについては、傍観者の立場になっている方が多い、ということである。これが中3だと6割以上が見ないふりをすると答えている。段々と、「やめさせようとして」逆に浮いたりターゲットにされるくらいなら、見ないふりをした方がいい、ということを学習するのかもしれない。人間はそれほど強くはないですよね。先の「おトモダチ」関係を維持するということともちょっと関連しているのかもしれない。異質性というのを極度に恐れるのかも。イジメに関しては、もっと専門的なご意見が多々あるので、対策等は別に考えてもらった方がよいが、家庭では卑怯者への嫌悪感みたいなものを子どもに教えてあげられるとよいかな、と思う。