久々の忘れ去られたシリーズ復活です(笑)。
まずは、こちらをどうぞ。
さよならマルクス 内田樹の研究室
子どもの労働とか救貧院ということで、私の場合に直ぐに思い浮かぶのは、オリバー・ツイストかセーラ・クルーなわけですが(笑、無教養につきご容赦を)、今はそういう話ではありませんね。どうも「ゆとり教育が諸悪の根源」みたいな発想が多いと思うのですけれども、それって本当にそうなんでしょうか?メディアの煽動に惑わされているのか、世評の雰囲気に圧されているのか、よく判りませんが、こと教育問題については、時間をかけてもいいはずですし、慎重に考えるべきだと思います。拙速は避けるべきです。新たな教育基本法可決に漕ぎ着けるまでの時間とか道のりは、それこそ数年がかりでやってきたのですよね?学習指導要領改訂なんかも絡むのだろうと思いますが、中教審での議論は何だったんだ、とか、そういう問題も起こってくるのではありませんかね。全くの無駄な討議の積み重ねに終わってしまうのではないでしょうか。
教育再生会議の報告内容は、決して「決定事項」ではありませんし、最終的には国民の選択に委ねられるのだと思います。なので、どんな中身が出されるのか、どこの部分を肯定的に評価し、どこを否定するのか、そういう細かい部分を見て行かねばならないでしょう。再生会議の議論や結論の方が圧倒的に正しくて優先順位も上だ、という単純なものでもないでしょうし、中教審の方にも良いものがあるのであれば、そちらから選択する部分があってもいいと思います。他の誰かが教育再生会議とも、中教審とも違った意見を出す、ということも当然あっていいはずです。
かつての「受験戦争」だの「詰め込み競争」だのと言われてきて、今の韓国みたいに(毎年これからのシーズンになると韓国事情が報道されますよね・・・アホじゃないか、と思えるくらいの受験狂想曲っぷりですよね)なることを望むのでしょうか?そこら辺が疑問なのですよね。学校の机に座って勉強する時間が減ったから、「成績が下がったんだ」という単純なものなのでしょうか?であれば、たとえば教育技術というのはあまり関係なく、単に「成績は勉強時間に比例した関数で表せる」みたいなものなんでしょうか?そういった基本的なところから、判っていることを積み上げていくべきだ。絶対に一つの結論じゃなきゃダメ、ということでなくてもいいはずだし。これから直ぐに結論を出さねばならないものでないならば、腰を落ち着けて、また直ぐに方向転換しなくても済むように今の段階で時間をかけるべきだと思う。
東京都の教育委員としてやってきた米長さんは、次のように語っていますよ。
【正論】米長邦雄 「ゆとりある」教育をなくすな-コラむニュースイザ!
これまでも、教育行政があっちへ行ったりこっちへ行ったりして、混乱を招いてきた経緯はあるように思われるので、それが再び繰り返されることは誰にとっても不幸でしかないです。
教育再生会議からの意見は、主に国民の中によくありがちな意見(例えば私のような無知な人間が言うようなもの)とか、ターゲットにしている保守層?から出される代表的意見、みたいなのを意識しているかもしれない。それが果たしてどの程度の合理性・妥当性があるのか、というのは判断が難しいかもしれません。なので、一つのやり方に統一することがどうしても許容できないとか、圧倒的多数の合意を得るのが難しいような部分は、あえて手を付けないか「しない」という選択も止むを得ないんじゃないかと思う。極めて消極的だけれども、「やって」無残な結果を招くくらいなら、変えたりせずにおいた方がまだマシだった、とかってこともあるので。国民側からは、そうした意思表示は行えるはずだろうと思う。「こうしてくれ」「この方法でやってくれ」というのを最終的に一つに絞らねばならないとすると、教育論・方法については論者も説もそれこそごっそりあるし、成功・失敗体験も人間の数だけあるので、議論を収束させるのはとても難しいと思うよ。そういう時は、少なくとも「これだけは止めてくれ」ということも一つの意見の出し方じゃないかな、と(ああ、ひょっとして、これも『ダメな議論』メソッドの一部?だな)。
ちょっと、退席します。
まずは、こちらをどうぞ。
さよならマルクス 内田樹の研究室
子どもの労働とか救貧院ということで、私の場合に直ぐに思い浮かぶのは、オリバー・ツイストかセーラ・クルーなわけですが(笑、無教養につきご容赦を)、今はそういう話ではありませんね。どうも「ゆとり教育が諸悪の根源」みたいな発想が多いと思うのですけれども、それって本当にそうなんでしょうか?メディアの煽動に惑わされているのか、世評の雰囲気に圧されているのか、よく判りませんが、こと教育問題については、時間をかけてもいいはずですし、慎重に考えるべきだと思います。拙速は避けるべきです。新たな教育基本法可決に漕ぎ着けるまでの時間とか道のりは、それこそ数年がかりでやってきたのですよね?学習指導要領改訂なんかも絡むのだろうと思いますが、中教審での議論は何だったんだ、とか、そういう問題も起こってくるのではありませんかね。全くの無駄な討議の積み重ねに終わってしまうのではないでしょうか。
教育再生会議の報告内容は、決して「決定事項」ではありませんし、最終的には国民の選択に委ねられるのだと思います。なので、どんな中身が出されるのか、どこの部分を肯定的に評価し、どこを否定するのか、そういう細かい部分を見て行かねばならないでしょう。再生会議の議論や結論の方が圧倒的に正しくて優先順位も上だ、という単純なものでもないでしょうし、中教審の方にも良いものがあるのであれば、そちらから選択する部分があってもいいと思います。他の誰かが教育再生会議とも、中教審とも違った意見を出す、ということも当然あっていいはずです。
かつての「受験戦争」だの「詰め込み競争」だのと言われてきて、今の韓国みたいに(毎年これからのシーズンになると韓国事情が報道されますよね・・・アホじゃないか、と思えるくらいの受験狂想曲っぷりですよね)なることを望むのでしょうか?そこら辺が疑問なのですよね。学校の机に座って勉強する時間が減ったから、「成績が下がったんだ」という単純なものなのでしょうか?であれば、たとえば教育技術というのはあまり関係なく、単に「成績は勉強時間に比例した関数で表せる」みたいなものなんでしょうか?そういった基本的なところから、判っていることを積み上げていくべきだ。絶対に一つの結論じゃなきゃダメ、ということでなくてもいいはずだし。これから直ぐに結論を出さねばならないものでないならば、腰を落ち着けて、また直ぐに方向転換しなくても済むように今の段階で時間をかけるべきだと思う。
東京都の教育委員としてやってきた米長さんは、次のように語っていますよ。
【正論】米長邦雄 「ゆとりある」教育をなくすな-コラむニュースイザ!
これまでも、教育行政があっちへ行ったりこっちへ行ったりして、混乱を招いてきた経緯はあるように思われるので、それが再び繰り返されることは誰にとっても不幸でしかないです。
教育再生会議からの意見は、主に国民の中によくありがちな意見(例えば私のような無知な人間が言うようなもの)とか、ターゲットにしている保守層?から出される代表的意見、みたいなのを意識しているかもしれない。それが果たしてどの程度の合理性・妥当性があるのか、というのは判断が難しいかもしれません。なので、一つのやり方に統一することがどうしても許容できないとか、圧倒的多数の合意を得るのが難しいような部分は、あえて手を付けないか「しない」という選択も止むを得ないんじゃないかと思う。極めて消極的だけれども、「やって」無残な結果を招くくらいなら、変えたりせずにおいた方がまだマシだった、とかってこともあるので。国民側からは、そうした意思表示は行えるはずだろうと思う。「こうしてくれ」「この方法でやってくれ」というのを最終的に一つに絞らねばならないとすると、教育論・方法については論者も説もそれこそごっそりあるし、成功・失敗体験も人間の数だけあるので、議論を収束させるのはとても難しいと思うよ。そういう時は、少なくとも「これだけは止めてくれ」ということも一つの意見の出し方じゃないかな、と(ああ、ひょっとして、これも『ダメな議論』メソッドの一部?だな)。
ちょっと、退席します。