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続々・イルカはサメになれない~ちょっと補足

2007年01月28日 19時04分37秒 | 俺のそれ
1年位前に書いた記事を一応載せておきます。

デフレ期待は何故形成されたのか・3

金利とインフレ率

後で、もうちょっと言いたいことを追加しようと思います。

にしても、池田氏はかなり飛ばしてますね。「釣り」です、とかもハッキリ言ってるし(笑、コメント欄ですけどね)。意外にお茶目といいますか、長年の「ネット住人」なんですね。それと、私は掲示板とかの歴史なんかも知らないし、読む必要も興味もない訳ですが、過去のバトルといいますか、遺恨試合みたいなのが未だに続いているかのようです。

「~という策が有効だったかどうか」というのは、結構後付けの理屈っぽい面があるので、何とも難しいわけですが(過去に戻って試せる訳ではないので)、やるべき方向性というのと、具体的な策としてどうなのか、というのは、これまた判断が難しい面があるかもしれません。

追加です。

また重農主義のケネーの世界みたいで申し訳ないですが、ご容赦を。だって、人体の血液循環の仕組みと経済(お金)活動のイメージが似ているんだもの(笑)。

一般によく知られる心臓の病気に、狭心症とか心筋梗塞などがありますね。狭心症というのは、簡単に言うと心臓の筋肉(心筋)にエネルギーや酸素を供給する為の血流が減少して、心筋が苦しがる状態(虚血)の病気です。多いのは心筋に血液を送る冠動脈(たくさん途中で枝分かれしてるけど)の狭窄(血管が狭くなる)が進むと、流れる血液が減少して胸が苦しくなります。心筋に酸素やエネルギー供給が追いつかず、心筋細胞がそれ以上働けなくなるので、運動負荷などで苦しくなるのです。それでも、心臓の負荷が解除されれば、苦しくなる前の状態に戻りますので、少なくなっている血液でも酸素供給が可能になりますから、症状は感じなくなります。

心筋梗塞というのはもっと酷い状態で、心筋に血液供給が途絶えてしまって、心筋細胞が壊死(死んじゃう)してしまい、心臓の一部分が全く機能しなくなってしまうのです。急性心筋梗塞の場合には、致死的状況ということも多々あり(致死率は高く、代表的な心臓死の疾患です)、必要な手を尽くさねばなりません。壊死した心筋組織は、元に戻ることはないので、たとえ死を免れたとしても、その後の心臓機能は低下してしまったままです。狭心症と心筋梗塞というのは、おおよそこういう疾患なのです。

で、経済の話に戻りますが、日本のバブル崩壊後の状況というのは、こうした狭心症や心筋梗塞の病態にやや似た感じがするのです。それをなぞって見ていきたいと思います。

92~93年頃というのは、バブルが崩壊したと言っても、日本経済の明らかな異常というのは、それほど明確になってはいませんでした。つまり、ショックの大きさというのはこれまでにも経験した程度の不況期、という程度だったのではないでしょうか。勿論株価や地価の下落というのは相当程度あったわけですが、「致死的」という状況をもたらすほどのダメージではなかったでしょう。それは経営サイドの心理的悪化もさほどではなかった、という時期だったと思われます。理由としては、バブル崩壊後であったにも関わらず、新卒採用の為の求人というのは増加しており、失業率も後に5%超となるような最悪期に比べれば全然低かったでしょう。2~3%程度であったように記憶しています(間違ってたらゴメンなさい)。93年春の大卒新規採用者たちは、90年よりも多かったのですよね。当時は売り手市場であったという側面もあって、青田買いが卒業1年前どころか2年くらい前から「採用予定」というような、半ば「約束」みたいなものがあったのかもしれません(それほど大卒新人を確保するのが困難だった…思えば凄い時代だったのですよね…)。なので、直ぐには新卒採用数を削るというわけにはいかなかったのかもしれないです。

でも、その後の氷河期を考えれば、当時はダメージはまだまだ小さかった。この95年くらいまでの間に、適切な対処が行われていたならば、その後のショックの大きさは軽減できてたかもしれませんね。当時の金利水準(公定歩合しか知らないけど)は、まだまだ下げ余地があったのですから。つまり、バブル崩壊のショックで、挽回可能な代償期であったわけです。そこでの金融財政政策で適切な運営がなされていたならば、まだ救うこともできたのではないかと思えます。この時代には、政治的に不利な部分があった。一つは日本の政治の混乱です。新党ブームだの、政権交代だの、頻繁な混乱を招いてしまっていた。政党分裂も起こった。つまり、政治的な政策推進という面においては、一貫性が失われ、日銀に対しての強い要望・姿勢というものも、殆ど意味をなさなくなっていたのではないでしょうか。頭の挿げ替えが頻繁に起こるわけですから、経済政策面までは政治家たちの目も行き届くわけもなく日銀任せということになっていたのです。もう一つは、クリントン政権が誕生してしまったことでしょう。それは日米経済交渉という「決戦の舞台」で常に戦うことになってしまったこと、米側の強い要求を突きつけられそれを呑んでしまった(呑まざるを得なかった?)ことが、結果的に日本企業の歪な変化をもたらしてしまって、後々のダメージを深刻にしてしまった可能性があるように思えます。

なので、95年くらいまでの挽回チャンスに経済政策を適切に行ってさえいえれば、その後の最悪期を迎えることは阻止可能であったかもしれないです。先の例で言えば、心筋梗塞になっていなくて、まだ狭心症で心臓が苦しくなることがあった程度であった、ということです。連鎖的なノンバンク破綻に陥る前に、適切な処置をしておけば、重大な壊死組織(巨額倒産・不良債権)を生ずることはなかったでしょう。こうしてノンバンクにツケが回り、遂には銀行にもそのダメージが広がっていくことになるのですが、ここから先は物価面でのデフレというのが顕在化していきます。97年後半以降、現在に至るまでの間、長い長いデフレ期間に突入となっていったのです。

塞栓症のような場合には、急速な血管閉塞を生じ、急性心筋梗塞に至ることもあるのですが、多くは血管内壁にゴチャゴチャとくっついて血管を段々と狭めていき、遂には完全に血流遮断が起こります。完全に詰まるまでには、時間があるし自覚症状というのも出てくるのですよね。何度も言うようですが、この時期に適切に処置しておくことが必要だ、ということなのです。それをやれば、壊死に至らずに済むのですよ。ゾンビ企業はこうした壊死組織と似ているのです。壊死組織に血液を供給しても(=追い貸し、資金供給ということ)、既に死んで動かない心筋なので意味がないですね。それはそうです。でも、壊死に至らせないような処置が必要だった、と言っているのですよね。壊死しなければ、企業は大量にゾンビにはなったりしませんからね。

壊死組織というのは、細胞が壊れるのでタンパク分解酵素やカリウムイオンなどの有害物質を大量に放出することになり、周囲組織にもどんどんダメージを与えていきます。壊死範囲は広がるのです。これは企業の連鎖的な倒産にも似ているのですよね。しかも、他の生き残っている企業のバランスシート悪化も招くので、倒産をまぬかれていても不良債権化してしまったゾンビは、残っている企業に悪影響を及ぼすというのは理解できます。それでも、回復させるような手を尽くすべきだったろうと思えるのです。

人体というのは、中々不思議な機構を備えています。肺は呼吸によって二酸化炭素を吐き出して、酸素を取り入れますよね。このガス交換は小さな肺胞という部分で行われますが、肺胞には血管がたくさんあって血液中の二酸化炭素が肺胞内に放出され、酸素を取り込むことができます。肺という組織はちょっと不思議で、場所によって酸素濃度が違っていたりします。どの肺胞でも酸素濃度が一様である、ということはないのです。すると、ガス交換の効率に違いを生じます。酸素を豊富に含む肺胞では、そこを通過する血液の酸素化は「良く」なりますが、逆に酸素濃度の低い肺胞では、酸素化は「悪く」なるのです。肺に病気などなくても、こうしたことは起こってしまいます。で、一定基準よりも「悪く」なっている場所では、どうなるかというと、酸素の少ない肺胞を通過する血液の量を減らし(=血管収縮が起こり血流を減らす)、酸素の多い肺胞の方に多く血液を流すように配分を変えるのです。これは、hypoxic pulmonary vasoconstriction(HPV)と呼ばれる反応です。酸素濃度変化によって、自動的に起こる血管反応なのです。つまりは、酸素化効率の悪い部分には血液を少なく送ることで、肺全体の効率を高め、酸素化効率の良い部位に優先的に血流を配分するのです。

経済活動も似ていて、効率がよく成長する分野にどんどん資金供給を優先した方がいいですよね。

でも、心臓の場合だと、こうした血管反応は生じないのです。たとえ若干「動きの悪い部分」があるとしても、そこへの血液供給を減らしたりすれば狭心症のような症状が出るでしょう。更に血液を減らしていけば、壊死に陥る心筋細胞が出てくるかもしれません。肺ならば全体効率を高められるのに、心臓で同じ事をやってしまうと良くない面もあるのです。狭心症のような症状が出れば、逆に冠血管を拡張する(=血流を増やす)ような薬剤を投与せねばならないのです。経済活動で言えば、資金供給を潤沢にする、ということと同じような意味合いです。代表的な薬剤は「ニトログリセリン」ですね。冠血管の拡張作用があるので、狭心症症状は改善されます。

薬物を投与すれば、副作用も生じてしまったりしますね。たとえば、冠血管系以外の他の血管も拡張してしまって、血圧低下を招いたりすることになります。また、先のHPVも抑制されてしまいます。心臓を「助けよう」と思えば、ニトログリセリンを投与するのは当然であっても、他の良くない現象をも引き起こしてしまうのは止むを得ないのです。更に、血管拡張をもたらす薬剤でありながら、狭窄病変のある部位の血管を拡張したいのにも関わらず、狭窄部位の拡張があまり起こらないで健康血管が主に拡張し、健康部位にばかり血液が盗られてしまうというスティール現象ということが考えられる場合もあります。これはまるで肺で見たようなHPVと似たような現象になります。経済活動で言えば、苦しんでる部分(=瀕死の企業、不良債権になるゾンビ企業)はどうせダメだから資金供給を絶って死なせ、残った健康部分に多く血流を流せば良い、というような発想に似ていますね。これは心筋梗塞を招き、壊死組織が大きくなることでどんどん悪化していくかもしれないのではないかと思えますね。

狭心症で苦しむならば、
・冠血管を拡張する薬剤を投与
・その副作用として、血圧低下や酸素化効率低下が起こる
・スティール現象に注意が必要
・他の症状に対しては、それに合わせた別な対処が必要
ということになると思います。

日本経済が深刻なダメージを受ける前の状況(大体95年くらいまでかな?)は、まさしくこの時期であり、壊死(不良債権)がそれほど大きくはなっていなかったでしょう。つまり、主病因に対する適切な処置(=金融政策)、残りは個別に政策を割り当てていくべきであったと思われます。例えば、金利を早く引下げ緩和を実施、為替は外貨を大量購入、雇用対策や財政出動を合わせて実施、などというのが考えられた(いい加減ですけど)かもしれないです。何よりも、「壊死に陥らせない措置」(=心筋梗塞に陥らせない)というのが最優先課題であったでしょう。

ところが、的確な手を打たずに放置してしまった為に、壊死組織は広がっていきました。つまりは、後戻り可能な狭心症の状態から、急性心筋梗塞へと悪化してしまった、ということです。それが96年以降に起こり、大々的に壊死したのが97年ということになるでしょうか。見通しが甘かったのですよ。日銀の診立ても全然ダメだったのですよ。一端壊死に陥れば、もう心筋細胞は元に戻れないのですから。こうして97年ショックを迎えることになってしまったのです。不良債権処理云々というのは、壊死に陥りそうな組織には血流を遮断すべき、「今ある血流で生き延びられる組織だけを助けることを考えるべき」というようなことなんですよ。それが最悪の悪循環を招いてしまったのです。
つまり、
壊死が広がる→周囲の生きてる心筋細胞もダメージ→心臓の動きは悪化→血流全体が減少→減った血流に見合った心筋だけ救え→更に壊死が拡大→もっと広い範囲の生きてる心筋細胞にダメージ→心臓の動きはもっと悪化→もっと血流が減少→救える心筋はもっと減少→以下最悪ループ…

というようなことです。こうして弱い部位は続々と壊死していったのです。アジアに吹き荒れた通貨危機も、日本の体力を大幅に奪っていきました。これも大きなショックとなってしまいました。

それでもITバブル期には、脱出チャンスが訪れました。人々は恐る恐るながらも、考え方を変えてみようかな、とちょっと思い始めたのです。90年代後半から、社会の大きな変革時期を迎えたからでした。それは携帯電話とネットの普及、急拡大があったからです。この時に、金融緩和策をガッチリ実施し、「明るい兆し」を感じ始めた人々の自信を取り戻してさえいれば、その後の最悪期を迎えることは防げたハズです。しかし、日銀は引き締めを断行、ゾンビは「逝ってよし」政策(=不良債権処理等)を推進することなったと思います。こうして日本経済は瀕死の状態に陥りましたが、基礎体力がまだ残されていたのと、偶然外部の(主に米中経済の)活況が訪れて、運良く生き延びたのですよ。誰かが正しい治療法を選択して助けてくれた訳ではありません。政府や日銀が救ってくれたのではないですよ。自分の力で、元々持っていた回復能力で、「自然に」回復軌道に乗ってきたに過ぎません。治療が奏功したかどうか、治療法の選択が正しかったかどうか、それは全く不明だと思いますよ。日銀や政府のとった策がなくても、もっと早く回復出来た可能性すらあるのです。これまで何度か書いたが、日銀のとった策というのは、自らが自然に回復しようとする力を妨げることでしかなかった可能性の方があるくらいです。余計な手出しをしてくれたお陰で、逆に病状は悪化して、回復までの時間が延長したようなもんです。昨年の量的緩和、利上げや今年の利上げ騒動などを見れば、そうとしか思えませんよね。

デフレに至るまでの間に打てる手を尽くさなかったこと、ゼロ金利になって金利政策は効果がないとしても、他にやるべきありとあらゆる手を尽くさなかったこと、そうした責任はあると思うのですよね。自分が死にそうになった時、「こうなってしまっては、もうニトロは効かないから、お手上げです。他の手は自信ないから何もできませんね」とか言う医者が担当だとしたら、どう思いますか?(笑)
助けようという決意も責任感もなさ過ぎる、って言ってるんですよ。無責任な対応に終始していたような連中は、是非とも「アナタはもう手遅れですから、逝ってよし」とかハッキリ言われてみた方がいいと思いますね。



福島産科死亡事件の裁判

2007年01月28日 16時26分37秒 | 法と医療
既に色々な意見が出されてきたと思いますが、いよいよ始まった、ということで注目を集めているでしょう。特に、多くの医療関係者たちの関心が高いようですね。

これまでの参考記事です。

プロフェッショナルと責任

サンバの幻想?

医療不審死の問題

悪い予想が現実になってしまった

私は官僚ではありません(笑)

助産師・看護師の業務に関する法的検討

奈良の妊婦死亡事件について

続・奈良の妊婦死亡事件について



まず、毎日新聞の記事を見てみました。
例の奈良県の病院の報道後でもあり、あの時と報道がどう変化しているのか、参考になりますし(この事件に関して、報道ベース程度の情報しか見てないので、詳しいことは知らないです。2ちゃんとか読みませんし、何か別の情報源もないです。事件のまとめサイトみたいな所も、詳しく読んでいません)。


Yahooニュース - 毎日新聞 - 福島産科事故 被告産婦人科医、起訴事実を否認 初公判で

一部抜粋しながら、思うところを述べてみたいと思います。これまで何度もお断りしておりますが、私は医師ではありません。なので、あくまで専門外の素人考えであるということを念頭に置いて、お読み下さるようにお願い致しますね(以下、毎日の記事からの引用部分は『』で表示します)。




『冒頭陳述で検察側は、応援を呼ぶべきだという先輩医師の事前のアドバイスを被告が断ったことや、胎盤はく離開始5分後の血圧降下など大量出血の予見可能性があったことなどを指摘した。』


◎「応援を呼ぶべき」というのは、殆ど全ての場合に当てはまってしまいます。どのような手術であっても、自分1人よりは他にも同じ専門家が居てくれた方が有り難いに決まっています。「医師の技量評価」について、自分が自ら行う場合と、他人から見て行う場合には乖離がある可能性があります。更に、本人にとっては「十分可能」と判断できるレベルであっても、実際の現場では「想定外」というようなことに度々突き当たるのであり、そこで判断や予測が「甘かった、悪かった」というのを事前に判別するのは難しい部分があります。医療の本質的な部分というのは、「想定外」ということが割りと頻繁に生じてきて(つまり、未知の領域である部分が”いつも”ある)、常にそれとの格闘なのである、ということなのです。これに対して、どの程度の共通認識があるか、医療関係者たち以外にそれが理解されうるか、そこに大きなギャップが存在しているのではないかと思えます。

いつもの如くヘンな喩えでスミマセンが、レジで会計する時みたいに、「誰がやっても」「どのような場合でも」同一の答えがはじき出されるというものではないのです。値段がいくらになるのか、計算してみるまでは正確に判るということではないのです。事前に「おそらくコレくらいだろう」という目安みたいな金額を判定する能力は培われますが、実際計算し始めたら予想もしていなかった答えが待っていたりするのですよ。機械的、単純に、「答えは~円だ!」という定型的な結果は出せません。医療というのはそういうものだ、ということです。


◎「胎盤剥離開始5分後の血圧降下」というのは、かなり断定的ですけれども、本当なのでしょうか?疑問は残る可能性があります。
以前ドラマであった(現代版の方、私は好きでした)「白い巨塔」でも大量出血シーンがありましたよね。2番手で入っていた講師の先生が、自分の顔面に返り血を浴びて我を失うシーンでした。こういった事態は、ごく普通の手術でも起こりえるものなのです。胎盤剥離の有無になど全く関係なく、血管損傷を生じたりして大量出血することなど、「特別珍しい」などということはないでしょう。もしも、こうした「血管損傷」とか「大量出血」自体が、「医療過誤であり、刑事罰を受けねばならない」ということになれば、手術できる人は誰もいなくなるでしょう。

血圧降下の原因については、色々と考えられるのではないでしょうか。出血は勿論ありますが、例えば、麻酔薬(麻酔深度)の影響、神経線維などの牽引(鈎などで引っ張られて)による反射なども有り得るのではないでしょうか。通常、健康な若年者(この事件の患者さんも恐らくそうだろう)であれば、一時的に出血量が100や200mℓ程度出たとしても、予備的能力が高いので大したことないのが殆どではないかと思えます。剥離した部分から動脈性の出血を生じ、一瞬で腹の中(術野)が血の海になるとか、天井付近まで血しぶきが上がるというような(「白い巨塔」のシーンみたいなものです)、本格的大量出血でもない限り、出血したからと言っていきなり死亡する訳ではありません。大量輸液、代用血漿投与、等でも循環は維持されうるのです。前にちょっと触れましたが、赤血球の酸素運搬能は理論値で言えば相当低くても生命は維持されますし、術中であれば酸素濃度を高く呼吸させられるので、低酸素血症に直ぐに陥ったりしません。1ℓ程度の出血があったとしても、「輸血なし」で手術を終わる人々はたくさんいます。体重60kgで全血量が仮に5ℓであるとして、手術中に5ℓ以上の出血となっている手術は、日本全国を探せばそれこそたくさんあると推測されます。出血量が多いからと言って、必ずしも死に至るわけではありません。輸血がある程度追いつけば、全血以上の(或いはその何倍かの)出血があったとしても、命に別状があるということにはなりません(勿論、出血が少ないのが一番いい)。

失血死というのは、そもそもただ「血が出たから」といって死ぬ訳ではありません。循環が維持できなくなるのが大半の理由であると思います。要は出血性ショックみたいな病態ということでしょうね。しかし、血液そのものではなくても、輸液で血管内のボリュームがある程度維持されていれば血圧は維持され、5ℓの約3分の1以上の出血(通常、致死的とか言われる出血量)が起こっても生命維持には影響しません。術前のHbが12あって、出血で8まで落ちたとしても、全く輸血しない場合でも酸素化は十分可能ですし、循環維持も可能なのです。殺人事件みたいに刺されて出血したままになれば、どこからも「血管内に」ボリュームを維持する為の水分は補給されないので、血圧低下が避けられず、循環虚脱に陥って死亡することになるのです。しかし、術中というのはそうした「突発的事態」に備えて、対策が予め講じられているのです。

本当に術中の出血死であるとすれば、手術を終えることなど不可能です。胎盤剥離や子宮摘出など全く出来ません。腹の中が血の海で、何も見ることもできないからです。死亡が確実となって、循環が止まれば(心室細動のような状態でしょうか?)出血自体も止まるので閉じることはできるかもしれませんけれども。繰り返すようですが、「出血量=死」というような単純なものではありません。一気に出るのではなく、ジワジワ出るというのであれば、術中に出血が多ければ多いなりにある程度の対応は可能であり、MAPが2単位とか4単位とか用意されているのであれば、相当の出血量にも耐えうると判断できると思われます。たとえ出血量が2000mℓであっても、輸血量が同量である必要性は全くない、ということも付け加えておきます。




『被害者の父親は「事前に生命の危険がある手術だという説明がなかった」と振り返る。危篤状態の時も「被告は冷静で、精いっぱいのことをしてくれたようには見えなかった」と話す。』


◎「生命に危険がある手術という説明」は、全ての医療に当てはまります。手術というのは、どんな場合でも「生命に危険」があります。他の医療行為の大半がそうです。では、それを予めどのくらい説明するべきか、というのは、決まっているかというと、実際には誰にも判っていません。もしも、出産に際して「帝王切開手術は生命に危険があります。どうしますか?」と訊いたら、ますます不安に陥る患者さんはいないでしょうか?

あなたが航空チケットを購入する時、「この便は墜落する危険性があります」とか、事前説明を受けた上で購入したりしていますか?電車の切符を購入する時、「この電車は脱線死亡事故のリスクがありますのでご注意下さい」とか、事前説明を受けそれに納得同意した上で購入したりしているのでしょうか?なぜ医療だけが、そうした「事前説明」を厳格に適用されねばならないのでしょうか?

普通に生活していて、「(一定の)リスクがある」というのは、周知の事実であるという不文律があるからなのではないでしょうか。自動車を購入する時に、「この車は衝突事故で死亡する割合が10万人中○人、轢き殺すリスクは×人です」などという説明を求めたり、それを「聞いてなかったから」といって刑事告訴したりするということはあるのでしょうか?答えるのが難しい事柄であるにも関わらず、「事実に基づいて事前に説明せよ」ということを、求めることに意義がどの程度あるのでしょう?

本来、医療の説明責任というのは、ある判断に基づいて、「患者の希望」というものを治療に反映していくことを目的としているのであって、例えば治療法A、B、Cの選択範囲が”可能である”時、それぞれについて効果やリスクについて説明し患者の同意を得るものとするべきものなのです。選択余地が殆どない、予後を大きく左右しない、患者の選択権を大きく侵害しない、というようなことについてまで、過剰な説明義務を課すとすれば、その為のコストを社会全体が負担するべきです。一件一件について、極めて厳密な契約を定め、代理人同士で契約締結を行うというレベルにしなければ、医療側がどんな説明をしたとしても紛争解決には至らないであろうと思われます。患者や家族側に完璧な説明をするというのを実施することがそもそも不可能だからです。全てを網羅することなど、今の医療にはできません。「説明を聞いた結果、治療を受けたくない」というような選択肢についてまで、コストは負担されていないのですよ、現状では。弁護士の相談と同じくタイムチャージ制にして、依頼をしてもしなくてもコストを払うということにする、或いは、契約成立時の報酬を不成立であった人たちのコストもカバーするほど負担する、などの対応を取らなければ、説明を受ける権利だけを一方的に主張されても無理ではないかと思われます。説明を受ける権利は、その対価がないのに契約が発生するとも思えないのですが、どうなのでしょうか(法学的な解釈は全然判りません)。


◎「危篤状態の時も被告は冷静」というのは、医師として当たり前です。そんな所で取り乱したり、慌てたりしているようでは、むしろ医師としての資質を疑うでしょうね。自分だけが頼り、という厳しい状況下では、自分が隊長であり全ての指示も自分だけでやらねばなりません。そんな所で冷静さを欠いているような隊長だったら、指揮命令系統は機能しなくなり、部下は全く動けなくなります。誤った指示や行為を生むことにも繋がります。どんなに追い詰められても、慌てず冷静でいることは絶対必要でしょう。まさか、泣き崩れて土下座でもしたならば、精一杯のことをしたと評価されるのでしょうか?




『「納得できない。娘が死んだ真相を教えてほしい。このままでは娘に何も報告できない」と不信感を募らせる。』


◎「納得できない」というのは理解できない訳ではありません。もし私も自分の子が死んでしまったりすれば、同じように思うと思います。しかし世の中には、判ることと判らないことがあるのは普通なのです。誰にもよく判らないことなんて、たくさんあるのです。医療の多くは、大半に有効な治療法というのはありますが、それが奏功せず残念な結果に終わってしまうということもあります。それが「何故なのか」判らないが故に、多くの医師たちや研究者たちが答えを探しているのです。「何故、患者さんがお亡くなりになったのか」という問いは、医療の中では常にあるのではないでしょうか。それが正確に判るのであれば、誰も苦労はしないでしょう。7割の人たちがみんな治癒しているのに、どうして他の3割の人たちは不幸な転帰を辿ってしまうことになったのか、教えて欲しいですよね。そういうことが依然として判らないからこそ、完璧な医療なんて存在していないのですよ。「完全なマニュアル」も存在し得ないのですよ。




今回の毎日の記事は、一応他の患者さんの意見も掲載されており、必ずしも一方的ということでもなく、以前よりも配慮はされていると思います。それから、「ニュース23」では、筑紫さんは「(事件の評価は別として)医療崩壊の危機が現実問題として、ある」というようなコメントを述べていました。女子アナもちょっと補足してましたが、周産期死亡は減少してきた、医療側は努力してきた、ということに対して触れていたので、一定の評価をしてくれたのだと思っています。ただ、事件のことについては、法的な評価があると思うので、どうなるのかは判りません。



続・イルカはサメになれない~幻想崩壊

2007年01月28日 00時05分50秒 | 俺のそれ
前の記事の続きです。
何が言いたいのか判らん、というご意見がきっと多かったでしょう(笑)。スミマセンね。
端的に言うと、日本の経済システムが混乱に陥ったのは、きっと「イルカ」が「サメ」になろうとしてうまく行かなかったからではないのかな、という気がするのです。これは本当に素人考えに過ぎないので、あんまりマジに突っ込まれるとアレなんですが。


日本企業というのは、世界的に見てかなり特殊な世界であったのですよね?外資は「ケイレツ」とか「日本独特の村社会」みたいなのがあんまり理解できないので、「オレたちには判らないじゃん」と文句を言い、情報が公開されてないし不平等だ、日本市場は閉鎖的だ、というような不満が多かったのでしょう、きっと。会計基準とか帳簿なんかも日本のはアヤシイんじゃないか、金も持ってないし、効率的でもないじゃないか、とか色々とあったのかもしれません。この辺は何がどうというのは全く知らないので、いい加減な憶測なのですが。まあ、米国を中心に不満が噴出していて、バブル当時などは日本が海外に進出していったし、企業買収なども盛んだったので、「日本は改善すべきだ」という批判を浴びやすかったでしょうね。

日本企業の傾向というのは、かなり借金が多く、不動産や持株などの「休眠資産」みたいなのが結構あって、従業員にはそれなりに給料を払っていたのではないかと思います。企業スポーツも割りと盛んであったり、福利厚生施設―社員寮・社宅みたいなのに代表されるだろう―みたいなのも意外と整っていたでしょう。海外からキャッシュフロー経営みたいなのを取り入れるまでは、日本式経営でやってこれたんだろうと思います。そういうのに合わせた社会制度や給与体系なんかが日本人気質というか体質に合わせて、何となく作り上げられてきたのだろうと思います。それが良いか悪いかは判りません。この評価については、とりあえず触れません。

少し話しが飛びますがご容赦を。以前にちょっと書いたのですが、時価総額というのは、ある種の幻想みたいなものだ、ということがあると思います。世界的に有名な企業の株式取引は世界中で行われていると思いますが、たとえそうであっても全株式が全部取引される訳ではないでしょう。売ったり買ったりはあると思いますが、あくまで一部分であって、それが全部取引市場に投入されることはまずないでしょう。倒産寸前とか、何かのショックに見舞われた企業だと、一斉に売りが起こったりすると思いますけれども、そういう特殊な事情がなければ、「大量に売られる」ということは滅多に起こらないのではないでしょうか。

企業を株式の面から評価する時、時価総額で評価するというやり方がありますが、これはほぼ幻想に過ぎません。実体としての経済価値がどうなのか、というのは、もっと厳密な会計上の数字などによって決まってくるでしょう。株式の取引結果である「株価」で時価総額という企業価値は、取引参加者たちの会社の一部分だけ売買した結果に過ぎないのです。実際に全部を売りに出して取引すれば、もっと違った株価になってしまうかもしれないのです。なので、大半はみんなが時価総額という数字、価値を「信じ込んでいる」というだけなのではないかと思います。

かつての日本企業の価値というのは、これと同じくタダの幻想に過ぎない部分が相当あったのであろうと思います。それに立脚した経済活動というのが普通で、それに長年慣れ親しんできたのです。なので、企業は土地建物等の不動産を中心とした担保を元に資金調達を行い、それによって企業活動を行ってきたのだろうと思います。つまり、信用創造の源泉は、「いくらなのかよく判らない資産」であったということです。そうした不動産というのは、社員寮の土地であるとか、草ボウボウの遊休地であるとか、誰も来ないような保養所のある社有地とか、企業の本質とは関係ないようなものであっても通用していたのだろうと思います。昔はそれで良かったのです。大量の持合株にしても、それがどれくらいの投資リターンを生むか、担保差し入れの不動産がどれほどの利益率なのか、そういうことはあまり重要ではなかったのでしょう。でも、現実世界の中で使われている部分だけ(実際に工場が建設されるような土地とか、本社ビルを建てる土地とか、株式市場で取引される株式とか)の価値が取引によって決まり、それは企業活動の成功によって「着実に価格が上昇してきた」、つまり「価値創造が順調に行われてきた」ということであったろうと思うのです。なので、土地価格が坂道を転げ落ちるように下落していくとか、持株価値が何分の一、何十分の一まで下落するとか、誰も想定していなかったのです。これら資産価値というのは、ここ数十年に渡って、順調に右肩上がりできていたからです。

ところが、バブル崩壊で歯車が狂い出したのです。米国式の考え方が直輸入されるようになってきたからです。人々は自信を喪失してしまったのです。これまでになかったような不安に陥り、自らを疑ってしまったのです。根底にあったのは、恐怖でした。そこに追い討ちをかけるように、「サメ」はひたすら「イルカ」に誘惑の囁きを続けたのです。同じ「サメ」になるように耳打ちしていたのです。「オマエらは効率が悪いんだ、眠ってる資産からは金は生み出されないんだ、借金が多すぎなんだ、キャッシュが一番なんだ・・・・」

確かに一部は正しかったでしょう。日本が素早く米国式に変われるならば、ダメージは少なかったかもしれません。でも、何十年も続けてきたことを急に捨て去るのは、多くの場合難しいのです。本来的には、自分たちにあった方法で変革を遂げれば良かったのでしょうが、人々を支配した恐怖や不幸にして同時期にそれに加わったいくつかのショックによって、それまで経済システムを支えていた幻想は打ち砕かれました。それは、まるで貨幣制度を支える人々の幻想が一気に崩れ去り、それまで「価値がある」と信じ込まれていた紙幣がトイレで尻を拭く紙にもならないと目覚めたかのようでした。そもそも、経済活動の多くを支えているのは、こうした幻想に過ぎない部分なのですけれども。

つまり、日本企業の信用創造を支えてきた不動産や持合株などが、「あまり価値がない」と多くの人々が信じた為なのです。その結果、(資産の)時価総額は収縮することになったのだろうと思います。もしも、世界的な有名企業の株式が途切れることなく売りに出された時、一体どのようなことが起こるでしょうか?仮にGEの株式の大半が売り出されたら、相当の下落を覚悟せねばならないと思いますね。取引価格は、ごく一部の売買で代表されているうちは、「ある範囲」に収まっているだろうと思いますけれども、大半が「実物」として頻繁に売買されてしまえば、殆どが売り優勢になると思います。日本で起こった土地や持株の売却は、まさしくこれと同じようなことになってしまったのだろうと思います。こうして、悪循環が形成されてしまいました。そりゃそうですよね。それまで「金を生んでこなかった」社宅や保養所、ボロい物置しかない雑草だらけの土地、こんなのを見た人が「これに投資すればリターンはこんなに得られる」みたいに考えることって、まず滅多にないでしょうから(笑)。

実際どうなのか判りません。元々の簿価は全然低かったかもしれないので、資産として占める割合が多くなかったかもしれないですしね。でも、「東京都だけの土地価格でアメリカ全土が買える」みたいなたとえ話(うろ覚えなので不正確です)があったりしたので、米国から「日本の土地がそんなに価値を生み出すわけがない」、「そんな土地価格はオカシイ」とか、色々言われたりして、そうかもな、と思ってしまったのが日本だったのだろうと思います。それって学問的にどうなのかは判りませんが、「別にいいんだよ、これで」と相手にしなければ、幻想は維持されていた可能性はあるかもしれません(バブルの時の価格が適正とも思いませんが)。シンガポールのマンションはきっと高い値段であったりすると思いますが、その同じ金を出せば「~の国土の○%が買える」みたいな話って、世界中で探せばいくらでもありそうですし。ルクセンブルクは小さいけれども、その何倍も大きな国全部を買えるというような話も十分有り得そうですよね。そういうようなもんです。

なので、資産の一部分だけの取引価格から幻想によって「時価総額」を創造していたのに、それが全て否定され幻想を捨て去ったことが悪循環を固定化してしまったのではないでしょうか。そして、遂には耐性の臨界点を越えてしまい、銀行破綻・金融危機へと突入していったのではないのかな、と。


少し離れますが、池田氏の記事が面白いですね。リフレ批判はまだまだ続きそうです(笑)。

池田信夫 blog ケインズ反革命の終わり

因みに、この中で池田氏は『デフレを直すことによって不況を脱出しようというのは、体温計の目盛を変更して熱をさまそうというようなものだ。』と述べておりますが、うまいこと言いますね。これって私の書いた記事とは関係ないと思いますけど、どうなんでしょうか(笑)。
特に、ここ>「価格設定側である企業に形成された、バブルの熱狂と反対の、まことに弱気の「spirit」を刺激する(それか、ある種の”セットポイント”の下方移動のような)sticky information が彼らに充満していたのではないのかな、と。」
偶然だね、多分。読んで判る(感じる)人には、通じるかな?


それから、ゾンビ企業に資金供給したからダメだったんだ、というお話でしたが、これって、企業だけのことなんでしょうかね。個人だとどうなのでしょう?以前に、貸金業関連で書いたのですけどね。
コレ>貸金業の上限金利問題~その15

「追い貸し」と「多重債務」というのは結構似ていて、「中小・零細業者が借りられなくなる」とか池田氏などは書いておられたので、思わず『このような多重債務に陥った事業者の処理を先延ばしするのが、「経済学的に合理的」と?(笑)』と書いたのですけれどもね。貸金が返済困難なゾンビに貸し込んでるかのように見えなくもないのですが、どう違うのかよく判らないですね。自転車操業期間を延長して破綻処理を先延ばしするよりも、資金供給を停止して処理を進めた方がよい(つまり、多重債務に陥っている個人には、それ以上の貸出を止める、ということだ)ということに賛成するのだろうか?池田氏は。しかし、既に貸金から借りている900万人だかが「もう借りられなくなる」=市場から締め出される・超過需要が発生する、と言って反対していたように思うが。ゾンビに貸せ、ということなのかな?
この話題は過ぎたことだから、別にいいけど、ちょっと疑問に思えたので。