現代社会で生きて行くのは中々大変です。複雑な事柄が多すぎて、1人の人間の能力で処理できる部分が限られています。今の学問体系なんかを俯瞰してみれば、そのことがよく判ります。また、何かを理解したり解決策を考えたりするにも、特定分野の知識もさることながら、別な分野の知識も必要とされるのです。完璧でオールマイティな人間は誰もいないにも関わらず、複数分野のことを理解し何かの提示を行うことのできる人材を社会が求める時代になっているのだと思います。
何故こんなことを言い出すかといいますと、恐らくご存知の方々も多いと思いますが、ネット界隈では有名な小倉先生がまた・・・って違いました(ゴメンなさい、小倉先生)。そうではなくて、専門家同士であっても、それとも専門家同士であるから?こそ、相互理解に至るには大きな壁があるのだろうと思えることがあったからです。時々拝見し勉強させて頂いている、町村先生とモトケン先生の所で、興味深い議論が続けられています。
Matimulog juge藤山雅行裁判長のお話
元検弁護士のつぶやき 町村先生へ (医療崩壊問題に関して)
<ところで:
小倉先生は「匿名バトルもの」(笑、度々の失礼申し訳ありません>小倉先生)ではない話題にも関わらず、珍しく議論に参加されていますね。町村先生のコメント欄ではツワモノ論客ですので、今回に限ったことではないわけですが、結果的に議論をより複雑化する方向に誘導しているかのような印象を受けてしまいますが、どうなんでしょうか>
以前に、私の記事にもご登場戴きました。
頂いたコメントへのお返事~「元検弁護士のつぶやき」様
不戦敗宣言はまだ早いのでは他


これまでの流れを足早にかいつまんで書くと、次のような感じです。
町村先生は、業界内では「藤山コート」で著名らしい藤山裁判官のお話を、記事にお書きになられたことが出発点でした。この内容に関して、町村先生が何ら非難されたりすることではないと思えますし、藤山裁判官の講演内容についても、普通の人々が聞いたところで、特別にオカシイというほどのことはないでしょう。
一方、モトケン先生のブログでは、かねてより医療崩壊に関する意見や議論の積み上げを相当続けておいででした。医療訴訟関連では、藤山裁判官の名は医療側からすれば「悪名高き裁判官」の1人として胸に刻み込まれている、というような状況があったようでした。その為、法曹関係者には医療に対する理解が不十分なのではないか、というような意見が出されるわけです。大雑把すぎでしょうけれど、おおよそこのような流れです。
ここに、ある断絶が浮かび上がってくるのです。それは、医学と法学という、全く異なる言語体系(という表現は不適切かもしれませんが・・・)を持つ専門家同士が共通の理解を得るには、まずこの言語の壁を乗り越えていかねばならないのではなかろうか、と。言語体系という喩えはオカシイかもしれませんが、ほぼそういうイメージなのではないだろうか、と思うのです。だって、ドイツ語とフランス語で、それぞれ片方しか理解できない人たちが何かを議論しても、まずうまく成立しないのではないでしょうか、ということです。まず必要なのは、翻訳とか通訳のような人材なのですよね。
モトケン先生はこれまでの議論の積み上げがあったので、「医学(医療)」に関する「言語体系」に随分と慣れてきて、理解が深まっていたのではなかろうか、と思えるのです。モトケン先生は、一般的な法曹に比べれば、ドイツ語もフランス語も理解できるようになっている、つまり医学と法学の両方の言語体系を理解できるようになっている、ということなんだろうと思います。しかし、批判の対象となっていた藤山裁判官や、藤村講演を記事に書いた町村先生には、そこまでの積み上げはないでしょうし、医学の言語体系についてはまだ十分理解できていないのではないだろうか、ということがモトケン先生や医療側から感じ取れる、ということなんだろうと思うのです。この見方を逆に変えると、医療側も法学の言語体系を理解していない面があり、それ故に藤山裁判官や町村先生に「無理解」の非難をしてしまうのだろうな、と思えます。こうして、法学と医学の専門家同士の間で高い壁が存在しているのではないかと思えます。双方ともに、教育水準も知的水準も高く、理解できるレベルも高いはずなのに、です。
こういう壁を低くしていく方法を考えることが大事なのではないかと思います。ドイツ語で書かれているものを読む時、フランス語しか理解できない人に、「どうして理解できないんだよ」と単に不満をもらし、きちんと理解してくれと求めるだけでは不十分なのではないでしょうか。「何て書いてあるか」ということを、フランス語で教えてあげるか、双方が理解可能な共通言語を探し出すように努める方が有効なのではないかな、と。それとも、今はフランス語しかできないけれども、これからドイツ語を理解しようという意欲(意志?)のある人を探してきて、分りやすくドイツ語を教えてあげるとか。そういう何かの努力をしなければ、フランス語しか判らない人たちに「どうしてこれが理解できないんだろう」と愚痴をこぼしても、改善が進むわけではないと思うのです。
これと似たようなことは、別な局面でも結構あるかもしれません。
求む!行政情報翻訳家?
熱闘!官業金融~第3R
私がこれらを書いた時に感じていたのは、結局のところ、違った領域を「繋いでくれる担い手」という人が必要なんじゃないのかな、ということなのです。それが「翻訳家」とか、「コーディネーター」というように表現した意図なのです。法学と医学の間の断絶も、こうした繋ぎ手がこれまであまり存在してこなかったという面はあるのかな、と思います。勿論、弁護士と医師のダブルライセンスの人はおられますが、絶対数は少なく、情報発信の影響力はあまりなかったのではなかろうか、と。なので、法学の世界に住んでいれば、医学界からの声はあまり届いてこなかったのではないでしょうか。同じく、医学界の住人になってしまうと、法学界から漏れ聞えてくる危機の足音に気付かず、対処が遅れたということはなかったでしょうか。双方ともに、適切な情報提供が欠けていたと思えるのです。医療訴訟専門の法曹は存在しても、大半が法学の言語体系で考えてきたのです。訴訟当事者となった医療側にしても、勝訴という結果に腐心したりする面がなかったとも言えないのではないでしょうか。自分の弁護人に対してでさえ、医学の言語体系でしか説明せず、理解が深まっていなかった面があったのではないでしょうか。
法学側の住人から見れば、一朝一夕で医療訴訟に対する評価がガラッと変わるものではないはずで、少なくとも医療側が「どんな対応をとっていたか」というのを、(弁護士として)原告・被告双方から見ているのだし、裁判官や検察官といった形で関わりを持ってきたという歴史はあるはずです。そうした中で、医療とか医療訴訟についての何かの認識というのが形成されていった部分はあるので、そういう認識形成に至らしめた責任の一端は医療側にもあるのではないかとも思えるのです。訴訟テクニックとして妥当かどうか、というようなことが、少なくなかったのではないだろうか、と。これは話が離れるので、別な機会に考えたいと思います。
今回の議論を見ていて、最も良かったと思えることは、モトケン先生や町村先生のような法曹の方々に、別な言語体系を理解してもらえたということではないでしょうか。実際、モトケン先生は「翻訳家」としての役割を果たしていると思えるのです。かのブログでの議論の集積は、良い結果をもたらしたと思えます。医学と法学を繋いでくれる人々が今後も増えていくならば、今度はその方々が適切な情報発信をしてくれるようになるはずです。元々フランス語には長けておられるわけですから(笑)。フランス語で考える人々のことをよく知っており、どう表現すれば理解しやすいか、ということもよくご存知のはずだからです。
それにしても、今まで「登ってきた山」が違えば、見える景色も持ってる地図も大きく違うものなのだ、ということが実感されますね。
追加です。
登ってきた山という意味はコレ→「現代日本教養論」を読む
で、書こうと思っていて、書き忘れたことをいくつか。
医療側から出されている藤山裁判官についての批判であるが、心情的には理解できなくはないけれども、上述したように医療側から情報や”翻訳”を提示することが必要なんじゃないか、と思います。内向きに批判を積み上げても、言語体系が異なっている限り、そのまま理解を得ることは難しいのでは。裁判官の個人的能力や解釈傾向について問題にすることは、あまり意味のある批判にはなっていないのではないかと思うのです。そもそも、何の為に上級審があるのか、ということでもあると思いますね。3審制ということで、裁判官の個人的能力の問題というのがある程度リスクヘッジされているということなんだろうと理解しています。裁判官は毎回3人はいるわけですし。
グレーゾーン金利に関する判決なども近い部分はあるように思えます。判決に対して経済学理論をぶつけても、殆ど意味をなさないように感じました。まずは、法学理論には法学の土俵上で検討・対抗するべきであると思うのです。経済学理論での批判に対抗できるのは、やはり経済学という言語を用いた対抗意見なのだろうな、と。言語体系の異なった理論・理屈を同一に論ずることは難しいとしか思えないのです。そうであるなら、医療側は論文や医学書なんかを熟読するのと同じように、判決文をよく読み、法律の条文や法学的な解釈とか法学の土俵に上がった上で批判をした方が効果的なんじゃないかと思えます。「相手(法学)方の言い分」というのをよく知り、書かれている中身とかその考える道筋について理解が深まるならば、どのような主張を行えば少しでも理解が得られるようになるのか、というのがちょこっとは見えてくるんじゃないのかな、と思ったりするのですよね。これが果たして本当に効果的なのか、初歩的な間違いをしたりするんじゃないか、所詮は素人考えだと罵られるんじゃないか、そういう危惧はあるかもしれませんが、ネット上での作業ということであれば皆の知恵とか使えるし、意味のある主張が出せる可能性だってあると思うのです。
なので、裁判官個人への批判を繰り返すことが、法学側の理解を深めることや誤った認識を氷解させることに繋がるようには思えないのです。ズレてるかもしれませんが、例えば、「過失」と「リスク」をどのように評価したり考えたりするのが望ましいのか、社会的要請と医療側が実施可能な範囲というのがどういう違いがあるのか、といったような、裁判の時の判断に役立つ「何か」(具体的中身やどのくらい役立つか分らないのですけれども)というのを積極的に提示していく方がいいのではないかと思います。
久しぶりに一応TBしてみましたが、何故か届かない~
両方ともです・・・どうしてなのでしょう?ひょっとして、TB禁止措置でもとられているとか?(笑)
何故こんなことを言い出すかといいますと、恐らくご存知の方々も多いと思いますが、ネット界隈では有名な小倉先生がまた・・・って違いました(ゴメンなさい、小倉先生)。そうではなくて、専門家同士であっても、それとも専門家同士であるから?こそ、相互理解に至るには大きな壁があるのだろうと思えることがあったからです。時々拝見し勉強させて頂いている、町村先生とモトケン先生の所で、興味深い議論が続けられています。
Matimulog juge藤山雅行裁判長のお話
元検弁護士のつぶやき 町村先生へ (医療崩壊問題に関して)
<ところで:
小倉先生は「匿名バトルもの」(笑、度々の失礼申し訳ありません>小倉先生)ではない話題にも関わらず、珍しく議論に参加されていますね。町村先生のコメント欄ではツワモノ論客ですので、今回に限ったことではないわけですが、結果的に議論をより複雑化する方向に誘導しているかのような印象を受けてしまいますが、どうなんでしょうか>
以前に、私の記事にもご登場戴きました。
頂いたコメントへのお返事~「元検弁護士のつぶやき」様
不戦敗宣言はまだ早いのでは他


これまでの流れを足早にかいつまんで書くと、次のような感じです。
町村先生は、業界内では「藤山コート」で著名らしい藤山裁判官のお話を、記事にお書きになられたことが出発点でした。この内容に関して、町村先生が何ら非難されたりすることではないと思えますし、藤山裁判官の講演内容についても、普通の人々が聞いたところで、特別にオカシイというほどのことはないでしょう。
一方、モトケン先生のブログでは、かねてより医療崩壊に関する意見や議論の積み上げを相当続けておいででした。医療訴訟関連では、藤山裁判官の名は医療側からすれば「悪名高き裁判官」の1人として胸に刻み込まれている、というような状況があったようでした。その為、法曹関係者には医療に対する理解が不十分なのではないか、というような意見が出されるわけです。大雑把すぎでしょうけれど、おおよそこのような流れです。
ここに、ある断絶が浮かび上がってくるのです。それは、医学と法学という、全く異なる言語体系(という表現は不適切かもしれませんが・・・)を持つ専門家同士が共通の理解を得るには、まずこの言語の壁を乗り越えていかねばならないのではなかろうか、と。言語体系という喩えはオカシイかもしれませんが、ほぼそういうイメージなのではないだろうか、と思うのです。だって、ドイツ語とフランス語で、それぞれ片方しか理解できない人たちが何かを議論しても、まずうまく成立しないのではないでしょうか、ということです。まず必要なのは、翻訳とか通訳のような人材なのですよね。
モトケン先生はこれまでの議論の積み上げがあったので、「医学(医療)」に関する「言語体系」に随分と慣れてきて、理解が深まっていたのではなかろうか、と思えるのです。モトケン先生は、一般的な法曹に比べれば、ドイツ語もフランス語も理解できるようになっている、つまり医学と法学の両方の言語体系を理解できるようになっている、ということなんだろうと思います。しかし、批判の対象となっていた藤山裁判官や、藤村講演を記事に書いた町村先生には、そこまでの積み上げはないでしょうし、医学の言語体系についてはまだ十分理解できていないのではないだろうか、ということがモトケン先生や医療側から感じ取れる、ということなんだろうと思うのです。この見方を逆に変えると、医療側も法学の言語体系を理解していない面があり、それ故に藤山裁判官や町村先生に「無理解」の非難をしてしまうのだろうな、と思えます。こうして、法学と医学の専門家同士の間で高い壁が存在しているのではないかと思えます。双方ともに、教育水準も知的水準も高く、理解できるレベルも高いはずなのに、です。
こういう壁を低くしていく方法を考えることが大事なのではないかと思います。ドイツ語で書かれているものを読む時、フランス語しか理解できない人に、「どうして理解できないんだよ」と単に不満をもらし、きちんと理解してくれと求めるだけでは不十分なのではないでしょうか。「何て書いてあるか」ということを、フランス語で教えてあげるか、双方が理解可能な共通言語を探し出すように努める方が有効なのではないかな、と。それとも、今はフランス語しかできないけれども、これからドイツ語を理解しようという意欲(意志?)のある人を探してきて、分りやすくドイツ語を教えてあげるとか。そういう何かの努力をしなければ、フランス語しか判らない人たちに「どうしてこれが理解できないんだろう」と愚痴をこぼしても、改善が進むわけではないと思うのです。
これと似たようなことは、別な局面でも結構あるかもしれません。
求む!行政情報翻訳家?
熱闘!官業金融~第3R
私がこれらを書いた時に感じていたのは、結局のところ、違った領域を「繋いでくれる担い手」という人が必要なんじゃないのかな、ということなのです。それが「翻訳家」とか、「コーディネーター」というように表現した意図なのです。法学と医学の間の断絶も、こうした繋ぎ手がこれまであまり存在してこなかったという面はあるのかな、と思います。勿論、弁護士と医師のダブルライセンスの人はおられますが、絶対数は少なく、情報発信の影響力はあまりなかったのではなかろうか、と。なので、法学の世界に住んでいれば、医学界からの声はあまり届いてこなかったのではないでしょうか。同じく、医学界の住人になってしまうと、法学界から漏れ聞えてくる危機の足音に気付かず、対処が遅れたということはなかったでしょうか。双方ともに、適切な情報提供が欠けていたと思えるのです。医療訴訟専門の法曹は存在しても、大半が法学の言語体系で考えてきたのです。訴訟当事者となった医療側にしても、勝訴という結果に腐心したりする面がなかったとも言えないのではないでしょうか。自分の弁護人に対してでさえ、医学の言語体系でしか説明せず、理解が深まっていなかった面があったのではないでしょうか。
法学側の住人から見れば、一朝一夕で医療訴訟に対する評価がガラッと変わるものではないはずで、少なくとも医療側が「どんな対応をとっていたか」というのを、(弁護士として)原告・被告双方から見ているのだし、裁判官や検察官といった形で関わりを持ってきたという歴史はあるはずです。そうした中で、医療とか医療訴訟についての何かの認識というのが形成されていった部分はあるので、そういう認識形成に至らしめた責任の一端は医療側にもあるのではないかとも思えるのです。訴訟テクニックとして妥当かどうか、というようなことが、少なくなかったのではないだろうか、と。これは話が離れるので、別な機会に考えたいと思います。
今回の議論を見ていて、最も良かったと思えることは、モトケン先生や町村先生のような法曹の方々に、別な言語体系を理解してもらえたということではないでしょうか。実際、モトケン先生は「翻訳家」としての役割を果たしていると思えるのです。かのブログでの議論の集積は、良い結果をもたらしたと思えます。医学と法学を繋いでくれる人々が今後も増えていくならば、今度はその方々が適切な情報発信をしてくれるようになるはずです。元々フランス語には長けておられるわけですから(笑)。フランス語で考える人々のことをよく知っており、どう表現すれば理解しやすいか、ということもよくご存知のはずだからです。
それにしても、今まで「登ってきた山」が違えば、見える景色も持ってる地図も大きく違うものなのだ、ということが実感されますね。
追加です。
登ってきた山という意味はコレ→「現代日本教養論」を読む
で、書こうと思っていて、書き忘れたことをいくつか。
医療側から出されている藤山裁判官についての批判であるが、心情的には理解できなくはないけれども、上述したように医療側から情報や”翻訳”を提示することが必要なんじゃないか、と思います。内向きに批判を積み上げても、言語体系が異なっている限り、そのまま理解を得ることは難しいのでは。裁判官の個人的能力や解釈傾向について問題にすることは、あまり意味のある批判にはなっていないのではないかと思うのです。そもそも、何の為に上級審があるのか、ということでもあると思いますね。3審制ということで、裁判官の個人的能力の問題というのがある程度リスクヘッジされているということなんだろうと理解しています。裁判官は毎回3人はいるわけですし。
グレーゾーン金利に関する判決なども近い部分はあるように思えます。判決に対して経済学理論をぶつけても、殆ど意味をなさないように感じました。まずは、法学理論には法学の土俵上で検討・対抗するべきであると思うのです。経済学理論での批判に対抗できるのは、やはり経済学という言語を用いた対抗意見なのだろうな、と。言語体系の異なった理論・理屈を同一に論ずることは難しいとしか思えないのです。そうであるなら、医療側は論文や医学書なんかを熟読するのと同じように、判決文をよく読み、法律の条文や法学的な解釈とか法学の土俵に上がった上で批判をした方が効果的なんじゃないかと思えます。「相手(法学)方の言い分」というのをよく知り、書かれている中身とかその考える道筋について理解が深まるならば、どのような主張を行えば少しでも理解が得られるようになるのか、というのがちょこっとは見えてくるんじゃないのかな、と思ったりするのですよね。これが果たして本当に効果的なのか、初歩的な間違いをしたりするんじゃないか、所詮は素人考えだと罵られるんじゃないか、そういう危惧はあるかもしれませんが、ネット上での作業ということであれば皆の知恵とか使えるし、意味のある主張が出せる可能性だってあると思うのです。
なので、裁判官個人への批判を繰り返すことが、法学側の理解を深めることや誤った認識を氷解させることに繋がるようには思えないのです。ズレてるかもしれませんが、例えば、「過失」と「リスク」をどのように評価したり考えたりするのが望ましいのか、社会的要請と医療側が実施可能な範囲というのがどういう違いがあるのか、といったような、裁判の時の判断に役立つ「何か」(具体的中身やどのくらい役立つか分らないのですけれども)というのを積極的に提示していく方がいいのではないかと思います。
久しぶりに一応TBしてみましたが、何故か届かない~
両方ともです・・・どうしてなのでしょう?ひょっとして、TB禁止措置でもとられているとか?(笑)