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為替に関するビックリな記事

2009年01月04日 21時35分02秒 | 経済関連
こ、これは…。


はてなブックマーク - 円高がいいねと君がいったから2009年は再びデフレ - kmoriのネタままプログラミング日記

(以下に一部引用)

そこで、1ドル=10円と、いきなり10倍もの超円高になったとしましょう。クルマ1台を輸出して輸入できる原油の量は10倍になりますか?いいえ、250バレルのまま変わりませんね。

それどころか、クルマ1台輸出しても円建てでは1/10の価格でしか売れないことになります。その価格でもやっていけるように下請けや従業員への給料を調節するとしたら、-90%のデフレという恐ろしい事態が起こることになるでしょう。

現実には-90%のデフレなんて無理ですから、おそらくクルマの外貨建て輸出価格をそれなりに上げる一方、部品代や給料をそれなりに下げて対処することになるでしょう。この場合は、確かに交易条件は改善することになります。つまりクルマ1台の外貨建て価格が上がって、1台の輸出でより多くの原油を輸入することができるようになります。

しかし、この交易条件の改善って何か変ですよね?自動車メーカーは海外の需要をみきわめて、ちょうどいいところに(外貨建て)価格を設定してクルマをつくっていたはずですね。そこで円高になるということは、いわば値札を政府日銀に勝手につけかえられたようなものです。

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デフレがよくない、ということは同意するものですが、意味不明な記述も多いようです。
どちらかといえば、単純な「円高=悪」信仰みたいなもんですかね?


日本の代表的企業は製造業でかつ輸出ウェイトの高い企業が多い、ということはあるでしょう。円高になればそうした輸出企業の業績が悪化する、ということはあるでしょう。それら企業の株価も下がりますね。トヨタがいい例でしょう。
GDPに対する影響という点でも、純輸出減少と民間投資(設備投資や研究開発投資など)の減少ということがあるし、税収の減少ということも起こってしまうかもしれません。なので、輸出企業はみんな低迷すると嬉しいね、なんていうことは誰も望んではいない。しかし、そこそこ経済成長率があって、インフレ率が低く、実質金利が他国よりも高い水準にあるということになれば、円を選好されてしまって通貨高が起こってしまうことは簡単には防げないのでは。その度に、輸出企業を救済する為に為替介入をせよ、とか言うのでしょうかね。現に、かつてのドル円が360円時代から見れば、今の方がはるかに豊かになっているわけで。


突然10倍の円高になったとして、価格を据え置いて-90%なんていう発想がそもそも有り得ると考えているんでしょうかね。モデル化された数式の中の世界ではあるかもしれないが、現実にはそんなことをする必要がない。非負制約は存在しているのだから、大幅な赤字になってまで売る必然性なんかないだろうに(笑)。輸出価格が現地通貨ベースで10倍にして超高級車みたいにするのが筋で、そうなれば全く売れなくなる可能性が高いでしょうね。つまりは全車を現地生産に切り替えるに決まっているでしょう。円が10倍も高いので現地への設備投資は大幅ディスカウントになりますからね。一応書いておくと、輸出する製品価格には為替要因がどの程度転嫁されるのかは、一概には言えないでしょうね。プライステイカーとしてだと、価格転嫁云々という話にはならないかもしれんしね。

因みに、輸入物価が上がっても製品価格に転嫁されることはこれまでは少なかったでしょうね。08年以降には価格に反映されてきたというのはありましたが、それでも値上がり分が製品価格に占めるウェイトの問題もあるし転嫁率の違いもあるので、全部が転嫁されてきたわけではないでしょう。輸出製品にだって非貿易財のウェイトもあるはずですしね。


まあ、突如として10倍の円高になってしまうなら、日本企業の多くは輸出なんかせずに、海外企業の買収を進めるでしょうね、多分。一般個人にしても、海外マンションなどを数百万で購入できたりするので、海外資産を購入する人たちが大勢出てくるのではないでしょうかね。こうして円が外貨に転換されていくので、「有利な円高」が是正されるまで円売りが続き、いずれ水準訂正が働くことになるでしょう。



あと、何を言ってるのかがわからないのがコレ。
「円高になるということは、いわば値札を政府日銀に勝手につけかえられたようなもの」

為替変動はどこでもある話で、管理通貨制でもやってる国ならば変動は小さく抑えられているかもしれませんが、為替変動は自由な経済活動の結果なのであり、為替介入の方がむしろ「政府日銀の介入」では。貿易依存度の高い輸出超過国が大規模な為替介入を行うということになれば、これは一種の保護貿易的な政策ということになってしまいかねないのでは。しかも輸出企業への所得移転が行われるというだけ。それに、製品価格を決めるのは自国通貨建てで行えばよいだけ。別に政府や日銀が勝手に値札の付け替えを行っているわけじゃない(笑)。


それとも完全固定相場制にするのが正しい、ってことを言いたいんですかね?
固定なら常に輸出価格は自国通貨でも海外通貨建てでも同じですから。勝手に値札を付け替えられずに済みますよ。

昔の、1ドル360円が良かったんだ、みたいな?
それなら確かに円安にはなるわな(笑)。



『魍魎の匣』

2009年01月04日 15時24分25秒 | 俺のそれ
ちょっと昔の「松本清張の世界」っぽい作りだけど、戦後に舞台設定があるので、やや趣きは異なるか。

匣なんていう見慣れない字を知るには良いかも。

幻想と現実の狭間にある物語。
新興宗教のような「非現実」の方が、むしろキレイというか、恐怖がない。

呪詛、呪術の類だの、霊や超自然現象だのという方が、悪霊と同様「退散させやすい」(笑)ということかな。

実体のある方(物語の中では、ということなんだけど)は、狂気とも言うべき、裏打ちされた「科学」がある。合理的思考や論理的思考ということによって、優先させる大義が存在するようになってしまう、ということだ。軍隊の行っていたような人体実験の類がこれだ。

何かに取り憑かれた人間というのは、悪霊以上に恐ろしい、ということかな。


清張的な、人的つながりや関係が少しずつ明らかになるのと、現代ではない時代設定というのが良い。堤、阿部、椎名という組み合わせはそれなりに良かったのではないか。よく揃ったな、というべきか。別な事件も解決してもらいたい気もするが、これ以上のプロットになる事件は生み出せないんだろうな、とも思ったりする。これっきりになるのは、ちょっと残念なメンバーだ。



『ミスト』と『クローバー・フィールド』

2009年01月04日 12時00分19秒 | 俺のそれ
どちらも得体の知れない「アレ」が襲ってくる、というような話だ。
あらすじだけでみれば過去にもあったような筋だし、他愛のない陳腐化されたようなストーリーにも関わらず、「見せ方」をよく考えて工夫することで成功を収めた映画であると思う。


『クローバー・フィールド』は(出演者)本人が持つ視点、みたいな斬新さがあって、見づらく疲れるのだけれどもユニークだ。早い話が、日本の30分もの「怪獣ドラマ」を編集なしで撮影すると、多分こんな事件・ドキュメンタリー映像になるんだろうな、と。「ウルトラマン」のドラマ中に登場する、逃げ惑う東京都民のエキストラ#15番、みたいなものだ。

個人の撮影したビデオを長時間見せられたりして、これと似たような気分を味わったことがある人はいるかもしれない。テレビニュース映像で、個人の撮影したビデオ映像が入手された場合にも、同じような感じの映像感覚を生じたことがある人は割りと多いんじゃないかと思う。難点を言うとすれば、最後の方になればなるほど、あそこまで映像を撮り続けようとする「動機」がよくわからない。というか、撮影しようとする意思を持続させる方が難しいような気がする。落としたカメラ、というような固定的視点であれば、違和感はもうちょっと少なかったかもしれない。あの状況で「友人が持っていたカメラ」をわざわざ戻って拾いに行かねばならない、というのがやや難あり、と思った。

現実世界での人間の持つ視点というのはこの記録映像のようなものに近くて、実際にウルトラマンと怪獣が戦っているかどうか、とか、関係がないのだ。そういうマクロ的な視点を持って物事を見れば、何がどう起こっているのかという全体像が把握できるし、もっとよりよく考えることもできるかもしれない。だが、そういう「事件の全体像をマクロの視点から眺めて判断する」という状況は、現実には殆どないのだ、ということに気づかされるのである。多くは、「逃げ惑うエキストラ」の目を通してしか、見ることができない・把握できない、のだ。物事を理解しようとする時には、そうなりがちなのだ、ということ。

新鮮かつ意欲的な映画。実験的と言ってもいいかも。



『ミスト』は、一昔前の『ピッチ・ブラック』っぽく、闇の中に何かがいるか、霧の中に何かがいるか、という違いでしかないようにも思われた。極端に言えば、「アレ」の存在自体は、恐らく何だっていいのだろうと思う。
が、この映画の良いところは、「大衆」や「ヒーロータイプ」というような、人間の反応や行動をうまく描いていることである。限定的な状況下では、どう行動するか、どのような反応をするのか、というようなことだ。或いは、極限状態に置かれてしまうとどうなるか、ということもある。絶望が果たす役割も興味深い。

『クローバーフィールド』と比較するべき映画というわけではないが、どちらかと問われれば『ミスト』の方が人間描写に優れていると思う。人生では、「良かれと思って」やることとか選択なんかはごく普通にあるが、事後的にみれば正しかったかどうかは判らないのだ。良くない結果を生むことだって多い。一生懸命やったってダメな場合も多々あるし、失敗することもある。
どんな人生、選択をするのか、ということが常に問われているのだと思う。母の帰りを待つ子どもの下へ、たった1人で帰ろうとする母の決断、みたいなことだな。

エンディングロールを眺めている間にも、ずんずん沈鬱な気分になっていく、良作である。