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日本をダメにする人々

2009年01月30日 17時52分02秒 | 経済関連
本当に、頭の悪い連中のお陰です。
何から何まで有難うございます。

こうして、誤った方向、悪い方向へと突き進むというのが、日本の悪い癖なんです。そうやって、自らをどん底へ落とそうとするわけですよ。
戦争に突き進んだ過去の歴史と同じなんですよ。


日本の代表的企業の偉い方々に、今こそ秘密をお教えしましょう。

どうして企業がこんなに苦しむと思いますか?



それは、あなた方が「間違った方針や意見を出す人たち」を常に支持してしまうからです。
そういう連中に力を与えているのは、あなた方自身なのですよ。
あなた方の支持があるからこそ、彼らには実権が備わり、政治的にも影響力を行使できるのだ。

誤った提案や意見を出すような連中が蔓延るからこそ、多くの国民にも正しい情報は提示されず誤った選択肢の中から、悪いものだけを選びとらされるのだ。それはマスメディアなんかに出てくる連中の多くが、明らかに間違った方向に誘導しているからだ。彼らにあるものは、殆どが商業主義的な立場と特定領域に迎合しようとする態度だけだ。
更には、マスメディアの中の人たちが、よりよく考えたり、正しいものを選び取る力が決定的に欠けているのだ。正しく選べないのは、自分の考える力が乏しいからだ。これは経営者団体の偉い人々も同じ。


その結果がこれだ。

12月全世帯消費支出、06年9月以来の大幅減 Reuters

だから言ったろ?
こうなる前から、言っておいたでしょうが。財政支出を使えって。
当ブログでは4月から言ってきたのに、愚鈍な連中は何をやってきたか?

「ゆとり脳」の日銀や内閣府や民間エコノミストらと仲良く揃って、ヌルい経済予測を出してきたわけです(みんな揃って「愚か者」の例?)。今回の消費支出大幅減というのも、彼らの「ゆとり脳」が”裏付けられた”(笑、日経とかの新聞記事では御馴染みの記述だよね?)ということだね。だから「看板を降ろせ」って言いたくもなるわけだよ。


10月時点でも言ったでしょうが(政府の経済対策と日銀利下げの雑感)。それをだな、余計な反対なんかしなけりゃ、さっさとばら撒いて使わせられたかもしれないのに。こういうひたすら邪魔をして、足を引っ張るヤツラがいるせいで、余計に悪化してゆくのだよ。自業自得だろ?


米国の給付金については、テイラー先生の批判があったけれど(持続的減税がベストの景気刺激策(追記あり))、使わなかった場合には日本みたいなグラフになってたかもしれないですよ>テイラー先生


日本の場合は、まるで義経の「逆落とし」状態ですわ。
例の「ひよどり越え」の逆落とし。まっ逆さま。

日本経済をダメにしたくてしょうがないような、愚鈍どもが寄ってたかって、どん底に落としたのだ。

11月>定額減税批判は低所得者への鞭打ち

こうやって10月~11月初め時点で警告を繰り返しているにも関わらず、頭が悪いせいでいつまで経っても批判を止められず、代わりに消費支出を一気に悪化させることだけは達成できたというわけだ。
もうね、本当に豆腐の角に頭をぶつけた方がいいですよ、こういう連中は。


で、泡を食った連中は、ヤキが回って連続下方修正。
急速に悪化している、ということにようやく気づき始めたのだ、と。バカの典型みたいなもんですな。

昔にはブログを書いたりしてなかったし、いちいち「経済の世界」のことなんてあまり詳しくは見てなかったけれど、道理で日本の失われた期間がこれほど長引くわけです。その理由が本当に判りましたわ。


後は、まとめに一直線、と。

12月
続・「お金LOVE」を打ち砕け
日本再建を考える

1月
国民が払う授業料


何故、「専門家」とかいう連中が、これほどまでに揃いも揃って愚かなままなのか、私にはまるで理解できない。


まあ、なるようになっちゃった、ってことだね。
こうやって、多くの国民が犠牲にされるわけだ。


こりゃ、本物だわ。


よく判らないから、という人の場合、余計な活動を何もしないから、プラスにはならないけど、大きなマイナスにもならないわけよ。
しかしながら、「俺が詳しいんだ」ってな方々って、余計なことばかり言うわけ。無駄に反対とかするわけ。だから、黙っている人たちに比べると、役に立たないどころか「マイナス100万」とかの超マイナスパワー全開なわけ。居ない方がマシ、ってのを大幅に超過してる。


戦力ゼロとマイナス100万だと、どっちがいい?(笑)



「桂馬」の規制は緩和するべきか

2009年01月30日 13時51分02秒 | 俺のそれ
チェスと将棋というのは、駒の動きなどが似ている面はあるけれども、ちょっと違う。ルールも近いんだけれど、少し違う。だけど、「将棋は間違っている、だからチェスと同じルールにするべきだ」などという意見を聞いたことはない。「将棋は合駒できてズルいから、合駒ルールは撤廃するべきだ」とか言い出す人にも遭ったことはない。

ところが、こういう主張を正義であるとか正当であると力説する輩が後を絶たない。
将棋の合駒はどうして合駒なんですか、それが正しいんですか、って聞かれても、「よく判らない、昔からそうだから、いつの頃からかは知らないけれど」というくらいしか答えられないだろう。だって、歴史的にそうなってきたわけであって、それが正しいとか間違ってるとか、そういうことではないでしょう?

ところがですね、中には不思議な主張をする人がいるのです。
「チェスでは~~できるから、将棋でもできるべきだ」みたいなもんです。ハア?って思うでしょ?
でも、言ってる本人は真剣にそう思いこんでいるみたいです。慣習とか歴史とか社会の背景みたいなこととか、そういうのを「間違ってる」とか言いたくて仕方がないのでしょうね。別に「香車はバックできない、桂馬もバックはできない」とか規制強化して、ゲーム全体が不合理になったわけではないんですよ。理由らしきものといえば、「チェスではルークはバックできる、ナイトもバックできる」というようなもんです。


話を変えよう。

さて、
①「政治家や官僚」が正しく経済政策を考え決定できる
という命題があるとしよう。
命題かどうかは定かではないのだけれどもね。一応、そう呼ぶことにする。
①が正しく、社会では成り立っている、という意見の人ならば、きっと「政治家や官僚」が経済についていつも決定すればよい、と考えるであろう。昔の社会主義国みたいなものに近いな。要するに、計画経済だ。

一方で、政府や行政の役割というのは、経済政策ということにおいては、役立たず&無駄な財政支出を実施するよりも、「中長期的な潜在成長率を上げる政策」を実施するのが正しいのだ、という意見を言う人がいる。こういう人は、何を信じているのだろうか、というのが問題なのだ。
気になる点として、
ア)潜在成長率を上げる政策とは具体的に何か?
イ)アの政策について、政治家や官僚が正しく考えられるか?
ということがあるわけだ。

もし本当に行政府が賢くて、ほぼ常に正しい政策決定を行えるということであるなら、計画経済にかなり近い経済運営にすれば良いだろう。だって、①の命題が正しいと信じ込んでいるわけでしょう?そういう正しく考える能力のある賢い行政府であるなら、ア)の潜在成長率を上げる政策を選択し決定できるであろう、きっと。つまり、イ)に対してはYES、という答えになるだろう。①の命題を支持している、ということが必要だろうね。

これとは逆に、行政府なんてバカだからあんまり当てにはならない、どうせロクな政治家も官僚もいやしないよ、という半信半疑の人ならば、「潜在成長率を上げる政策だって?そんなもんやって見なけりゃ判らんだろ、民間が自力で取り組んだ結果がそうなるだけ」と言うかもしれない。そうなると、「金はこっちに取り上げるぜ、後は俺たちが好きなようにさせてもらう」ということになるだろう。これが所謂「小さな政府」の根本的な発想だな。小さな政府の場合だと、役割も小さく使える金も小さいのだから。これを支持するタイプの人たちというのは、①の命題についてはかなり懐疑的という立場であろう。だからこそ、行政府になって任せられない、行政府にやらせる(任せる)くらいなら自分でやるぜ、となるんだよね。「潜在成長率を上げる政策」なんて、そう簡単には判らないだろう、ということだね。


ところが、こうした主張をする人間の中には、政府の役割として「潜在成長率を上げる政策が正しい」と言い張ってる人がいるわけです。それは裏を返せば、行政府がやってきたような「産業政策」みたいなものを支持する、という立場なわけでしょう?官僚が「次のヒットはこれだ!」みたいに作って、「産官共同で取り組みましょう」的な産業政策をやる、ってことだわな。①を支持していなけりゃ、到底そんなことを言えるわけはないしね。もし、政治家も官僚もあまり当てにはならない、と思っているなら、「潜在成長率を上げる政策」なんて彼らに考え付くはずもないだろうし、どうせ「ハズレ」のくだらん産業政策をやって金をドブに捨てるだけ、みたいに思っても不思議ではないわけなんですよ。

無自覚に政府が正しい、だから政府は、「潜在成長率を上げる政策」を選択してこれを実行することが一番だ、と主張するんでしょう。オイオイ、昔の計画経済に逆戻りかよ、まるで社会主義経済を目指してるみたいじゃないか、と思わないでもない。これは将棋で言えば、「必勝定跡を指すのが正しい、だから必勝定跡手順を指せ」と要求しているようなもんです。こういうのを盆暗と呼びたくなります。参考までに、「潜在成長率を上げる政策」の実施が正しいと強硬に主張している人間は、今すぐ出てきてそれがどんな政策なのかを具体的に列挙して欲しいもんですな。それを民間事業者がやれば、全件大当たりの一大ベンチャー企業になれますな。いやはや、大笑い。


将棋には香車や桂馬にバックできないというような規制強化(チェスに比較すると)があるから、将棋というゲームがつまらなくなるのでしょうか?

そんなことはないはずです。
将棋の戦形がさまざまにあって、矢倉もあれば振り飛車も中座飛車もあって色々と自由にできますよ、というのが資本主義的な経済活動ということです。だけれども、ゲームに参加するにあたっては、「大枠のルールというのは決まっている」ということなんですよ。そのルールが正当であるかどうかというのは、必ずしも一概には言えないのではないか、というのが私の考え方です。それは、桂馬の動きがナイトと違うからダメだ、というようなことにはならない、ということです。歴史的な経緯というものがあるのであって、何でもかんでも規制緩和すれば問題が解決する、ということではないわけです。

自由な資本主義経済というのは、プレイヤーが参加する以前からルールが明示されている、ということだと思います。透明性と言い換えてもいいかもしれない。平等な競争というのは、同じルールで同じ盤上で戦える、ということです。一方がチェスでもう片方が将棋だとこれは公平ではないので、ルールは明確にしましょう、同じ土俵上で争いましょう、ということが達成できればそれでいいのです。別に香車や桂馬をバックできるようにさせたり、合駒をできなくすると解決する、ということではありません。

海外から参加しようとするプレイヤーに求められるのは、将棋盤の上にやって来るなら将棋盤と将棋のルールをまず覚えて下さいね、ということがあります。これを怠って、「なんで将棋は取った駒を使えるのか判らない、合駒は卑怯なんじゃないのか、どうしてこんなルールなんだ」とか責められても、昔からなのでしょうがないんですよ、としか言いようがないわけです。傲慢な方々の場合だと、「オレはチェスしかやったことがないから、チェスのルールに全部換えてくれ、そうじゃなきゃやんない」とか、わがままを言うわけなんですよ(笑)。

<因みに、窮地に陥ると途端にルールを変えよう、と言い出す人たちは大勢いた。チェスに合駒はなかったのに、自分の王様が詰みそうになると、突然「合駒できるルールに変更しよう」とゲーム途中でもルール変更を辞さないわけです。>

これはまあいいとして、大枠のルールがきちんと設定されていて、それが公平である限り、ゲームは問題なくできるし発展もある、ということなんです。将棋盤、駒の動き方、その他ルール、という具合に、こうした枠組みが決められていること=政府の役割、というようなことだろうと思います。あとは各プレイヤー(経済主体)が自由にやって下さい、好きな戦形を開発して下さい、「素晴らしい一手」を発見して下さい、ということです。余計な規制というのは、「振り飛車は禁止」「穴熊は卑怯なので禁止」「持ち駒は5枚まで」みたいに、大きなお世話っぽくヘンなルールを設けるということです。これが悪しき規制強化、ということでしょう。だけど、盤も駒の動きも、細かくルールが定められている、ということなのであり、全ての決まりを取り払って何でもかんでも自由にすればよい、ということを意味するわけではないのです。


将棋もチェスも、誕生当初から今と同じルールや駒だったわけではないでしょう。
長い年月を経て、次第に今の形のゲームになってきた、ということでしょう。そういう歴史があったわけですよ。
「何故、合駒できるようになったか?」なんてことの答えなんか、そうそう見つけられるものではないだろうと思います。自然とそうなった、というくらいしか言えないのでは。これこそが自生的秩序のようなものなんですよ。「どうして飛車は右側にあって角は左にあるか」なんてのも、これと言った理由なんか見つからないわけです。そういう決まりがいつかの時点で生まれてきたのだ、ということだけです。でも「毎回置き場所は決まっている」というルールこそが、自然発生的に生まれた秩序なのですよ。そうやって、自然に生まれたルールというのは、そのままに生かしておき、その盤上では自由にやっていいですよ、ということが自由資本主義の根幹なのだろうと思います。

桂馬とナイトの駒を単独で比較すれば、何某かの優劣のようなものが記述されるかもしれません。
けれども、それは将棋という盤とゲームの上では、巧みな存在となっているのであって、将棋というゲーム全体の中では調和を保っているのです。何故そうなったのか、というのは、長い歴史の中で自然に磨かれてそうなってきたのだ、としか言いようがありません。単純に、ナイトは~~なのに桂馬は違う、だから「桂馬は劣るんだ」「桂馬はダメなんだ」と言ってみてもしょうがない、ということです。もしも桂馬の代わりにナイトが配置されたとしたら、将棋は全く違ったゲームになってゆくでしょう。定跡なんかの根底を悉く覆すこととなるでしょう。それが望まれて起こるのであれば、社会はそれを受け入れ、それに合った「将棋」というものが作り上げられてゆくでありましょう。現代将棋やチェスというのは、そうやって存在しているのですから。かつての原型とは異なったものとなっているのですから。


イノベーションとは、「桂馬やナイトの動きの駒が作られた時」のようなものなのです。それは自由にやらせていく中でしか生まれて来ません。ゲーム機も似ているでしょう。任天堂の提供したゲーム機は、盤や駒といったプラットフォームのようなもので、その盤上でどんなものが繰り広げられるのかは各プレイヤーに任されていたのです。だからこそヒットした、ということかもしれません。ゲーム機の使い方やソフトというのは「将棋の戦形」みたいなものであり、それを生み出すのは各対局者だ、ということです。数多く、自由に対局させることによって、ユニークな戦形や定跡や新手が生み出されてゆくのだ、ということです。


政治家や官僚がどれ程優秀であるとしても、そう簡単には新たな手や戦形を発見できるとは思えません。「潜在成長率を上げる政策」なんかを正確に考え出せるとは期待できない、ということでもあります。少なくとも、多くの人々が「自由に対局できる」という環境をきとんと整備してあげることを優先的に考えた方がよいのではないかと思います。

安心して自由に対局できる環境というのは、どんなことか?
それが問題なのだ、ということです。雇用や社会保障の問題とは、そういうことです。



本物の盆暗

2009年01月30日 12時16分48秒 | 俺のそれ
ある男がいた。名を「八」という。八はある時、病気になった。
いてててて、胸が苦しいよ、という虚血性心疾患だった。どうやら、メタボな男だったので、心臓に血液を送る血管の内側が狭くなって、心臓が苦しくなったらしい。

すると、そこに「熊」という別な男がやってきた。
熊は言った。
八は生活が不摂生で運動不足、食生活も悪いから、動脈がつまるんだよ。八の心臓が苦しい原因は、運動不足と食べ過ぎだから、これを改善せねばならんだろうね。

そうこう言ってる目の前で、また八の胸が苦しくなりだした。どうやら心臓の発作だ。八は、く、く、苦しいよと身悶えしながら、胸を押さえてうずくまった。
熊は言った。
八、お前の病気の原因は運動不足だから、もっと運動して体重を落とさねばなるまい。さあ、運動するんだ。自分を甘やかすからそんなことになるんだ。もっと運動しなきゃダメだ。

八は言った。
今、苦しいんですけど。
熊は言い返した。
八の病気は、運動不足と食事が原因で血管がつまるのだろ。だから、それを改善する為に運動させなけりゃならんのだ、もっともっと鍛えなければならないんだ、心臓を甘やかすからこんなことになるのだろ。さあ、立って運動するんだ、もっと運動しろ。

熊は、心の底から信じているようだった。
メタボな体とか、自堕落な生活とか、甘えた根性とか(笑)、そういうのが心臓の血管を狭めたのだから、原因に対して改善しなけりゃ意味がないと、盲信しているようだった。今、目の前で虚血症状が出現しているのに、その相手に向かって「原因は運度不足と食事なのだから、運動療法をせねば意味がない、食事制限をして改善するのが一番なんだ」、と言い張るのだった。

・・・・・・

はっきり言って、熊は本当にアホ。
病気の原因について、運動不足や食事の問題というのがあるとしても、これを今改善すべきというのはまさに狂気の沙汰。頑迷な信念というのは、時として人々を不幸に陥れる。八を死なせようというのだから、恐れ入る。そうした自覚のない連中がいて、そいつらは常に間違った方法を提示してくるというわけだ。

運動不足や食事が原因だ→原因を取り除けばよい、という、まさに短絡思考の典型的な見本だな。


こういうのを、盆暗というのだろう(笑)。


心筋虚血で苦しんでる最中に、運動不足を解消して死んで来い、というわけやね。