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原子力損害の賠償についての検討

2011年05月01日 15時13分07秒 | 法関係
4月27日の電気新聞によれば、経団連会長は次のように発言したとのことである。

日本経団連の米倉弘昌会長(住友化学会長)は26日の定例会見で、東京電力福島第一原子力発電所の事故を受けた被害者への賠償問題について「原子力損害賠償法という法律にのっとって行うべき。国民感情に配慮し法律適用しないと行政が判断することが間違い」と発言し、政府が補償を担うべきとの考えをあらためて示した。

賠償機構の設置など検討が進められている補償スキームについても「スキームの議論よりまず政府が責任表明するべき」と強調。「日本のエネルギー政策や将来像について政府が考え発言した上で、そこから被害者補償の金額や支払い形態について考えていくべき」との考えを示した。


経団連会長という立場の人間の発言力は、どういった影響があるのか自覚しているはずであろう。そのような人物が、『国民感情に配慮』云々の発言をしたということの重みについて、経済界はよく考えることだ。経団連会長自らが率先して「デマを流布」しているのとほぼ同様の、誹謗中傷の類である。それに、『行政が判断することが間違い』って、殆どの行政機関が行っていることそのものではないか。行政は、法律(条文)についての解釈を行い、その適用を全てについて判断しているではないか。行政の役割そのものではないのか。それを「間違い」って、何を言っているのだろうか。

例えば、タクシー運賃について業者が申請をすると、担当の行政が認可か不認可を決定するわけで、条文解釈と適用の権限が行政に与えられていることについて「問題がある」ということを拙ブログでも過去に批判してきたことはあるが、条文解釈について行政と争うなら、そういう場で行うのが普通であろう。
経団連という地位や立場を利用して、発言力の大きさで行政の判断を変更させようという行為こそ、経団連会長が批判していた『国民感情に配慮』云々なのではないのか。言い換えれば、「経団連や経済同友会などの経営者たちの感情に配慮し法律を適用すると行政が判断することが間違い」、ということである。
経団連会長の言う『国民感情に配慮』云々こそ、彼ら自身のことを言ったものではないか。

老婆心ながら書いておくと、経団連ほどの組織力を有しているのだから、まず法律の専門家に検討させておけば良かっただけなのでは。その結果を受けて発言すればよいものを、報道などからの聞きかじりだけで言うからこそ、デマを散布することになるわけで。


これは大した話ではないから措いといて、本題に入ろう。
(以下、当方の個人的解釈に基づく考察であり、素人の私見です。過誤は有り得ます)


1)「政府が補償する」とは、どのようなものか

まず、条文解釈の前に、概略だけを書いてみる。
原子力発電所が一つ、原子力損害の必要補償額が3800億円だったとする。賠償責任は電力会社が負う。

・賠償総額 3800億円
・電力会社が3800億円を支払う

ただし、電力会社は保険に加入している。民間保険会社が引き受ける「責任保険」と政府と電力会社間の「補償契約」である(とりあえず、この2つを簡略化して「責任保険」と「補償契約」と呼ぶ)。

この時、責任保険から2000億円支払われたとしよう。電力会社は、手出しの資金としては1800億円に減ることになる。この1800億円に対しては政府との補償契約があるので、発電所1箇所について1200億円を政府が補填してくれる、というものである。よって、電力会社は自己資金としては、残りの600億円を払えば済む、ということである。

整理すると、

・賠償総額 3800億円
・責任保険 2000億円
・補償契約 1200億円
・電力会社  600億円

となる。

政府が補填する義務を負っているのは、あくまでこの「1200億円だけ」である。


2)原則として事業者は「無過失・無限責任」を負う

経団連会長の言う「原賠法」というのが何を指しているか定かでないが、法令検索の略称は存在していないようである。簡略的に業界内などで用いられる通称なのかもしれない。

ここでは、まず、「原子力損害の賠償に関する法律」について述べる。


第三条
原子炉の運転等の際、当該原子炉の運転等により原子力損害を与えたときは、当該原子炉の運転等に係る原子力事業者がその損害を賠償する責めに任ずる。ただし、その損害が異常に巨大な天災地変又は社会的動乱によつて生じたものであるときは、この限りでない。

(2項 略)


問題となっているのは、この但書部分である。異常に巨大な天災地変に該当するかどうかである。これについては、後述するとして、事業者の責任としては無過失・無限責任である。例えばハード面での問題があったとしても、それは事業者が設計、製造業者等に賠償請求権を有するということであって、事業者は被災者に支払うべき義務をまず負うということである。


第四条  
前条の場合においては、同条の規定により損害を賠償する責めに任ずべき原子力事業者以外の者は、その損害を賠償する責めに任じない。


(以下略)

4条1項を文面通りに解釈すると、事業者以外の者は、賠償義務を負うことはない。たとえ国であっても、だ。経団連会長の言い草は、誤りとしか思われない。法律の条文通りに適用するなら、「国が賠償しろ」などという主張そのものが、法にない「財界のお偉いさん方の感情に配慮」したものでしかない。法を曲げるつもりか?(笑)

基本的に、損害賠償について国に累が及ばないように、リスクが遮断されている、ということだろうと思う。法律を書いた人間は、鋭いな。別な見方をすると、国の財政圧迫を及ぼすような条文を作るわけがない、ということでは。


3)原子力損害賠償責任保険契約

最初の例で示した責任保険であるが、条文で次のように定められている。

第八条  
原子力損害賠償責任保険契約(以下「責任保険契約」という。)は、原子力事業者の原子力損害の賠償の責任が発生した場合において、一定の事由による原子力損害を原子力事業者が賠償することにより生ずる損失を保険者(保険業法 (平成七年法律第百五号)第二条第四項 に規定する損害保険会社又は同条第九項 に規定する外国損害保険会社等で、責任保険の引受けを行う者に限る。以下同じ。)がうめることを約し、保険契約者が保険者に保険料を支払うことを約する契約とする。


これは事業者が民間保険会社と締結する保険契約であり、政府には関係ない。よくある損害保険みたいなものだろう。これまで殆どの場合に、この範囲内で済んできたのではないかと思う。平たく言えば、保険に入らないと原子炉を運転させないぞ、という主旨であろう。自賠責の強制加入みたいなのと同じかと。


4)原子力損害賠償補償契約

民間保険契約以外に、政府が補填する制度がこれだ。

第十条  
原子力損害賠償補償契約(以下「補償契約」という。)は、原子力事業者の原子力損害の賠償の責任が発生した場合において、責任保険契約その他の原子力損害を賠償するための措置によつてはうめることができない原子力損害を原子力事業者が賠償することにより生ずる損失を政府が補償することを約し、原子力事業者が補償料を納付することを約する契約とする。

2 補償契約に関する事項は、別に法律で定める。


つまり、国が義務として賠償責任を有する範囲は、この『補償契約によるものだけ』である。その上限は1200億円となっている(原子力損害の賠償に関する法律第7条1項)。

2項の「別な法律」とは、「原子力損害賠償補償契約に関する法律」である。安易に「原賠法」というような通称名を用いると、この法律との区別がつきにくいので困る。いずれにせよ、法律に基づくなら、国は無限の賠償義務を負っているとは言えない、ということだ。

この法律には、地震ないし津波による被害を政府が補填するという規定が存在している。

第三条  
政府が前条の契約(以下「補償契約」という。)により補償する損失は、次の各号に掲げる原子力損害を原子力事業者が賠償することにより生ずる損失(以下「補償損失」という。)とする。
一 地震又は噴火によつて生じた原子力損害
二 正常運転(政令で定める状態において行なわれる原子炉の運転等をいう。)によつて生じた原子力損害
  ……
五 前各号に掲げるもの以外の原子力損害であつて政令で定めるもの



5号規定は「津波」(施行令第2条)と規定されている。
また、施行令第1条で、2号規定の正常運転の除外規定が定められており、違法な運転状態(1号)、原子炉運転等の施設損傷(2号)、天災地変又は第三者行為(3号)、これらの原子力損害原因が存在する場合には、補償契約による補填が行われない、ということなのである。政府の支払い義務はない、という意味である。

すなわち、地震と噴火(1号規定)、津波(5号規定)の場合には支払われるが、正常運転から外れた状態(違法運転、施設損傷、天災地変、第三者行為)、これらについては支払わない(賠償措置なし)、ということである。


5)国の役割とは何か?

「原子力損害の賠償に関する法律」を適用しろ、と経団連会長以下大騒ぎをしていた財界連中がいたので、適用を考えてみよう。

再び条文を確認する。
仮に、3条但書が適用となったとして、国には賠償責任は生じない。

第十七条  
政府は、第三条第一項ただし書の場合又は第七条の二第二項の原子力損害で同項に規定する額をこえると認められるものが生じた場合においては、被災者の救助及び被害の拡大の防止のため必要な措置を講ずるようにするものとする。


国が行う措置とは、「被害者救助」及び「被害拡大防止」である。損害賠償ではない。しかもこの2つの措置でさえ、義務ではないように読める。条文が「~しなければならない」という言い回しではないから、である。平たく言えば、努力規定みたいなものだ。その時点と状況に応じて、できる範囲で「被害者救助」と「被害拡大防止」に努めてくれ、ということだ。事業者が払えなかった金を、国が出せ、なんて、一言も書いてない(笑)。

それに、もっと大変なことは、但書部分が適用になってしまうと、基本的には「誰も金を払う者はいなくなる」ということだ。3条の意味とは、そういうものである。
無過失・無限責任の賠償義務が消滅するのが、但書部分適用の意味なのである。この賠償義務が消滅してしまうと、政府の役割も同時に消滅するものと考えられる。

前条規定がそういう意味を持つものと思われるからだ。

第十六条  
政府は、原子力損害が生じた場合において、原子力事業者(外国原子力船に係る原子力事業者を除く。)が第三条の規定により損害を賠償する責めに任ずべき額が賠償措置額をこえ、かつ、この法律の目的を達成するため必要があると認めるときは、原子力事業者に対し、原子力事業者が損害を賠償するために必要な援助を行なうものとする。

2  前項の援助は、国会の議決により政府に属させられた権限の範囲内において行なうものとする。


この1項にある『損害を賠償する責めに任ずべき額』というのは、但書適用だと(事業者は)「損害賠償責任を負わない」ということになるので、16条1項は適用されない(だからこそ、17条に但書適用の場合の条文が置かれたものと思われる)ということである。

すなわち、但書適用にはならず事業者に損害賠償責任がある場合には、16条1項が発動される、ということである。

この場合、国は「事業者が損害を賠償するために必要な援助」を行うということであって、国が事業者の代わりに払います、なんてことはないのだ。あくまで「事業者が賠償する」為に援助するだけである。

おまけに、2項規定により、政府ができることは、あくまで「国会議決」の範囲内に過ぎない。 殆どの場合にそうだが、国会が決めていること以上の権限など、行政には与えられていないのだ。経団連会長のご意見というのは、そういう意味においても、何重にも誤りがあると考えられるのである。どうしても国が事業者に金を与えろ、ということなら、国会で金の支出先として事業者に金を払え、という議決をしない限り、できるわけがないのである。菅総理の一存で決まるものでもないのである。


6)電力業界に甘えの意識

経団連会長発言というものが、いかに法を無視したものか、財界の感情ばかりを優先したものか、というのが分かったように思う。

こうした国に頼りきりの姿勢は、電力業界にも蔓延しているように思えるわけである。
その好例を発見した。

原子力損害賠償法 - 原子力災害発生時の対応 | 電気事業連合会【でんきの情報広場】

次の記述がある。
『事業者の責任が免ぜられた損害や保険限度額を超えた場合は、国が被害者の保護のために必要な措置をとることになっており、事業者と国が一体となって原子力損害の填補を行うようになっています。』

これは、顧問弁護士なんかに確認した内容なのか?
本当にこんな解釈があるのか?
出鱈目ではないのか?ウソを書いているなら、問題じゃないのか?

ポイントを書くと、
 ア 事業者が免責された損害
 イ 保険限度額を超えた損害
の場合、
 ウ 国と事業者が一体となって
 エ 原子力損害を補填
するようになっている、って、法律のどの条文にそんなことが書いてあったの?

出鱈目を書くのもいい加減にして欲しい。

アの事業者が免責された場合(3条但書適用の場合)には、誰も払わないんだよ。
払うのは、事業者が免責されるのではなく、賠償義務はあるが、政府の賠償措置義務のある状態の場合(前記4の項参照)、というだけである。イも同様。

ウの「国と事業者が一体」なんて、夢でも見てるのか?
どこにそんなことが書いてあるというのか。援助は一体なんかじゃない。あくまで事業者が賠償するのを手助けする、というだけだ。国が原子力損害を補填するなんてのは、ウソである。あくまで義務のある賠償措置の場合のみ、だ。

勝手に拡大解釈し、都合のいい言説を広めるな。
こんなこと、どこの誰が言ったの?
ソース出せ、ソース。
牽強付会も甚だしい。


これが電力業界、経済界の言い分だそうだ。
こんな解説を基にしているから、経団連会長の如き発言が相次ぐのであろうか。



前の記事に補足だが

2011年05月01日 07時26分10秒 | 社会全般
お前らだって、安い利用料金でサービスを享受してきたんだから、利権の一部にアヤかって来たんだから共犯だ、お前らも利権者じゃないか、というような主張も有り得るのかもしれない。

まあ、全くの間違いということではないかもしれないが、巧妙なレトリックのような気がしなくもない。


また、例で考えてみよう。
今、A地点とB地点を結ぶ鉄道があるとする。自分はこの鉄道の利用者である。路線は2つあって、一つは甲という会社が運営、もう一つは乙とする。

甲という会社は、鉄道の料金が500円だが、乙は200円だ。
すると、多くの人は甲よりも乙の利用をするだろう。でも、乙という会社は、線路の保線工事などに、女子供を異常な低賃金で働かせ、その低料金を達成しているとすれば、どうだろうか?経路にあるトンネル工事でも、やはり同じく食うに困っている立場の弱い人間たちを連れてきては、食べさせてやるから働け、ということで、寝食だけ提供し給料は手数料や食費や家賃として全てピンはねしているとすれば、みんなは乙の線路を利用したいと考えるのだろうか?

乙という会社は、そのような事実をずっと隠して長年やってきたのだ。利用者たちは、ほとんど誰もこのことを知らなかった。それなのに、これをもって「お前らも低料金に飛びついて利用してきたんだから、共犯だ。利用者たちが、過酷な労働を招いたようなものだ」とか言われても、そうした重要な事実を隠蔽してきたのに、どうやって判断することができたろうか?

ましてや、この線路が甲と乙という独占体制ではない場合じゃなく、1社しかない場合だと有無を言わせず利用することになってしまう。利用を回避できない、ということである。あるとすれば、そうした違法行為などを乙という会社が行っていないということを監視するくらいしかないのだ。その監視体制でさえ、ウソで誤魔化されてきたのだとすれば、利用者たちはどうやってそのような違法行為を知るのか?



もう少し例で考えてみる。

A地点とB地点を結ぶ鉄道を乙という1社が運営、経路の途中にトンネル工事が行われたとする。一般利用者たちは、線路のトンネル工事などという専門的なことは分からないので、トンネル検査官に命じて検査させた。すると、検査官は「このトンネル工事は問題ありません、基準にも適合しています」とお墨付きを与えた。
だが、実際には乙という会社が行ったのは、手抜き工事だった。検査官には謝礼を払い、検査合格を認めてもらった。この手抜き工事のお陰で、運賃は低く抑えられて、利用者たちにも恩恵があった。そうした事実はずっと隠蔽されてきた。検査官も鉄道会社も、このトンネルは安全です、と常々言い続けてきた。

しかし、そのトンネルは崩落した。手抜き工事だったからだ。利用者たちは、乙と検査官の癒着体制を批判した。すると、乙はこう言った。
「お前らも低料金の利益を貪ってきたのだから、共犯だ。利権・癒着批判をするのはおかしい」


どうだろうか?

もしもこういう会社があれば、それはおかしいと感じるはずだ。検査官も鉄道会社も重要な情報を隠し続けてきたわけである。利用者たちは、検査官を任命する人間を選ぶことは出来ても、検査官を選べないし、鉄道会社も他の選択はできないのだ。これで、どうやって乙と検査官の隠している情報を知ることができるのか?
トンネルが危険なものであるということを、どうやって判断できたであろう?
危険があるなら、工事のやり直しを命じたはずなのに、乙も検査官も「危険性はないので、その必要はない」と言い続けたのだ。こんなので「お前らも安い運賃で利用して利益享受してきたのだから、同罪だ、共犯だ」とか言われても、ふざけるな、という話だろう。


しかも、独占企業の傲慢体質が身についている乙の会社の職員は、「俺らが働くのを止めれば、鉄道は利用できないが、それでもいいのか」という、強請りまがいのことを言い出すわけである。それは、トップから下の方まで、似たり寄ったり、ということだろうか。

まあ、「サボる」というのはよくある語だが、サボタージュみたいなものだろう。そういうのを防ぐには、独占体制を止めさせることなのだ。
競合会社と競合経路があれば、手抜き工事をしたり、出鱈目な情報を流したり、ウソの説明を繰り返したり、重要な事実や情報を隠蔽したりするような、ロクでもない企業を選択せずとも済むかもしれない。


共犯だの、利権批判するなだのというのが、いかに酷い理屈を並べているのか、というのが、よく分かる。


きちんと正確な情報を出せ、教えろ、と求めても、隠蔽を続けるような会社は、是正措置が必要なのではないか?
検査官と会社がグルで隠し続ける限り、トンネルがどうなっていたのか、他のトンネルが壊れないのかどうか、分かりようがない、ということである。検査官がウソを言っているかどうかを、どのように正確に見分けることができるのか?


「”~批判”批判」の正当性は、疑問にしか思えないのである。




「癒着(利権)批判」批判は自己の立場を正当化したいだけ

2011年05月01日 01時35分57秒 | 社会全般
自分は客観的に物事を見ている、正しく考えられる、みたいな自信の表れかもしれないが、利権や癒着を批判する人々を批判する方々もおられるようである。

全部がダメとも思わないし、一理あるのかもしれない。
が、その物言いには、何一つ共感できないし、説得的とも感じられない。何も言ってないのとほぼ同様だからである。批判者を批判したって、何も出てこないとしか思えないからである。

全く信用できない - dongfang99の日記

(以下、引用部は青字で表記)

 言うまでもないが、もし「利権」「癒着」があったとして(政府の予算がついて回る場所にはどこにもあるに決まっている)*1、今回の事故と因果関係があるかどうかは不明である。完全に競争民営化されていたとして、事故は防げなかった可能性、より深刻化した可能性はいくらでもある。その時は、「市場原理主義的な利益・効率優先の思想が安全性を犠牲にした」という批判が、大合唱で起こるのだろうと思う。要するに、何とでも言えるのである。
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因果関係は不明、というのは、癒着批判者にとっても、それを批判する者にとっても同じでは。何も言ってないのと同じ。それに、
・事故は防げなかった可能性
・より深刻化した可能性
というものを主張するなら、その立論を自ら行うべきである。それをしないなら、自身が述べているように、「”~批判”批判」だって「要するに、何とでも言える」のではないのか。同じじゃないか。

例えば、企業とその会計監査を担当する監査法人(監査人)が癒着している場合、情報は株主や投資家等には一切判りようがない。会計監査は特殊な専門的知識を要し、情報に接することができる人間も限られている。企業を監査すべき監査法人が癒着していれば、部外者である投資家等には、何も分からない、ということだ。このような時、監査法人の癒着を批判せずにいられるのか?
監査法人が監査対象の企業から監査報酬並びにその他個人的利益等を供与されているとして、そうした癒着や利権構造を批判せずに、「会計監査についての不正は防げなかった」とか言えるのだろうか?

東電と保安院の関係が、癒着があったと認定できるかどうかは確信があるわけではないが、監督官庁と東電の関係が上記監査法人と企業との関係に類似しているのであれば、情報が隠蔽されたり非開示となっている限り、一般国民には知りえる機会や判断材料は存在しないというべきである。これを「癒着」と批判して、何が問題だと言うのか。



 だがそれ以上に「利権」「癒着」批判が根本的によくないのは、東電、保安院、原子力安全委員会など、現場の専門家の説明を誰も信じなくなってしまうことにある。現場の専門家が「利権」「癒着」で汚されているという話になれば、たとえ正しいことを言っても、全く信じてもらえなくなる。結果として、人々の間の不信や不安を増幅させ、デマに対する耐性が弱くなり、過剰に危険性を煽る言説が拡散しやすくなり、風評被害や避難住民への差別をより悪化させてしまう。

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別に、利権・癒着批判をするからといって、説明が信頼できなくなるわけではないだろう。根本的には、説明側が必要な情報を隠したり、誤魔化しの説明を繰り返すからそうなるだけではないのか?
もしも会計監査人が「当社は監査企業から利益を受けております、ただし、必要な情報は全て開示します、監査人の倫理規定に従い正当な監査を実施しています」と宣言した場合、その開示された情報について客観性があり信頼に足るものであると判断できれば、「お前ら利益を得ているんだろう、癒着だろ、だからワルだ」といった批判が主流になるとも思われない。

そうではなく、東電や政府・保安院などが情報を隠蔽しているか、ウソの説明―ウソとまでは言わないまでも重要な事実を言わないままに受け手の錯誤を期待するかのような説明をしたりするからこそ、「信頼できない」という評価に繋がるわけで、その由来は「癒着しているからだ」ということになってしまうわけである。
たとえ企業側から利益を得ていようとも、正しい情報提供なり説明なり情報隠しがないという評価があれば、「癒着しているからだ」といった評価には直結しないはずなのである。



個人的には、今回の事故では原子力安全委員会に対する怒りが大きい。保安院や東電はある意味で原発を推進・正当化して「安全性」を強調するのが「仕事」というところもあるが、メンバーの多くが大学に籍を置いている原子力安全委員会は、純粋に科学技術的な見地から危険性を指摘すべき立場にあったはずだからである。原子力安全委員会は東電や保安院に比べても動きがかなり遅く、しかも政府の対応にそれなりの影響を与えているにも関わらず、メディアの露出も多くなく、あまり批判の矢面に立っていない。今回の子ども年間20ミリシーベルという判断も原子力安全委員会によるものだが、さすがに自分もこの場当たり的判断はひどいと言わざるを得ない。原子力安全委員会は、専門家の信頼性を自分たちでどんどんぶち壊しているとしか思えない。

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「”利権・癒着批判”批判」を掲げるこの方は、原子力安全委員会にご立腹のようである。
この人は、監査法人の会計監査人が専門的立場を利用して企業の会計を誤魔化した場合と、どう異なるのか説明できるのだろうか。純粋に会計監査の専門的立場から問題点を指摘すべき立場にあったはずなのが、会計監査人なのではないのか。ならば、監査対象企業と監査人の癒着があれば、どう批判するのだろうか。

一見すると、原子力安全委員会の批判ならば、よくある東電批判とか「利権・癒着批判」と違うので正当化され得るということのようだ。
当該委員会の動きが遅いとか、メディア露出が少ないとか、批判の矢面に立っていないとか、順当そうな批判を並べているのであるが、それは本当に妥当なものなのだろうか。この人は、原子力安全委員会の権限について、どのように捉え評価しているのだろうか。原子力安全委員会は、そんなに強権組織なのだろうか?東電に対して、どういった権限を有しており、行政機関一部としてどのような責任を負っているものと考えているのだろうか。

「怒りが大きい」と評価するほどに、強制力を持つ組織なのか?

つまりは、批判者を批判する、という立場でもって、冷静さとか客観性を持つことをアピールしつつも、本当は理性的でも論理的でもないような批判を掲げていることには、大差ないようにしか思えないわけである。この人の言う、「何とでも言える」ということを、身をもって実践しているようなものだ。
因みに、原子力安全委員会の権限とは、「勧告」ができるだけみたいだが。あくまで「勧告」だ。これがどういうものなのかは、自分で勉強してくれ。


類する意見は、他にもある。

はてなブックマーク - 東京電力叩きに見る、利権を目の敵にする思考の病弊 - 常夏島日記

共通するのは、平たく言えば、他の批判者は病的だが、自分は違う、という確信を抱いているのだろうな、ということである。本当にそうなのか?


正当性を声高に主張する前に、単純に「批判の仕方が気に食わない」ということであるなら、受け入れられたであろうと思う。だが、彼らの物言いは、「他の批判者は病的で不適切で害悪であるが、我らは違う」みたいなものなのだ。だから、こちらもカチンと来るわけである。

利権・癒着批判を批判するなら、まず己の立論を明確にするべきである。
その上で、批判の仕方が気に食わない、批判の手法として不適当である、ということを指摘するべきだ。そして、企業と監査人が情報を隠した場合に、どうやってその問題を解決できるのか、といった、具体的な解決法を提示すべきだ。東電と監督者の場合にも参考にでき得ることだろう。